ソ連からの脱出
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「コンスタンチン・ロジャエフスキー」の記事における「ソ連からの脱出」の解説
1907年にブラゴヴェシチェンスクの公証人ウラジーミル・イヴァーノヴィチ・ロジャエフスキーと妻ナジェーダの息子として生まれる。弟妹にウラジーミル、ナジェーダ、ニーナがいる。ロジャエフスキーは高校卒業後、コムソモールの一員となった。 1925年にソビエト連邦から脱出する。アムール川を渡河して以降の消息は不明となっていたが、1926年に満州ハルビンに滞在していることが判明し、母はソ連当局から出国ビザを受け取りハルビンに向かい帰国するように説得するが、ロジャエフスキーは帰国を拒否したため、ナジェーダは一人で帰国、これ以降母と会うことはなかった。1928年には父と弟もハルビンに脱出し、取り残された母と妹たちはGPUに逮捕された。 ロジャエフスキーはハルビン中露工業学校で法学を学び、在学中に出会ったニコライ・ニキフォロフ(ロシア語版)とゲオルギー・ギンス(ロシア語版)の影響を受け、民族主義・反共産主義に傾倒していき、ロシアファシスト組織(英語版)に参加した。卒業直前の1928年に大学内にソビエト連邦の国旗を掲げることに反対するデモを主導したため大学を追放される。その後、大学におけるソ連の影響力が弱まったため復学し、1929年に卒業する。同年、リディア・マスロヴァと結婚し二子をもうけるが、二人とも夭折している。しかし、1936年にリディアと離婚し、翌1937年にネオリナ・アリシェヴァと再婚した。ネオリナとの間には息子ウラジーミル、娘オリガをもうけた他、夭折した子が一人いる。
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ソ連からの脱出
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1939年の9月、ナチスドイツによるポーランド侵攻を受けてベギンは人口の40%をユダヤ人が占め、YIVOが置かれているリトアニア共和国のビリニュスに亡命する。しかし1940年6月、リトアニアはすぐにソ連軍に侵攻され、多くのユダヤ人とポーランド人(当時のビリニュスの人口はほとんどがポーランド人で占められていた)が連行された。 1940年9月20日、ベギンは『イギリス帝国主義の扇動』を理由に8年の禁固刑を言い渡され、強制収容所に送られた。1941年の6月にはロシア北部のペチョラの強制労働収容所へ移り、1942年の5月まで過ごした。ベギンの手記「White Nights」にはこのペチョラでの尋問や生活の体験が描かれている。 1941年の7月、ドイツ軍によるソ連軍攻撃(バルバロッサ作戦)の後にポーランドとソ連のあいだで交わされたシコルスキ=マイスキー協定(Sikorski-Mayski Agreement)がロンドンで採択されると強制収容されていたポーランド人やユダヤ人が解放され、その中にはベギンも含まれていた。 シコルスキ=マイスキー協定によってソ連領内につくられた東部ポーランド軍のヴワディスワフ・アンデルスの部隊(Army of Anders)への入軍を経て、1942年の8月にソ連から離れ、ペルシア回廊を経由してパレスチナに到着したベギンは、そこで再びバタルの委員メンバーになることと、イルグンに入隊することを要望された。だがヴワディスワフ・アンデルスに軍人としての宣誓を誓い、通訳の仕事も努めていた彼は最初この申し出を断った。しかし、ベギンの退団が認められたためベギンはイルグンに入隊することになる。これにはイルグン側のポーランドに対する何らかの干渉があったとする説もある。 ベギンの家族は1941年6月、他のブレスト・リトフスクにいた約5000人のユダヤ人同様ナチスにより捕らえられ、父親は収容所に送られることも無く射殺、もしくは川に沈められた。また母親と兄のヘルツルもホロコーストにより殺害されたという。
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