スカルノ・指導される民主主義期
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「インドネシアの歴史」の記事における「スカルノ・指導される民主主義期」の解説
1945年憲法を復活させたスカルノが、自らのリーダーシップを維持しようとしていたこの時期、さかんに唱えていたのが「ナサコム NASAKOM」というスローガンである。これは民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力に支持を訴え、挙国一致して国難を乗り切ることをめざすものであった。 「民族独立の父」としての地位、民衆を熱狂させたという弁舌の才とカリスマ性をもちながら、スカルノは自らの特定の支持基盤をもっていなかった。また、独立後から内紛を続けてきたインドネシア国軍は、ナスティオンらによる合理化によって組織の求心力を高めることに成功しつつあり、スカルノにとって国軍は政治的脅威をあたえる存在となっていた。これを牽制するために、スカルノはインドネシア共産党に接近し、その大衆動員力を頼りにした。国軍と共産党は対立関係にあり、スカルノはその両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとした。 1961年12月、オランダの植民地として維持されていたニューギニア島西部(イリアンジャヤ)に「西イリアン解放作戦」として空挺部隊を派遣し、オランダとの戦闘の挙句これを占領した。国際連合の調停の結果停戦し、国連の暫定統治の後、1963年5月、その施政権がインドネシアに移管された。この併合に反対する自由パプア運動やen:National Committee for West Papuaがインドネシア政府に反旗を翻し、パプア紛争(1963年–現在)が起こった。 また、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオ(現在のサバ州)をイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノはこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難し、「対決政策」を宣言した。インドネシアは「マレーシア粉砕」をスローガンに掲げて、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。翌年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどの外交的解決が模索されたが、最終的に現状維持で決着するには後述のスハルトの政権掌握を待たなければならなかった。 この対決政策によって、インドネシアはアメリカ合衆国とIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。スカルノは急速に中国に接近する。1965年1月7日、国連を脱退した。1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからの脱退も宣言した。そのようにして対外政策が進んでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。 詳細は「9月30日事件」を参照 こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノと共産党に対する不満が高まっていった。このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。共産党に肩入れしていたスカルノは苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。その後、スカルノは事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪された。
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