ケマル主義
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「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の記事における「ケマル主義」の解説
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」[要出典]ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。1926年の議会にて「私がトルコだ!」と言い放った逸話が示すように、ムスタファ・ケマルの頭にはトルコしかなかった。ムスタファ・ケマルの口癖の一つは「我々はトルコ人以外の何ものでもない」で、その遺体が一時置かれていたアンカラの民俗博物館の石版には「我が肉体は滅びるとも、トルコ共和国は永遠なるべし」と刻まれている。 ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人から、極めて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名の下に多様な主義主張が語られている。 彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部であるトルコ軍上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。トルコ軍は1960年と1980年(9月12日クーデター)の二度にわたり、ケマル主義からの逸脱是正あるいはケマル主義の擁護を名目としてクーデターを成功させた。 ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。彼の命日である11月10日の9時5分には毎日、トルコ全土で2分間の黙祷が捧げられ、アタテュルク廟ほかなどで記念式典が行われる。 また、イスタンブールには彼にちなんで名づけられたアタテュルク国際空港とアタチュルク文化センター(1969年建設・2021年再建)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。 トルコにおけるこうした徹底的なムスタファ・ケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。[要出典]少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とムスタファ・ケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年の9月12日クーデター以前は、徹底的な政教分離主義(ライクリッキ)はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていた。体制によって民族主義とイスラムの調和が図られ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。
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