アンカラ市長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:30 UTC 版)
「ヴェダト・ダロカイ」の記事における「アンカラ市長として」の解説
1973年、共和人民党の推薦を受けて出馬したダロカイは62%の得票率を得てアンカラ市長に就任した。建築家であった彼はアンカラを「トルコ共和国の本、博物館、またはショーケース」と考えており、世界中からの代表者がアンカラを訪れた際にどのような印象を持ったのかということは彼にとって重要な懸念だった。また、交通渋滞の報告を受けると彼はすぐにアンカラの図面を確認して問題を分析し、実現可能な解決策を示した。 彼は自治体がより強大な権力を持ち自治的になることを望んでいた。彼は圧力団体から脅かされず決定を実行に移した。そのために彼はオフィスで寝泊まりしたり、市役所の職員らと共にハンガーストライキを行ったり、市の建築物を売りに出した。また、社会民主主義者だった彼は毛沢東が死去した際には市役所に半旗を掲げた。 彼は2020年までの見通しに基づき、アンカラの都市問題を解決してインフラを整備することに全力を注いだ。1974年に彼は「地下鉄や鉄道を都市部の交通システムとして建設する」「都市の緑化」「都市人口密度の増加の抑制」「大気汚染の抑制」、そして、ゲジェコンドゥの問題を解決するために低収入の世帯に家と都市環境を提供する「アッコンドゥ計画」を発表した。 彼は世俗的なケマル主義者(ケマリスト)を自負しており、アンカラの歴史をイスラーム時代に限定せず、ヒッタイトやローマ、ビザンツなどの歴史を取り込む考えを支持し、アンカラの市章として、ヒッタイトの太陽を象徴する円形モチーフを採用した。 1976年、彼は右派政党との対立で共和人民党から推薦を受けられず、1期で市長の座を降りた。
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