インヴェイジョン
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「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の記事における「インヴェイジョン」の解説
1982年7月3日から、ヒューマン・リーグの「愛の残り火」(Don't You Want Me) が Billboard Hot 100 の首位に3週間とどまった。この曲は、MTVの放送から相当の追い風を受けており、『The Village Voice』誌は、「まさしく間違いなくこの時点が、MTVが拍車をかけた、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが始まった瞬間だった」と述べた。1982年9月に、MTVがメディアの大中心地であるニューヨークとロサンゼルスでも視聴できるようになると、新たな「ビデオ時代 (video era)」が広く積極的に喧伝されるようになった。同年秋には、もっぱらビデオの力だけでヒットした最初の曲であるフロック・オブ・シーガルズの「アイ・ラン」(I Ran (So Far Away)) が、ビルボードのトップ10に入った。やがて、デュラン・デュランの一連の艶やかなビデオが、MTVの力を象徴するようになっていった。1983年には、ビリー・アイドルの「ホワイト・ウェディング」(White Wedding) と「アイズ」(Eyes Without a Face) がMTVで大きく取り上げられ、2枚目のアルバム『反逆のアイドル』(Rebel Yell) が商業的成功を収めた。同様にチャートの首位に達したポップ・ロックの楽曲の例としては、ボニー・タイラーの「愛のかげり」(Total Eclipse of the Heart)、ジョン・ウェイトの「ミッシング・ユー」(Missing You)、ロバート・パーマーの「恋におぼれて」(Addicted to Love) などがあった。ガール・グループのバナナラマは、「クルーエル・サマー」(Cruel Summer) と「ヴィーナス」(Venus) をヒットさせ、後者はチャートの首位に達した。 音楽産業は、ニュー・ポップ (New Pop) やニュー・ミュージック (New Music)(英語版) という言葉で、カルチャー・クラブやユーリズミックスのような、若く、ほとんどがイギリス人で、両性具有的、テクノロジー志向のアーティストたちを総称するようになった。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちの多くは、パンクの時代にキャリアをスタートさせ、より広い聴衆に変化をもたらしたいと望んでおり、特定の共通したサウンドの響きはないものの、ポップ・ミュージックの文脈の中ではリスクを恐れない精神によって特徴づけられていた。デフ・レパードやビッグ・カントリー、シンプル・マインズなど、ビデオの活用法を心得ていたロック志向のアーティストたちは、イギリスから新たに流れ込む音楽の一部を成した。 1983年のはじめ、ラジオ・コンサルタントのリー・エイブラムス(英語版)は、70曲に及んだアルバム・オリエンテッド・ロック局の顧客たちに対し、新曲を放送する比重を倍増させることを助言した。この年、合衆国におけるレコード売上の 30% は、イギリス人アーティストたちによるものであった。7月16日には、トップ40のうち20曲をイギリス勢が占め、それまで最高だった1965年の14曲という記録を塗り替えた。『ニューズウィーク』誌は、表紙でアニー・レノックスとボーイ・ジョージを取り上げた号に、「Britain Rocks America – Again」(イギリスがアメリカを揺さぶる - 再び)というキャプションを掲げ、『ローリング・ストーン』誌は1983年11月に「England Swings」(イングランドはスイングする)と題した特集号を出した。カルチャー・クラブとデュラン・デュランは、最初のブリティッシュ・インヴェイジョンの際のビートルマニアにも似たヒステリーをティーンエイジャーたちの間に巻き起こした。1984年4月のトップ100のシングルのうち40曲、1985年5月25日の時点ではトップ100のうち25曲、トップ10のうち8局がイギリス勢のものであった。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの最盛期であった1985年には、シンプル・マインズの「ドント・ユー?」(Don't You (Forget About Me)) からティアーズ・フォー・フィアーズの「シャウト」(Shout) まで、イギリス連邦諸国のアーティストたちによる曲が連続8曲、3か月にわたって首位を独占し続け、もし、8月24日付と8月31日付で首位に立ったヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「パワー・オブ・ラヴ」(The Power of Love) がなければ、連続記録はさらに7週間伸びていたはずであった。1985年の映画『ブレックファスト・クラブ』で使用された「ドント・ユー?」は、イギリスのアーティストたちが一連のブラット・パック映画に主題曲を提供した3例の最初であり、これにジョン・パーのチャート首位となったシングル「セント・エルモス・ファイアー」(St. Elmo's Fire)(この曲を首位から引きずり下ろしたのがダイアー・ストレイツの「マネー・フォー・ナッシング」)と、ザ・サイケデリック・ファーズの「プリティ・イン・ピンク」(Pretty in Pink) が続いた。 黒人聴取者向けとされる合衆国のラジオ局も、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちを流した。音楽評論家ネルソン・ジョージ(英語版)は、そうした楽曲がダンスに向いていたことを踏まえ、これを「逆クロスオーバー」(reverse crossover) と呼んだ。音楽ジャーナリストのサイモン・レイノルズ(英語版)はこれを理論付け、最初のブリティッシュ・インヴェイジョンのときと同じように、ワム!やユーリズミックス、カルチャー・クラブ、ポール・ヤングといった、アメリカの黒人音楽の影響を受けたイギリス人アーティストたちが、成功に拍車をかけたのだと論じた。 第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの時期には、既に評価を確立していた、クイーン、デヴィッド・ボウイ、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、ロッド・スチュワート、エルトン・ジョンらも、人気を一層高め、最初のブリティッシュ・インヴェイジョンの時期にまで遡る、ジョージ・ハリスン、エディ・グラント、ホリーズ、ムーディー・ブルースといったアーティストたちも、そのキャリアの最後の時期における大きなヒットをこの時期に出した。ジェネシス名義での曲を合算すると、1980年代のBillboard Hot 100において、他の誰よりも多くのトップ40入りしたヒット曲を生み出したのは、フィル・コリンズであった。
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