ビートルズを越えて
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「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の記事における「ビートルズを越えて」の解説
ビートルズが初めてHot 100に入った1週間後、スプリングフィールズに参加した後にソロとしてのキャリアを始めたダスティ・スプリングフィールドがHot 100に食い込む次のイギリスのミュージシャンとして登場し、「二人だけのデート」で12位を記録した。スプリングフィールドはすぐに他にもヒットを数曲出し、AllMusicによると「当時最良のブルー・アイド・ソウル歌手」となった。1965年になる頃にはブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちの新たな波が押し寄せ、ホリーズやゾンビーズのようなもっとポップなスタイルで演奏をするグループがいる一方、より野心的でブルース志向のアプローチをとるバンドもあらわれた。1965年5月8日、Hot 100のトップ10は2位になったアメリカのグループ、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの"Count Me In"以外、すべてイギリス連邦のミュージシャンの楽曲が占めることとなった。その前の週の『キャッシュボックス』シングルチャートのトップ10についても、6位が"Count Me In"だった以外、ほぼイギリス連邦のミュージシャンが独占した。同年のBillboard Hot 100チャートでトップになった26曲のうちの半分は(1964年から持ち越されたビートルズの「アイ・フィール・ファイン」も含めて)イギリスのミュージシャンであった。イギリスのアーティストが持ち込んだトレンドは1966年以降まで続くことになった。ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちは、イギリス本国の音楽チャートも独占していた。 ビートルズのようなブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちの音楽スタイルは、アメリカ合衆国の初期のロックンロールに影響されていたが、このジャンルはインヴェイジョンの頃までに本国での人気をいくぶん失っていた。しかしながら、後に続いたイギリスの白人ミュージシャンのうち、とりわけローリング・ストーンズやアニマルズのような数少ないグループはブルース、リズム、黒人文化などに根ざした音楽ジャンルを再生させ、こうした楽曲を少なくとも若い人々の間で人気にし、より「アウトサイダー」的な集団にアピールするようになった。こうした音楽は、1950年代にアフリカ系アメリカ人のアーティストが演奏していた時にはおおむね無視されたり拒否されたりしていたようなものであった。こうしたバンドはアメリカの親や年配者たちから、反逆的で不健全だと見なされた。ローリング・ストーンズはブリティッシュ・インヴェイジョンから出てきた中では、ビートルズに次いで最も重要なバンドとなった。ストーンズは8回、Hot 100の1位を記録している。時としてこうしたバンドの演奏スタイルが理解されないこともあり、アニマルズのエリック・バードンはアメリカ合衆国で衣装や発言などを制限されて居心地が悪かったということを述べている。 ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストのうち、スウィンギング・ロンドンの時代のモッズと結びつきの強いものは時として「フリークビート」と呼ばれることもあり、とりわけアメリカのリスナーにはあまり知られていなかったが、アメリカのガレージロックに相当するような音楽を作っていた野心的なイギリスのブルースバンドはそう言われた。プリティ・シングスやクリエイションのようなバンドはイギリスのチャートである程度成功し、よくこのジャンルの典型と言われる。比較的均質な世界規模で展開する「ロック」という音楽スタイルが1967年頃にあらわれ、これがインヴェイジョンの終わりとなる。
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