アクアポリス
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アクアポリス | |
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情報 | |
用途 | 国営沖縄記念公園施設(閉鎖時) |
旧用途 | 沖縄国際海洋博覧会日本政府出展物 |
設計者 | 菊竹清訓建築設計事務所、日本海洋開発産業協会 |
施工 | 三菱重工 |
建築主 | 日本政府 |
事業主体 | 通商産業省 (1975-1976) 沖縄県 (1976-1993) |
管理運営 | 財団法人沖縄国際海洋博覧会協会 (1975-1976) 財団法人アクアポリス管理財団](1976-) |
構造形式 | 立体トラスドラーメン構造 |
敷地面積 | 10,400 m² |
建築面積 | 10,400 m² |
状態 | 解体 |
高さ | 32 m |
着工 | 1973年(昭和48年)10月 |
竣工 | 1975年(昭和50年) |
開館開所 | 1975年(昭和50年)7月19日 |
解体 | 2000年(平成12年) |
所在地 | 〒908 沖縄県国頭郡本部町地先 |
座標 | 北緯26度40分50秒 東経127度52分10秒 / 北緯26.68056度 東経127.86944度座標: 北緯26度40分50秒 東経127度52分10秒 / 北緯26.68056度 東経127.86944度 |
備考 | 1993年(平成5年)11月閉館 |
アクアポリス (Aquapolis) は、沖縄国際海洋博覧会(海洋博、1975年7月19日 - 1976年1月18日)で日本政府が出展した[1]「半潜水型浮遊式海洋構造物」である。税金を123億円を投入して作られ[1]、海洋博では約200万人が同施設を訪れた。世界初の海上実験都市として、また未来の海上都市をイメージして建造された構造物で、海洋博のシンボル構造物だった。
諸元
建造時の参加組織・主要スタッフ
- 出展者:日本国政府
- 総合プロデューサー:高山英華
- アシスタントプロデューサー:内田元亨
- 空間意匠:菊竹清訓
- 展示演出:手塚治虫
- 構造技術:梅住剛
- 基本設計:日本海洋開発産業協会、菊竹清訓建築設計事務所(上部構造)、三菱重工業(下部構造)、大日本水産会(海洋牧場)、長大橋設計センター(アクア大橋)。
- 構造:三菱重工業(本体)、竹中工務店・清水建設共同企業体(内装)、竹中工務店(展示・演出)、三井海洋開発(海洋工事)、海洋牧場共同企業体(海洋牧場)、東洋建設工事、横河橋梁製作所、萱場工業(アクア大橋)[2]。
建築家・菊竹清訓と海上都市
アクアポリスの設計者である建築家の菊竹清訓は、1958年に発表した「海上都市1958」の頃から、海の上に巨大構造物を浮かべて都市を造る構想をたびたび発表していた[3][4][5]。菊竹が海上都市の構想を思いついたのは、三重県・四日市市の沿岸を埋め立てて四日市コンビナートが建設されたのを見学し、貴重な海岸線を守るために何か新しい提案をしなければと考えたことがきっかけだったようだ。陸上で激化する都市過密への対策。世界の文明史が、陸地に築かれ、陸地に繁栄した「大陸文明」が中心だったことに対比した「海洋文明」を築くなどの意義を、菊竹は述べていた[6]。
1970年の後半から菊竹は、ハワイ大学客員教授(ビジティング・プロフェッサー、Visiting professor)として、大学院の学生を指導し、アメリカ海軍、社会学者、オーシャンエンジニアリングなどの関係者と組んでプロジェクトをつくった。1976年のアメリカ合衆国独立200周年記念として、ハワイ・ワイキキ沖3マイルの会場で博覧会を開催し、それを契機に国やハワイ大学の研究所を総合化した、世界初の海上都市を造るという案を、ニクソン大統領が発表した。菊竹が中心となって作成された海上都市の案は、約2分の1マイル、つまり800mぐらいの直径で、人口が夜間1万人、昼間3万人を収容できる、フローティングのストラクチャー(建造物)という内容だった。菊竹は、日本の田中角栄・内閣総理大臣に招かれ、海上都市の説明をした。建築に明るい田中は菊竹の海上都市の解説に熱心に耳を傾け、協力を申し出た。1972年にニクソン大統領と田中がハワイで会談した時には、日米合同で海上都市をつくるという話になった。しかし、アメリカ側からは、候補地を大西洋側・カリブ海に変更するという話が出てきたようだ[7]。やがて、1971年のニクソン・ショック(ドルショック)後のアメリカ経済悪化や、ウォーターゲート事件によるニクソン大統領の辞任などが原因で、NSF(ナショナル・サイエンス・ファンド)の予算が付かなくなり、幻となった[8][9]。
海洋博のシンボル構造物として、アクアポリスが構想されたのは、菊竹による海上都市構想を日本政府関係者が認知していたことや、1970年に開催された日本万国博覧会の展望塔「エキスポタワー」を菊竹が手がけた実績などが影響したと思われる。
菊竹は、アクアポリス完成後も、海上・水上に浮かぶ都市・建築の案を複数作成した。例えば、1976~77年に相次いで構想された、アラブ首長国連邦・アブダビ、サウジアラビアの「フローティングホテル」などである。菊竹は、海に浮かぶ山形断面の「KIC(Kは菊竹、Iは石川島播磨重工、Cは日本長期信用銀行に由来)」も構想した。これは、住居、オフィスを備えた都市ユニットであるが、洪水や地震で被災した人々を収容し、物資を供給するための施設としても考えられていた。1977~78年には、このプロジェクトを応用したプラグイン方式の浮揚構造システム「インフラカセット」を、リビアの地中海沿岸、イラクのチグリス川・ユーフラテス川のために提案した。日本のNIRA総合研究開発機構は、菊竹清訓建築設計研究所に研究を委託し、1981年には報告書「人工浮地盤による沿岸水域利用の可能性」が完成した[10]。
しかし結果的に、菊竹が構想した水上建築で実現したのはアクアポリスのみだった。菊竹の海上都市構想は、のちの「メガフロート」構想の先駆けとなるものだった。
菊竹の弟子である原田鎮郎は、菊竹事務所からの独立後に、運輸省、国土庁、民間の委託などで、海洋に関する調査や研究を続けた[11]。
アクアポリスの構造
アクアポリスは、沖縄国際海洋博覧会の日本政府出展物として、博覧会のテーマである「海-その望ましい未来」を具現するシンボル的存在の建造物として建設された。(社)日本海洋開発産業協会の基本設計[12]、菊竹清訓建築設計事務所の設計の元、1973年(昭和48年)10月から1975年(昭和50年)2月にかけて、広島県広島市中区江波沖町の三菱重工広島造船所江波工場(現・三菱重工広島製作所江波工場)で本体部分が建造された。アクアポリスは自力で航行する推進力を持たないことから、4月18日から3隻のタグボート(瀬戸内海の佐田岬までは補助引き舟2隻・警戒船2隻が同行)で平均5ノットという低速で沖縄本島・備瀬崎の会場沖まで曳航された。内部工事や艤装工事は5月に完了した。
アクアポリス設計時には、1973年にハワイ・カネオヘ湾に模型を浮かべて実験した[13]。菊竹は、アクアポリスの水中基礎をロワーハルにしたのは、沖縄への曳航ではそのほうが都合が良かったからであると述べていた。菊竹は当初、観客が船舶でアクアポリスに出入りすることを考えていた。船で行けば、船よりもアクアポリスの方が波で揺れにくく安定していることが理解できたからだ。しかし、当初は1時間あたり1千人の観客という前提条件だったが、のちに2千4百人に増加したことから、アクセスは橋となった。
沖縄の海域は、台風発生時は最大風速80mであり、フローティング構造にとって条件が悪い。安定性を確保するために、上部構造の仕上材を削り、重量の軽いものに変えた。柱の径は、内部の空洞を利用して、全体が傾いた時の復元力を取るために太くなった。
アクアポリスを、広島の三菱造船所から沖縄に曳航した時には、約3億円の保険を掛けた。イギリスの保険会社ロイズ[14]が検査した。アクアポリスは、建築基準法、船舶法、ロイズによる三重の検査を受けた[15]。
菊竹は2005年に、建築家レム・コールハースのインタビューを受けた。コールハースが、アクアポリスについて「あれは町の1区画分みたいなものですか?」と質問すると、菊竹は「街区としてたぶん100m平方くらいの大きさが必要だと思っていました。あとでアルゼンチンのブエノスアイレスで100m広場を見て、ああ、100m角に決めてとてもよかったと思いました」と述べていた[16]。
アクアポリスは、下部に4基の「ロワーハル(潜水体)」が浮きの役割をしていた。この上に、16本の「コラム(円柱)」が立てられ、上部構造の3層のデッキを支えていた。これらのデッキが、アクアポリスの都市空間だった。16本のアンカーチェーンが、四方の海底とアクアポリスをつなぎとめていた。
沖縄の海上での構造物にとって、心配されたのが台風に対する安全性である。台風などで会場が荒れはじめると、巨大なウインチでアンカーチェーンをたぐりよせ、約200mの沖合に出た。そこでロワーハルに大量の海水を流し込むと、アクアポリスは15mも海中に沈みこみ、半潜水状態となる。こうして安定を保つと、風速60m、波高15mの大シケでも動揺角度5度、上下動7m以下に抑え、最大瞬間風速80mに耐える。海洋博会期中の1975年11月23日には台風20号が接近し、閉館して沖合い移動を行った。建造当時のアクアポリスは、半潜水浮遊式のものでは世界最大の海洋構造物だった[17]。
アクアポリスの主甲板には、48台のテレビ受像機を組み合わせたスクリーンや仮設舞台を持つ「アクアホール」・食堂・医務室・機械室・展示区画が、その上の上甲板にはヘリポートや水耕栽培エリアを持つ「アクア広場」が設けられた。
アクアポリスと、陸地の博覧会場は、長さ約250 mの「アクア大橋」で接続された。この橋のアクアポリス側はアクアポリスの縦ゆれに追従し、アクアポリスが沖合いに避難している間は縮む構造がとられた。
アクア大橋の周辺海域、約5万2千㎡は、延長750 mの網で囲まれた「海洋牧場」だった。約5万匹の魚を放し飼いにし、獲る漁業から育てる漁業へと進む水産システムのデモンストレーション、海上都市で生活する人々の食糧源としての目的があった。海上牧場の海上では、3隻の給餌船が動きまわった。給餌船には、特別な音を出す装置が取りつけられ、餌づけの時間になると鳴り出す仕組みになっていた。牧場内の水中カラーカメラで撮影された映像は、アクアホールのアクアスクリーンに中継された。ブリ、ハマチ、マダイ、ブダイなどが養殖されていた[18]。
開館から解体まで
1975年(昭和50年)7月19日にアクアポリス、海洋文化館・水族館(現在の美ら海水族館が開館する前の旧水族館)を含む海洋生物園・エキスポビーチ、水の階段、水のプロムナード、中央階段、夕日の広場を含む海浜公園の政府出展4館合同の開館式が、当時の三木武夫総理大臣・河本敏夫海洋博担当大臣出席のもと海洋文化館で行われた後、アクア大橋でのテープカット・橋の渡り初め・来賓の館内案内が行われた。
コンパニオンは「アクアメイト」と呼ばれる50名で、海上都市の住民をイメージした未来型(当時における未来志向型)の衣装で案内した。
海洋汚染を起こさないために、アクアポリス内で出たごみを無煙焼却する装置や汚水処理装置・海水の淡水化装置などが設置された。
展示区画にはアクアポリスの動きを紹介する模型が設置され、壁には色のついた液体で半分ほど満たされた透明な管が横に設置され(大型の気泡型水準器をイメージされたい)、船のような揺れを感じないアクアポリスが、実際にはわずかに波で揺れていることを視認できる展示がなされた。また、一部極厚ガラス製の床部分があり、足元から直下の海面を見ることができた。宿泊区画も存在した。 会期中の1975年7月・8月・最終月の1976年1月には、想定収容能力として見込んでいた1日の入館者数16,000人前後にあたる人々がアクアポリスを訪れ、1975年8月23日には最高記録25,121人が入館。1976年1月18日閉館までの総入館者数は2,034,122人に達した。
1975年7月20日 - 1976年1月18日の間、「沖縄海洋博郵便局アクアポリス臨時出張所」が置かれた[19]。

海洋博会場跡地は国営沖縄記念公園として整備され、アクアポリスもシンボル的存在として残された。1976年(昭和51年)3月に2億円で沖縄県に譲渡されて営業を継続した。1980年代後半には喫水が半潜水状態の約15 mに固定され(会期中より沈んだ状態で)、アクア大橋とアクアポリスとの連結部は会期中の主甲板下(エスカレーターで昇って主甲板の展示室に入るようになっていた)から、主甲板と同じ高さの場所に移動された。会期中にアクア大橋と連結されていたエスカレーターと展示部分は撤去されずに残された。
アクアホールでアニメ上映会を開催したり、主甲板にレストランを開設するなど[20]リニューアルが行われたが来館者数が低迷し、本体の再塗装など保守費用の調達も困難となっていった。出資者を募り整備やリニューアルを行う計画などが浮上したが、資金調達の面で現実化しなかった。
アクアポリスの生みの親である菊竹清訓は、日本沿岸を回り、アジア諸国を巡回させる案を述べた。さまざまな人からは、ブラジル・アマゾンまで曳航し、未来都市構想に役立てる。墓地の確保が難しくなっている現状を打開するため、アクアポリスを「海の斎場」にする。海中投棄して魚礁として利用するなどのアイデアが出された。那覇市沖に移動させ、アジアの「食・歌・舞踊」が楽しめるテーマパークにする商業施設として開発を行う計画が、最も現実味のある案とみられていた時期もあった[21]。
錆が進んだ構造本体に一般客を入れることが危険な状態になったため、1993年(平成5年)に閉館した。その後も再開発計画は進まず、2000年(平成12年)10月に米国企業に1,400万円で売却(企業の購入目的は解体処分後の廃材再利用)され、同月23日に上海へ曳航された。
以後はアクア大橋も橋脚ごと撤去され、夕陽の広場近くの元の橋詰めにも石積みがされており、アクアポリスと橋があった跡を確認するのは困難である。
アクアポリスが登場した作品
- ドラマ「特捜最前線」第364話「誘拐・天使の身代金!」(1984年5月16日放送 テレビ朝日) - アクアポリスで撮影ロケが行われ、同回を通し、内部が見られる。
- 公式長編記録映画「沖縄海洋博」(1976年9月18日東宝洋画系にてロードショー公開) - 総監督:松山善三、ナレーター:中村メイコ/愛川欽也 EXPO'75を記録したドキュメンタリー映画。ナレーターの二人の居酒屋トーク様で沖縄や海洋事情を絡め、当博覧会を紹介する。進水後に瀬戸内海を曳航されるアクアポリスの貴重な映像等が観られる。2006年になってジェネオンがDVD化した。収録時間151分。
脚注
- ^ a b 1975年(昭和50年)5月28日『官報』第14518号付録資料版No.884総理府「昭和50年版・観光白書のあらまし」
- ^ a b 泉眞也、寺澤勉「DISPLAY DESIGNS IN JAPAN 1980-1990 Vol.3 エクスポ&エキジビジョン」六耀社、1992年、p44
- ^ 菊竹清訓「海上都市」鹿島研究所出版会、1973年
- ^ 片岡繁人、大川三雄「菊竹清訓の海洋建築に関する研究」平成27年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集、2025年8月21日閲覧
- ^ 作者不明「塔状都市1958ー住むことへの挑戦ー」2025年8月21日閲覧
- ^ レム・コールハース、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト:著、太田佳代子ほか:編「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…」平凡社、2012年、p210、354~358
- ^ 前掲「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…」p149、155、673
- ^ 原田鎮郎「プロジェクトとその手法」菊竹清訓:編著『建築を考える1』所収、鹿島出版会、p141~143
- ^ 「海の都の物語 「米国独立200年記念ハワイ海上都市計画」」三洋テクノマリン株式会社ホームページ、2023年11月10日、2025年8月24日閲覧
- ^ 前掲「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…」p624~627、674~677
- ^ 前掲「プロジェクトとその手法」p145
- ^ 社団法人日本海洋開発産業協会(JOIA)の調査実績 (PDF)
- ^ 前掲「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…」p672
- ^ 菊竹の表記では「ロイド」
- ^ 菊竹清訓「博覧会のプロデュース」『建築を考える1』所収、鹿島出版会、p108~113
- ^ 前掲「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…」p149
- ^ 財団法人沖縄国際海洋博覧会協会「沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック」1975年、p118
- ^ 前掲「沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック」p121
- ^ 1975年(昭和50年)6月11日郵政省告示第391号「郵便局を設置する件」
- ^ 1993年の閉館後も、名護市に移転して営業を継続している。
- ^ アクアポリス 漂流の果ての寂しい末路「沖縄タイムス」2000年10月24日社説
参考資料
- 昭和48年度運輸白書
- 「沖縄国際海洋博覧会公式記録」1976年刊
関連項目
外部リンク
- OPRF 海洋政策研究財団 公式HP 人と海洋の共生をめざして
- DAAS event vol.001_11 菊竹清訓氏 4k映像システム 高精細建築画像の夕べ 建築が土地から離れる アクアポリスYouTube、2007年5月11日、慶應義塾大学三田キャンパスの講演映像
アクアポリス
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「ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜」の記事における「アクアポリス」の解説
スズキが東京湾の人工島に築いた巨大テーマパーク。イルカをモチーフにデザインされた世界初の海底コースターをはじめとして、78のアトラクションが備えられ、アクアタワーとアクアランドから構成される。タワーの上階にはスズキのプライベート・ルームもある。また、スズキの「東京の歴史を問い直す」という意向で江戸東京美術展も開催され、表向き、スズキが慶喜像を集めるのはその展示物という理由だった。また、この美術展用に、盗まれた斬鉄剣も収蔵されていた。
※この「アクアポリス」の解説は、「ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜」の解説の一部です。
「アクアポリス」を含む「ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜」の記事については、「ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜」の概要を参照ください。
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