父さがし
『宇治拾遺物語』巻14-4 遣唐使が、唐にいる間に妻をもうけて、男児を産ませた。男児がまだ幼いうちに、遣唐使は日本へ帰った。唐土の妻は、「遣唐使某の子」と書いた札を男児の首につけて、海に放つ。男児は大魚の背に乗って日本まで運ばれ、難波の浦にいた父に見つけられる。魚に救われたゆえ、男児は「魚養(うをかひ)」と名づけられた。魚養は成長して書道の名手となった。
『熊野の御本地のさうし』(御伽草子) 天竺・摩訶陀(まかだ)国の善財王には千人の后がいたが、そのうちの1人、五衰殿のせんかう女御だけが王子を懐妊する。他の999人の后が妬んで讒言し、五衰殿の女御は山で斬首される。その折、后は王子を産み落とす。王子は山の動物たちや、ちけん聖に養われ、7歳の時に内裏へ参上して父善財王と対面する。王は五衰殿の女御の死を悔い悲しむ〔*類話の『神道集』巻2-6「熊野権現の事」では、「五衰殿の善法女御」「喜見上人」とするなど小異がある〕→〔神になった人〕2。
『古事談』巻6-49 平珍材が美作から上洛する途中、備後国上治郡に寄宿し、郡司の娘を召して腰を打たせているうちに、娘は懐妊した。生まれた子は7歳になった時、郡司に連れられて京の珍材を尋ねて来た。珍材が子を見ると、二位中納言に至るべき相があった〔*『江談抄』第2-26に類話〕。
『山椒大夫』(森鴎外) 厨子王が生まれた年に、父陸奥掾正氏は筑紫の安楽寺へ左遷された。厨子王は12歳の秋に、姉安寿や母とともに岩代の信夫郡の家を出て、父を尋ねる旅をする。母と別れ姉を失った後に、厨子王は都で加冠元服し、筑紫の父がすでに死去していたことを知る。
『浜松中納言物語』冒頭欠巻部~巻1 中納言は少年時に、父式部卿宮を亡くした。父宮は死後数年以上を経て中納言の夢枕に立ち、「私は九品浄土に往生したいと願っていたが、1人息子である中納言への思いに引かれ、現世に転生して唐帝の第三皇子に生まれた」と告げる。中納言は唐へ渡り、皇子と対面する。皇子は7~8歳ほどで、心のうちには中納言を我が子と知りつつ、言葉に出して親子の名乗りをすることはなかった。
『ジャータカ』第7話 ブラフマダッタ王が、遊園のたきぎ拾いの女と同宿し、女は懐妊する。王は、「男児が生まれたらこれを持って連れて来るように」と言って女に指輪を渡す。生まれた子ボーディサッタは、証拠の指輪を持って母とともに王宮を訪れ、副王の位を得る。
『田村の草子』(御伽草子) 将軍俊仁が陸奥の女に一夜の情をかけ、「もし忘れ形見があらば、これをしるしに尋ねよ」と、鏑矢1すじを与えて帰洛する。やがて生まれた男児ふせり殿は、10歳になって父が将軍俊仁であることを知る。彼は鏑矢を持って父を尋ね対面し、名を田村丸(元服して俊宗)とあらためる〔*田村丸は父の跡を継いで将軍となり、鈴鹿山の鬼神・大嶽丸や、近江国の悪事の高丸を討伐する〕。
『大岡政談』「天一坊実記」 8代将軍吉宗は紀州和歌山で生まれ、青年時に腰元・沢の井を愛して彼女は懐妊した。吉宗は、「男児出生ならば将来引き取ろう」とのお墨付きと短刀を渡した。それから20年後、「天一坊」と名乗る僧がお墨付きと短刀を持ち、「自分は将軍の落胤である」と称して、江戸城にある吉宗に対面しようと、やって来た。しかしそれはにせ者だった。
『賀茂』(能) 秦(はだ)の氏女(うじにょ)が、川で拾った白羽の矢を庵の軒にさして置き、やがて懐妊して男児を産んだ。男児が3歳の時、人々が「父は?」と問うと、男児は白羽の矢を指してそちらを向いた。矢は、たちまち雷(いかづち)となって天に昇り、神となった。これが別雷(わけいかづち)の神である。
『播磨国風土記』託賀の郡賀眉の里 道主日女命が父なくして子を産んだ。諸神を集めて酒宴をすると、子は天目一命に向かって酒を奉った。それで天目一命が父であると知れた。
『ペンタメローネ』(バジーレ)第1日第3話 王女が夫なくして男の双生児を産んだ。双生児が7歳になった時、その父親を明らかにするため大宴会が催される。貴族たちの中に父親はおらず、双生児はボロ服のペルオントに駆け寄り頬ずりをするので、彼が父であるとわかった→〔樽〕3。
*父の膝の上に乗る→〔膝〕1aの前田公と徳田のおりんの伝説。
『景清』(能) 平家の武将悪七兵衛景清は、一門滅亡後、盲目の身となって、日向の国宮崎に流された。かつて景清が尾張熱田の遊女に産ませた娘人丸(ひとまる)が、父を捜して宮崎まで旅し、乞食姿で藁屋に住む父景清と対面する。景清は、我が亡き後の供養を頼んで、娘を故郷へ帰す。
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