その活動と業績
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数箇所から手に入れた伝書を解読しようとしたが、昭和30年(1955年)頃には倉吉には風通織を織る人はなくなっており、伝書の文面を見せてもこの複雑な織物の解読できる年配者もいなくなっていた。毎日の織物の合間に日本各地へ出かけ機織りの参考したり、四枚綜絖、八枚綜絖、風通織の伝書を繙き(ひもとき)試織を繰り返し解読していく。 昭和35年(1960年)に沖縄へ行き上布・絣・紅型など染織の探求を行う。この頃より数年間、浪速短期大学(現在の大阪芸術大学短期大学部)の非常勤講師として染色指導を行う。 また、この頃に平松保城(現・東京芸術大学名誉教授)と知り合いになる。たすく氏の作品に惚れ込んだ平松は、「このような愛情のこもった手仕事は、倉吉の土地に残しておくだけではもったいない広く知らしめたい」と阪急百貨店で個展を開くよう提案。平松の紹介で、大阪梅田の阪急百貨店にて「吉田たすく手織展」第一回を昭和36年(1961年)に開催し、多くの反響を得る(以後毎年開催)。 同年「たすく手織研究所」を開き、工房で後輩を指導しつつ、工房を中心とした生活工芸にも芸術性を高めていく。京阪神からは常に数名が弟子入りして倉吉に住んでいた。また、機の改良を行い現代の狭い部屋でも使えるようにコンパクトにたためる織機なども考案して販売している。創作・考案することには優れていたが、宣伝は不得手で表に出ることもなく、静かにこつこつと創作していく人であった。 中学教師の傍ら精力的に染織の創作活動を続け、大阪や東京・銀座での毎年の個展などでファンは増えていった。昭和40年(1965年)東京池袋の西武百貨店美術画廊で個展を行い以後4年にわたり5回行う。その後は銀座8丁目千疋屋の隣りの銀彩堂画廊にて、6年間行いその後は銀座3丁目越後屋画廊で継続開催。 昭和47年(1972年)にインドネシアへ織物研究に行く。翌々年には後に古代染織である「貝紫」を発見した吉岡常雄を団長に、染織家で人間国宝の志村ふくみ、型絵染めの伊佐利彦、染司よしおかの吉岡幸雄、染色家皆川月華、沖縄の紅型から京風の紅型を生み出した初代栗山吉三郎など総勢28名と共にメキシコへ織物研究に行く。 倉吉の伝書を解読し織を試みる一方、沖縄・タイ・インドネシア・メキシコなどへ出かけ織物研究をする中で、曲線織・斜め織を考案。さらにこれらの織り方と綴れ織を併用し、これらの組織を紬の着物に織り込みなどを生かす中から吉田たすくの紬パターンや技も生まれ、現代の着尺や帯やストールなどに使える布として「たすく織」「綾綴織(あやつづれおり)」が生まれていった。
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