その活動と業績とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > その活動と業績の意味・解説 

その活動と業績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:01 UTC 版)

吉田たすく」の記事における「その活動と業績」の解説

箇所から手に入れた伝書解読しようとしたが、昭和30年1955年)頃には倉吉には風通織を織る人はなくなっており、伝書文面見せてもこの複雑な織物解読できる年配者もいなくなっていた。毎日織物合間日本各地へ出かけ機織り参考したり、四綜絖八枚綜絖風通織伝書を繙き(ひもとき)試織を繰り返し解読していく。 昭和35年1960年)に沖縄行き上布・絣・紅型など染織探求を行う。この頃より数年間、浪速短期大学現在の大阪芸術大学短期大学部)の非常勤講師として染色指導を行う。 また、この頃平松保城(現・東京芸術大学名誉教授)と知り合いになる。たすく氏の作品惚れ込んだ平松は、「このような愛情こもった手仕事は、倉吉土地残しておくだけではもったいない広く知らしめたい」と阪急百貨店個展を開くよう提案平松紹介で、大阪梅田阪急百貨店にて「吉田たすく手織展」第一回昭和36年1961年)に開催し多く反響を得る(以後毎年開催)。 同年「たすく手織研究所」を開き工房後輩指導しつつ、工房中心とした生活工芸にも芸術性高めていく。京阪神からは常に数名弟子入りし倉吉住んでいた。また、機の改良行い現代の狭い部屋でも使えるようにコンパクトにたためる織機なども考案し販売している。創作考案することには優れていたが、宣伝不得手表に出るともなく静かにこつこつと創作していく人であった中学教師傍ら精力的に染織創作活動続け大阪東京銀座での毎年個展などファン増えていった。昭和40年1965年東京池袋西武百貨店美術画廊個展行い以後4年にわたり5回行う。その後銀座8丁千疋屋隣り銀彩画廊にて、6年間行その後銀座3丁目越後屋画廊継続開催昭和47年1972年)にインドネシアへ織物研究に行く。翌々年には後に古代染織である「貝紫」を発見した吉岡常雄を団長に、染織家人間国宝志村ふくみ、型絵染め伊佐利彦、染司よしおか吉岡幸雄染色家皆川月華沖縄紅型から京風紅型生み出した初代栗山三郎など総勢28と共にメキシコ織物研究に行く。 倉吉伝書解読し織を試み一方沖縄・タイ・インドネシア・メキシコなどへ出かけ織物研究をする中で、曲線織・斜め織を考案。さらにこれらの織り方綴れ織併用し、これらの組織を紬の着物織り込みなどを生かす中から吉田たすくの紬パターンや技も生まれ現代着尺や帯やストールなどに使える布として「たすく織」「綾綴織(あやつづれおり)」が生まれていった。

※この「その活動と業績」の解説は、「吉田たすく」の解説の一部です。
「その活動と業績」を含む「吉田たすく」の記事については、「吉田たすく」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「その活動と業績」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「その活動と業績」の関連用語

その活動と業績のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



その活動と業績のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉田たすく (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS