風通織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:01 UTC 版)
江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んに織られ、その当時倉吉地方の各家庭では自宅で使う木綿の着尺や布団生地はどれも、家の女手で織られた。 倉吉の娘は皆機(はた)を習った。器用な娘は平織りの絣とは違った織物「絵絣」「そしき織」「風通織」を織った。段々複雑なものが増えるに従い、「縞帳」(自分の織る織物の参考に柄を集めて帳面に貼ったもの)には縞より絵絣が目立つようになっていった。絵絣は字のごとく絵のような絣で松、竹、梅、鶴、亀、大黒や、様々な自然物、器具、字などを柄に取り入れたもので、上手なものはまさに手で書いたような織物あった。 明治初年頃稲を扱く稲扱き千刃(いなこきせんば)が倉吉で開発され、西日本を中心に全国に広まっていったがその稲扱千刃の行商人によって倉吉の絵絣は、全国へ広まっていったのである。その柄の巧みさで各地でもてはやされ、より複雑なものほど高価に売れた。そして更に複雑な織物をめざすようになっていく。これが倉吉の女達の貴重な内職収入源ともなった。 織機は縦糸を上げたり下げたりしてその間に横糸を通して織っていくのであるが、その上げ下げする器具を綜絖(そうこう)といい、2枚使うものが平織りとなり、綜絖が多くなるほど複雑な織物が織れる。 倉吉では平織りの二枚綜絖でなく四枚綜絖で平織りでは出来ない綾織り、浮き織など様々な紋織りや浮き柄の地紋があらわれ、秋田織、八反織、一楽織、星七子織、鎖織、四目織等の名が残っている。中には六枚綜絖、更に高級な十枚綜絖の組織織(そしきおり)も織られるようになった。このような織物を総称して風通織といった。 風通織は表裏別の糸を使い二重組織で織られ、表裏の糸が入れ替わり、交差しているところ以外袋状になっているのが特徴である。一般的に平織りしか織られていなかった時代に複雑な織物は大きな驚きであった。中でも不思議な織り方をする風通織に対しては憧れと畏敬の念をもたれたのである。面倒な組織織は誰でも織れるものではなく、ごく限られた人たちに織継がれていったが、その中の更にごく一部の人により織り方をつたえる伝書が書かれた。 しかし大正時代になると手織りは工業生産に押されるようになり、また、倉吉絣はその柄が手で書いたように高度であったため機械化をすることも出来なかったために絣の仕事は消えていったのである。倉吉地方で誇らしく織られた風通織は、古い家の片隅か、小裂の布として残っているだけとなっていった。
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