その後の天文学の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
「ティコ・ブラーエ」の記事における「その後の天文学の発展」の解説
ケプラーは火星の運動についてのティコの記録を使用し惑星の運動についての法則(ケプラーの法則)を推論し、かつてない精度での各種天文表(astronomical tables)の計算を可能とした(ルドルフ表)。この法則の発見は太陽系における地動説モデルを強力に支援した。 金星が満ち欠けの各段階を完全に備えているという1610年のガリレオ・ガリレイの望遠鏡による発見は、純粋な地球中心的プトレマイオス・モデルを否定した。その後、17世紀の天文学においては地球・太陽中心の惑星系モデルが大勢を占めた。この地球・太陽中心モデルは、金星の満ち欠けについて太陽中心モデルと同じように説明することができ、それに加えて恒星にいかなる年周視差も観測されないという地球中心モデルが持つ欠点が存在しなかった。ティコやその他の天文学者はこれを太陽中心モデルを反証していると見ていた。3つあった主要な地球・太陽中心モデルは、ティコのモデル、フランシス・ベーコン等に支持されたような水星と金星だけが太陽を周回するカッペルのモデル、そして水星、金星に加え火星も太陽の周りを周回し、土星と木星だけが不動の地球を周回するというリッチョーリによるカッペルのモデルの拡張版である。地球を日々自転させる「セミ・ティコ」版('the semi-Tychonic')として知られる形ではあったが、これらのモデル中では、ティコのモデルが恐らく最も一般的であった。セミ・ティコ版のモデルは、ティコの元助手かつ弟子であったロンゴモンタヌスが、1622年の『Astronomia Danica』において主張した。これはティコの観測データを用い、彼の惑星モデルの完成を意図したものであり、完全なティコの惑星モデルの規範とみなされた。ロンゴモンタヌスの作品は重版が重ねられ、後の多くの天文学者によって採用された。そしてロンゴモンタヌスを通じてティコの体系は遠く中国の天文学者たちによっても採用された。 熱烈な反太陽中心モデルの主張者だったフランスの天文学者ジャン=バチスト・モランは1650年に、楕円軌道を巡る、ティコの惑星モデルとティコ版の『ルドルフ表』の簡略版を考案した。ティコの体系は17世紀を通じてある程度採用されており、18世紀初めまでは使用されていた。このモデルは(コペルニクス論争についての1633年の判決の後)、イエズス会に端を発する「親ティコ文学の洪水(a flood of pro-Tycho literature)」によって支援された。イエズス会の親ティコ派の間では、1691年にイグナス・パルディ(英語版)がティコの体系が未だ一般に採用されている体系であると宣言し、フランチェスコ・ビアンキーニ(英語版)が1728年までそれを繰り返した。ティコの体系への固執、とりわけカトリック諸国におけるそれは、ティコの体系が(カトリックの教義と関係して)「古代と現代の安全な接合」を行う必要についての要求を満足させる性質を持っていたことによる。1670年以降においても、多くのイエズス会の著作家は、コペルニクス的な考えを僅かに秘めるのみであった[訳語疑問点]。しかしドイツ、オランダ、そしてイングランドではティコ体系は「遥かに早く文献から消え去った」。 1729年に公表されたジェームズ・ブラッドリーによる光行差の発見は最終的にティコのものを含むあらゆる地球中心説が成立しないことを示す直接的な証拠を提供した。光行差は観測された恒星や惑星から来る光の速度が有限であることと共に、観測された天体の見掛けの方位に影響を及ぼし、地球が太陽の周囲を1年周期で公転しているという想定に基づいてのみ満足に説明が可能であった。
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