その後の天竜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:55 UTC 版)
星野直樹満州国総務長官に勧誘されて満州へ渡り、満州国武道会の常務理事・角道部委員長として相撲の普及・育成に尽力したほか、1938年には社会人主体の相撲協会と南満州鉄道主体の相撲連盟を統合した「満州角道会」を結成、さらに日本相撲協会の満州準本場所の開催や神武殿の落成に尽力した。これらの功績が認められ、1948年には吉田司家から故実門人免許が本名の「和久田 三郎」として授与されている。 終戦後は日本に帰国し、東京・銀座でスポーツ用品店、餃子料理店「銀座 天龍」(現存)を開業した。のちに請われてラジオ東京の大相撲実況中継で解説者を務め、同時代の玉ノ海梅吉・神風正一と並んで人気があったが、極端な毒舌ぶりで、人気力士の貴ノ花利彰に対しても「あれは兄の人気の上に乗っかっているだけ」と吐き捨てたほどである。それでも富士櫻栄守に関しては「あれほどの力士はいない」と終始絶賛していた。 1957年には協会のあまりの守旧的な体質が問題視された協会問題について、衆議院文教委員会に参考人として出席、往年の主張を公に繰り返す機会を得た。この時、公然と協会を批判したことで、ラジオ東京が自主的な配慮から天竜を降板させると「協会からの圧力ではないか」といった抗議が多く寄せられたため、急遽聴取者からの質問に天竜が答える特別番組を放送して対応することとなった。 1978年からは鹿島神武殿の理事長を務めた。1989年8月20日、牧田記念病院で死去、85歳没。
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