その後の大山崎と離宮八幡宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
「大山崎油座」の記事における「その後の大山崎と離宮八幡宮」の解説
かつて荏胡麻油で市場を席捲した大山崎油座の崩壊と連動するかのように、近世に入ると菜種油が主流となり、荏胡麻からの搾油も次第に行われなくなっていった。しかし、大山崎が製油の中心地としての地位を失った後も、離宮八幡宮は油売買の守護神として全国の商人から崇敬され、毎年12月には油商人が山崎に集まり、「判紙の会」という儀式が行われていたという。とはいえ、前述の如く氏子組織もなかったため、離宮八幡宮は衰微に傾く一方であり、江戸時代を通じて次第に日使頭祭は行われなくなっていき、明治維新後には完全に断絶した。 このような窮状を見かねた東京油問屋市場の呼びかけにより、昭和61年(1986年)に製油業界有志により「油祖離宮八幡宮崇敬会」が設立され、日清製油(現日清オイリオ)会長坂口幸雄が代表発起人に就任。翌年には日使頭祭を復活させ、以後毎年4月3日に行われるようになった。現在の離宮八幡宮には、本邦製油発祥地碑・油祖像・全国油脂販売店標識など、製油業にまつわるモニュメントが多く設けられ、毎年9月15日に開催される秋の例大祭も「油座まつり」と呼ばれている。
※この「その後の大山崎と離宮八幡宮」の解説は、「大山崎油座」の解説の一部です。
「その後の大山崎と離宮八幡宮」を含む「大山崎油座」の記事については、「大山崎油座」の概要を参照ください。
- その後の大山崎と離宮八幡宮のページへのリンク