有馬頼義(ありま・よりちか)
1918年(大7)、東京青山生まれ。父は伯爵の有馬頼寧で、近衛内閣の農相時代に農民文学懇話会を設ける。戦後は中央競馬理事長となり、「有馬記念競馬」の名前の元となった。しかし、戦犯指定を受けて、巣鴨に拘置され、財産は差し押さえられた。母は皇族は北白川家の出。
1937年(昭12)に短編集「崩壊」を出版。その原稿料を受け取ったことが原因で、教師の怒りをかい、高校を放校になる。
父が拘置され、財産を差し押さえられたため、カストリ雑誌に小説を書きまくる。
1944年(昭19)、「晴雪賦」により第4回国民演劇脚本情報局賞を受賞。
1950年(昭25)、「改造」の第一回懸賞に「河の唄」が選外佳作に入選。この作品は林芙美子に送っていた。
1951年(昭26)、「文芸春秋」の懸賞に「皇女と乳牛」が入選。
1954年(昭29)、同人であった「文学生活」に発表した「終身未決囚」により、第31回直木賞受賞。
1956年(昭31)、初の探偵小説「三十六人の乗客」を「オール読物」に掲載。
1957年(昭32)、文壇作家の探偵小説勉強会「影の会」を発足。翌年には使命を終えたとして解散。
1957年(昭32)に「文藝春秋」に発表した「白猫のいる家」が1958年(昭33)に第11回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。同時に日本文藝家協会の「創作代表選集 21(昭和32年後期)」に収録される。
1958年(昭33)に「文芸春秋」に発表した「バラ園の共犯者」が日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1959年度版」に収録される。
1958年(昭33)に「週刊読売」に発表した「四万人の目撃者」が、1959年(昭34)、第12回日本探偵作家クラブ賞を受賞。最初はこの作品を野球小説であるとして、受賞を辞退していたが、江戸川乱歩の勧めで賞を受けた。
1959年(昭34)、「リスとアメリカ人」を「週刊サンケイ」に発表。
1964年(昭39)、成蹊大学野球部監督に就任し、東都大学リーグ三部で二度優勝。また、ノンプロチーム「東京セネターズ」のオーナー兼監督兼投手でもあった。
1970年(昭45)、「早稲田文学」編集長に就任。
1972年(昭47)に「オール読物」に発表した「孤立の思想」は日本文藝家協会の「現代の小説 1972年度前期代表作」に収録される。
1972年(昭47)、川端康成の自殺に衝撃をうけて、ガス自殺を図るが未遂。
1973年(昭48)には「東京空襲を記録する会」理事長に就任。
松本清張と並ぶ社会派の双璧と目される。
1980年(昭55)、脳溢血により死去。
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