『サイコ』と『鳥』
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「『サイコ』と『鳥』」の解説
1959年4月、ヒッチコックは『北北西に進路を取れ』の次回作にヘンリー・セシル・レオン(英語版)の小説『判事に保釈なし(英語版)』の映画化を企画し、主演にオードリー・ヘプバーンを予定したが、実現には至らなかった。同年盛夏までには、実話に基づくロバート・ブロックの小説が原作の『サイコ』を代わりの次回作に決め、ジョセフ・ステファノに脚本を依頼した。後年にヒッチコックは、原作の「シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さ」だけで映画化に踏み切ったと述べている。しかし、パラマウントの重役は「母親の服を着て、騒ぎを起こす狂人のばかばかしい話」だとして映画化を渋ったため、ヒッチコック自身が製作費を負担し、同社が配給のみを行うという条件で製作が決定した。ヒッチコックはできるだけ短期間かつ低予算で作品を完成させるため、『ヒッチコック劇場』で経験したテレビの早撮りの手法とテレビのスタッフを活用した。撮影は1959年11月から1960年1月の間にレヴュー・スタジオ(英語版)で行われたが、ヒッチコックは作品の内容が漏れないようにするため撮影を極秘のうちに進めた。 ヒッチコックはこの作品のために、自らが出演する予告編を作成したり、内容を口外しないように求める広告を出したりして大がかりな宣伝キャンペーンを展開し、初めて映画館で途中入場を禁止する興行方針を定めた。1960年4月からはこの作品の宣伝とプレミアの出席のため、アルマと世界一周旅行を兼ねて日本や香港、イタリア、フランスなどを訪れた。6月に一般公開されると批評家や観客の間でさまざまな反響を呼び、その年で最も観客を動員し、物議を醸した映画となった。製作費が約80万ドルに対して、興行収入は1500万ドルを記録し、ヒッチコックのキャリアの中で最も収益性が高い映画となった。公開当時の批評家の多くは好意的な批評を与えなかったが、後にその意見は翻った。第33回アカデミー賞では5度目の監督賞ノミネートを受けた。後年に『サイコ』は最も有名なヒッチコック作品と言われ、とくにシャワールームでの殺人シーンは映画史上の名場面に数えられ、さまざまな研究や分析がなされた。 ヒッチコックは『サイコ』の次作として、ロベール・トマの戯曲『罠(フランス語版)』の映画化や、原爆投下の使命を帯びた飛行士が主人公の『星の村』、ディズニーランドを舞台にしたサスペンス『盲目の男』を企画したが、いずれも実現はしなかった。1961年8月、ヒッチコックはすでに映画化権を購入していたダフニ・デュ・モーリエの小説『鳥(英語版)』の映画化を決め、原作からは「ある日突然、鳥が人間を襲う」というアイデアだけをいただき、エヴァン・ハンターと脚本を作成した。1962年2月にはMCAの子会社となったユニバーサル・ピクチャーズと5本の映画を作る契約を結び、スタジオ内の広々とした専用のオフィスに移転した。それと同時にヒッチコックはMCAとの契約で、自身が所有する『サイコ』と『ヒッチコック劇場』のすべての権利と引き換えに、MCAの約15万株を手に入れ、同社で3番目の大株主になった。 『鳥』はユニバーサルとの契約の1本目であり、1962年3月から7月の間に撮影が行われた。主演にはヒッチコックがテレビCMで見かけた元モデルの新人ティッピ・ヘドレンを起用したが、後年にヘドレンは撮影中にヒッチコックからセクハラを受けていたことを明らかにした。ヘドレンの自伝またはスポトーの伝記によると、ヒッチコックはヘドレンが男性俳優と交流したり触れたりすることを禁じたり、彼女だけに聞こえるように卑猥なことを言ったり、スタッフに彼女の行動を見張らせたりしたという。『鳥』は1963年3月に公開され、興行収入は最初の数か月で1100万ドルをあげたが、批評家と観客の意見は賛否両論となった。
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