「開目抄」
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文永8年(1271年)10月10日に依智を出発した日蓮護送の一行は、10月28日、佐渡に到着し、11月1日、配所である塚原三昧堂に入った。日蓮には日興など数人の弟子が随行していた。塚原三昧堂は、名前の通り墓(塚)のある野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく、極めて厳しい環境だった。 配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、妙法蓮華経(法華経)の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は、今後の弘教のためにもこの疑問に答える必要があった。 日蓮は、この疑問に答えるために、まず末法の衆生が帰依すべき主師親の当体を儒教(中国古代思想)、外道(インド古代思想)、内道(仏教)の検証を通して明らかにしようとする。仏教とそれ以外の宗教の検討の後、さらに仏教内部の教について大乗教と小乗教、大乗の中でも妙法蓮華経(法華経)とそれ以外の経、妙法蓮華経(法華経)の中でも前半(迹門)と後半(本門)、本門の中でも文上本門と文底本門との勝劣を論じ、結論として妙法蓮華経(法華経)の文底本門の教である南無妙法蓮華経が末法に弘通すべき正法であることを明らかにしていく。日蓮教学において、それぞれの教の比較は、①内外相対、②大小相対、③権実相対、④本迹相対、⑤種脱相対の「五重の相対」として議論される。 「開目抄」では、教の検証を通して諸宗が教の浅深勝劣を知らずに謗法を犯しており、日蓮こそが教の勝劣を正しく知る真の行者、すなわち末法における主師親の主体であることを明らかにしていく。「開目抄」に示された「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず」との三大誓願は主(柱)・師(眼目)・親(大船)の表明と解される。 その記述を通して先の疑問に対する答えが示される。すなわち行者に諸天善神の加護がない理由として、①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのはむしろ当然である、②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるからである、③迫害者に順次生に地獄に堕ちる重罪がある場合には現世に現罰は現れぬ④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているためである、という4点を示してその回答としている。 「開目抄」が完成した文永9年(1272年)2月、鎌倉と京都で幕府内部の戦闘が生じた(二月騒動)。幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟と北条時宗の庶兄で六波羅探題南方の職にあった北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺した粛清事件である。日蓮が「立正安国論」で予言した自界叛逆難が現実のものとなった。
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