種脱相対(しゅだつそうたい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 00:48 UTC 版)
「五重相対」の記事における「種脱相対(しゅだつそうたい)」の解説
日蓮正宗および富士門流などでは、教観相対ではなく、この種脱相対をもって五重相対の最後とする。 それは、法華経寿量品において釈尊の文上脱益の仏法と、日蓮の文底下種仏法を比較相対する法門である。仏法では、衆生が仏の法によって成仏を遂げる過程を、種・熟・脱の三益(さんやく)をもって説く。 種とは、下種(げしゅ)のことであり、「仏種」つまり仏になる種が下されていることをいう。 熟とは、蒔かれた「種」を実らすことであり、俗世の修練・修行が実をむすび多くを覚り、悟りに近づくことをいう。 脱とは、解脱(げだつ)のことであり、煩悩等から脱け出し悟りに至ることをいう。 下種と解脱の詳細は三益の項目を参照 成仏の法について日蓮は、 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄 新編656頁) と、釈迦存命においては寿量品を中心とした一品二半が脱益の法となり、末法においては、題目の五字が下種益の法となることを明示した。 また、 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄 新編526頁) と述べられ、法華経寿量品の文底に秘沈した南無妙法蓮華経こそ、文底下種・本門事の一念三千の法門であると明かした。 この南無妙法蓮華経とは、久遠元初の本仏所有の法であり、すべての仏が悟りを開くために修行した根本の法なのである。さらに日蓮は教主の相違について、 「仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり」(本因妙抄 新編1680頁) と示され、「熟脱の教主」とは久遠実成の釈迦であり、「下種の法主」とは、末法において久遠元初の本法である妙法を下種される上行菩薩として自らを認識した日蓮自身であると明かした。したがって種脱相対により、末法の上行菩薩として日蓮の説く教説である、南無妙法蓮華経こそが、一切衆生を救済せしめる根源の本法であることが明らかとなるのである。 つまり、釈迦の説いた法華経本門の経文上では、過去世に下種した本已有善(釈迦との機縁がある)の正法時~像法時の衆生を成仏せしめる脱益の教説であるとする。これに対して、過去世に下種を受けていない本未有善(釈迦との機縁がない)の末法時の衆生には、釈迦の説いた法華経では無益であり、過去の暦のように用をなさない意味のないものである。従って、法華経本門の文底にある、本因妙・文底下種益の南無妙法蓮華経を信受けなければ成仏し得脱することはできないとする。 日蓮正宗などでは、権実・本迹・種脱を三重秘伝と呼び、特に種脱相対をもって日蓮の出世の本懐・文底独一本門・事行の一念三千を明かしたとする。この種脱相対は日蓮正宗のみに伝えられてきた法門であり、諸宗各派が知らないところから秘伝と称する。
※この「種脱相対(しゅだつそうたい)」の解説は、「五重相対」の解説の一部です。
「種脱相対(しゅだつそうたい)」を含む「五重相対」の記事については、「五重相対」の概要を参照ください。
- 種脱相対のページへのリンク