百六箇抄を相伝書と見る立場の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 15:43 UTC 版)
「百六箇抄」の記事における「百六箇抄を相伝書と見る立場の主張」の解説
種脱相対は日蓮自身が観心本尊抄で「彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れはただ題目の五字なり」と述べており、富士門流の恣意的な主張ではない。 百六箇を書き連ねるという文章の体裁と文体は、日蓮の他の著作には見られないが、それは相伝書という特殊な文書であるからである。日興と同時代の文献には百六箇抄と類似した形式の文書も存在しており(例えば、日興の高弟である三位日順の「開山より日順に伝わる法門」)、特殊な体裁であるからという理由で百六箇抄を偽書とすることはできない。 百六箇抄は当初の形のものに後世の人間が加筆した部分が多く存在していると見られる。百六箇抄を富士宗学要集に収録した大石寺第59世日亨は、六老僧について言及した箇所、また日興を白蓮阿闍梨と呼称した箇所は後世の人間が加筆した部分であるとしている。 富士戒壇論は一般の日蓮遺文には存在しないが、日興が高弟に指示して作成させた「富士一跡門徒存知の事」と「五人所破抄」には富士戒壇論が明示されている。そこで、富士戒壇論は日興が日蓮から相伝された法門の一部と考えられるので、百六箇抄に富士戒壇論があることをもって同抄を偽書とすることはできない。
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