「武士」の認定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
郎党ではなく、侍としての「武士」の認定は、なによりもまず、武官であることだろう。平将門の乱以降は、その平将門を滅ぼした天慶勲功者、藤原秀郷、平貞盛、平公雅、そして源経基の子孫達が、「朝家の爪牙」となっていったが、その彼らが兵(つわもの)として認識されるには、一定のプロセスが必要であった。個人としてはまずは武官の地位を得ることだろう。近衛府、兵衛府は形骸化し、実際には衛門府と、左衛門尉が兼任する検非違使、馬寮、そして滝口、武者所、院政期においては北面下臈(いわゆる北面武士)である。 家系としての「兵の家」の形成過程で忘れてはならないのが、10世紀後半に現役武官ではないのに「朝家の爪牙」として動員されたことである。「大索(おおあなくり)」「盗索(ぬすびとあなくり)」と呼ばれ「武勇に堪えたる五位巳下」として天慶勲功者の子孫達が招集された。 『扶桑略記』960年(天徳4年)10月2日条に、平将門の子が入京したとの噂に対して次ぎのような措置が取られたとある。 右衛門督朝忠朝臣に勅して、検非違使に仰せて捜し求めしむ。また延光をして満仲・義忠・春実等に対仰せしめて同じく伺い求むべし。 つまり、本来その任にあたる検非違使とは別に、天皇から、武官以外には禁止されていた弓箭を帯びての招集を受け、その任務の間、馬寮より官馬が支給される。こうして朝廷は市中にその「武威」をアピールして治安維持を行う。一方、召集された側の家系は「朝家の爪牙」として自己をアピールし、その後の時代に「兵の家」としての認識を定着してゆく。「大索(おおあなくり)」は結果的には官職によらず「武」を担う、「兵の家」の最初の認定式であったとも言える。 その「兵の家」が定着していくのは、ちょうど藤原道長の時代からであり、「武」に限らず、貴族社会全般に「家格」と「家業」が固定化の方向へ向かう流れの中での出来事である。それは、京の治安維持に必要な武力が、旧来の武官や、随身だけでは間に合わなくなり、平将門の乱での「朝家の爪牙」の役を果たした「兵の家」が、「家業」として、「武」を請け負いはじめるということでもあった。 『今昔物語集』巻19第4話「摂津守満仲出家せる語」の出だしは次のようにはじまる。 今昔、円融院の御代に、左の馬の頭(かみ)源の満仲といふ人有けり、筑前守経基と云いける人の子也。世に並び無き兵(つわもの)にてありければ、公(おおやけ:ここでは天皇)も此を止ん事無き者になむ思しめしける。亦、大臣、公卿より始めて、世の人皆此を用いてぞ有りける。 源満仲は、安和の変などの印象から、藤原氏本流に臣従していたイメージが強いが、天皇を始めとして臣、公卿などに必要に応じて起用されていた、つまり支配階級全体に奉仕する傭兵部隊としての色彩がここから感じられる。 「家業」として「武」を請け負う彼らは、それを全うするために、自分自身の武力として家の子・郎党を養う。摂津守源満仲の多田荘は、まさにそのような兵站基地であり、かつ家の子・郎党の軍事訓練(狩り)の舞台でもあった。この段階での彼らは在京の官人、あるいは受領であるとともに、ひとつの「武士団」の長でもあった。 ただし、この段階での「武士団」は、それぞれの単位ではさほど多いものではない。『今昔物語集』の「摂津守満仲出家せる語」には500との数もあるが、それは『今昔物語集』が書かれた12世紀初めの段階での当時最大の都の武士団の印象を元にした誇張・文飾だとされる。 それほど多いものではないという理由は、当時必要とされた武力は、京の治安維持、要人の護衛、受領として赴任する際に引き連れ、在庁官人を押さえる程度のものであり、大規模な争乱などほとんど無かったこと。及び、京においては他の軍事貴族(京武者)と同盟し、あるいは盟主として、彼らを郎党ともしていた為である。「兵」の需要はあったがそれほど大きなものではなかったともいえる。 満仲は一方で、全国三十余か所に屯したとされる坂上党武士団の棟梁坂上頼次を摂津介に任命し、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して多田荘の警衛にあたらせている。
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