「ミンスミートは丸呑みされた」
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「ミンスミート作戦」の記事における「「ミンスミートは丸呑みされた」」の解説
3日後、スペイン駐在のイギリス海軍武官(Military attache)は死体が発見されたことを報告し、委員会はその通知を受けた。死体はイギリスの副領事のヘーゼルデン (F. K. Hazeldene) に引き渡され、マーティン少佐は5月4日に完全な軍儀礼のもとにウエルバで埋葬された。 副領事は病理学者エドアルド・デル・トレノによる検死をアレンジした。デル・トレノは、この男は生存したまま無傷で海中に転落し、溺死して、死後3から5日経過していると報告した。病理学者は、彼の首にかかった銀の十字架や財布の中にあった聖クリストフォロスの肖像から彼をローマ・カトリックの信者と判断して、さらに徹底した検死を行わなかった。これらは、まさに詳細な検死を思いとどまらせるために意図的に持たされたものであった。 モンタギューはドイツ軍がチェックする場合に備えて、6月4日の『ザ・タイムズ』に掲載されたイギリス軍の戦死者リストにマーティン少佐を含めさせた。偶然の一致で、航空機が海上で遭難したために死亡した他の2名の士官の名前も掲載されており、マーティン少佐のストーリーに信憑性を与える結果となった。さらなる計略のために、海軍本部は海軍武官に、マーティン少佐が運んでいた書類に関する数通のメッセージを送達した。武官は至急書類の所在を確認し、もしそれらがスペイン側の手にある場合は、いかなるコストを払っても取り戻すように、しかし、スペイン側にその書類の重要性を気取られることは避けるように指示を出した。ブリーフケースと書類はスペイン海軍が回収しており、5月13日にスペインの海軍参謀総長 (Chief of Staff of the Navy) から「すべてここにある」という保証とともに武官に返却された。 しかし、イギリス軍は書類がスペイン当局によって調べられたこと、その内容がドイツ軍に達していることについては確信があった。 事実、ドイツ軍は自身の手で書類を検分していた。死体が発見された際、それはウエルバのアプヴェーアのエージェントであるアドルフ・クラウス (Adolf Clauss) に通報された。彼はドイツ領事の息子であり、農業技術者という肩書きのもとに任務を行っていた。彼は書類の所在を報告したが、自身の手では入手することはできなかった。後にスペインの当局者が開封し書類を撮影した(ドイツ人は再封印された封筒を検分した)。コピーは、アプヴェーアに渡され、即時にベルリンへ無線でテキストが送られ、数日後に写真コピーも送付された。唯一イギリス軍が不自然だと懸念した体と書類が入ったブリーフケースをつなぐ鎖についてはスペインに展開したドイツの情報部員の質が低いことも手伝ってドイツに伝えられることはなく一切無視された。 モンタギューたちは手紙の封印が解除されたかわかるように処置を行っていた。返却後の検査により、イギリス軍は封筒が開封され再封印されたことを知った。ウルトラ(Ultra、世界初のコンピューターコロッサスを擁する暗号解読チーム)からの確認情報もあり、その時、米国滞在中であったチャーチルへのメッセージ「ミンスミートは丸呑みされた」が打電された。 この書類は本当に丸呑みされた。モンタギューと彼のチームがマーティンの身上を創り上げるのに惜しみなく配った配慮は報われていたのである。かなり後で彼らは知ることになるのであるが、ドイツ人達は劇場のチケットの半券の1943年4月22日という日付に着目し、それが本物であることを確認していた。ドイツ軍はマーティン少佐の全ての個人的な詳細に注目し受け容れていたのである。 ドイツ人達は半券の日付から、マーティンはイギリスからジブラルタルへ空路で向かったと結論した。皮肉なことに、報告書は日付を間違えており(4月22日のかわりに4月27日になっていた)、墜落は4月28日に起こったと結論した。ところが、医学的な証拠は4月30日まで数日間海中にあったことを「示して」いた。しかし、ドイツ軍はこの矛盾に気づかず、結局彼ら自身のエラーを相殺してしまった。 その結果、ヒトラーは偽装文書の真実性を確信し、シチリアが最もあり得る侵攻ポイントであるというムッソリーニに同意せず、シチリア島へのいかなる攻撃も陽動作戦と見なすことを主張することになったのである。 戦後アプヴェーア関連のファイルが押収され、イギリス軍により取調べられた。アプヴェーアはこれらの書類には信憑性があると宣言しており、ドイツ軍上層部に供覧されていた。ファイルのコピーには、カール・デーニッツ元帥と国防軍最高司令部総長であるヴィルヘルム・カイテル元帥を含む上級士官のイニシャルと送り書があった。シチリアが攻撃されるというムッソリーニの確信に対して、ヒトラー自身による、非同意を示すコメントもあった。 ヒトラーはサルデーニャとコルシカ島の軍備増強を命令し、この結果、以下に挙げるようにドイツ軍の防衛に対する労力は、無視できないほど別の方向に向けられることになった。 追加の軍勢がシチリアではなくサルディーニャとコルシカ島とギリシャに派遣されることになった。これらには、はるばるフランスからギリシャに向かう完全なパンター戦車部隊1個師団も含まれていた。 ギリシャ沖に3つの追加の機雷原を敷設し、Rボートの一群をシチリアからギリシャに配置換えした。反面、シチリア防衛のための割り当てられていた警備艇と掃海艇および機雷敷設艇は手薄となった。 エルヴィン・ロンメル元帥を、軍集団を創設するためにアテネに派遣した。 パンター戦車部隊2個師団をそれを最も必要としていた東部戦線からギリシャに配置換えした。 これらの労力は全くの浪費と戦力拡散であり、シチリアへの侵攻を非常に容易にする結果となった。 おそらく、上記の最後のものは最も致命的な動員であったろう。特にこの時点で、ドイツ軍はロシア軍とのクルスクの戦いの開戦準備をしていたのである。この東部戦線での大きな影響については、計画したイギリス軍の機関の意図あるいは予想には全く含まれていなかったであろう。彼らは戦争の自分達自身のパートに関わっていただけなのである。 7月9日、連合国軍はハスキー作戦によりシチリアに侵攻した。ところが、ドイツ軍は続く2週間に渡って、メインの攻撃はサルデーニャとギリシャに向けられると確信したまま、事態が手遅れになるまで軍勢を出動させなかった。 ユーエン・モンタギューは、ミンスミート作戦の働きに対して大英帝国勲章を授与されることとなった。
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