昭和金融恐慌 概要

昭和金融恐慌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 04:44 UTC 版)

概要

日本経済第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業銀行不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災による経済混乱に対応するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言[1]したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相(田中義一内閣)は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。

背景

昭和金融恐慌の原因としては、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。

遠因

金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切になされず、金融不安を起こすに至った。大正期からこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てがなされる前に恐慌が発生した。

銀行

明治維新期に西洋の経済をモデルとして多くの銀行が設立されたが、その中には、俸禄改革における金融公債(秩禄公債金禄公債)を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず公債の資金化を動機とした、いわばなりゆきであったために金融の事情に不案内な者[注 1]が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。

日露戦争後には経済が発達し、これに応じるために銀行の設立が推奨された。1890年(明治23年)に改正された銀行条例では、銀行業は一般の私企業とみなされ資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものであった。この時期、資産家が銀行を設立することや、資金に余裕のある私企業が銀行業を兼業することも行われた。また、特定の企業への融資額を制限する規制条項も撤廃され、融資先が偏る情況を許した[注 2]

特定企業と結びつきの強い銀行を指して俗に機関銀行という。資産家が豊富な資金を元手に設立したり、私企業の兼業で設立した銀行で、集めた預金を特定企業の業務遂行に充てる。資金を特定の企業に集中して融資することから、その企業の業績が悪化した場合には直接銀行経営が悪影響をこうむる。また、貸出先企業の不透明な経理の影響を蒙って経営が悪化することもしばしばあった。

また、欧州の銀行が両替商に始まり産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして先に多くの銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。

二十七銀行
東京渡辺銀行
第二十七国立銀行として設立され、二十七銀行を経て1920年東京渡辺銀行と改称した。なお、横浜にも渡辺銀行があったことから、「東京渡辺」銀行と称して区別した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き関東大震災後に経営が悪化した。そして前述の蔵相の失言で休業した。
台湾銀行
1895年台湾統治後に日本政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、樟脳の取引を介して鈴木商店と関係を深めた。この頃情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして内地(日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。その後、金子直吉を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。
なお、台湾銀行はしばしば経営危機に瀕し都度日銀の特融や大蔵省預金部からの融資を仰いでいた。1920年代に入ると借入金への依存度が増し、特融・預金部の融資に加え、コール市場の融通金にも大きく依拠するようになっていた[2]

産業構造

殖産興業策の下に産業振興が大いに勧められたが、大正期に至っても日本経済はその多くを生糸などの軽工業に負った。製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、第一次世界大戦中には英国をはじめ欧州先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復するとアジアに獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。

1874年に開業した鈴木商店1899年に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に後藤新平と関係を深め政界にも接近した。第一次世界大戦期には海外電報を駆使して収集した情報から戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を上げた。鈴木商店関連の金融機関として第六十五銀行があったが成長する鈴木商店を支えるだけの規模はなく、拡大する資金需要は台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。

また金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことはできなかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。

近因

大正期に入ってから続く不況に喘ぐ日本は第一次世界大戦が始まると一転して船舶需要をはじめとする戦争特需に湧き、念願だった八八艦隊の整備にも乗り出して造船業界は活況を呈した。だが1920年になると戦後不況が襲い、活況を呈していた造船業界も軍縮の煽りをうけて受注を減らし日本経済全般が苦境に陥った。1923年に関東大震災が発生し、経済的混乱を防ぐべく震災手形の救済策がとられたが、ここに戦後不況で生じた不良債権が大量に紛れ込み、その根本的解消が行われず金融不安をあおっていた。

交易の面では大戦中の1917年に金本位制を一旦停止し、大戦後に復帰の機会を窺がったが、戦後不況と関東大震災からくる日本経済の混乱の中で金解禁は先延ばしとなり、金の裏づけのない円が投機対象とされたことから、円為替は乱高下した。経済的にも交易の面からも円の安定が求められ、早急な金解禁を目指したが、それに先立って日本経済に燻る震災手形をはじめとする不良債権を根本的に解消することが急務となった。また、戦後に経済環境が変化した中で戦前の平価を維持するために緊縮財政がとられ、これも日本経済の不況に輪をかけた。

政界では大正中期より協力体制にあった護憲三派が解体し、交易を重視し金解禁に積極的な憲政会と、北伐から中国東北部の権益を守ための戦費を調達する上で借款を行う都合から金解禁には消極的な立憲政友会の対立、政党と財閥と軍部の関係を背景にした対立、政友本党との連携を巡る政治的混乱が深化した。

第一次世界大戦

1914〜1918年に戦われた第一次世界大戦において主戦場となった欧州より隔絶した日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で当時世界の生産の中心であった欧州が戦場となったことから生産や輸出が落ち込み、戦域外の各国が世界の需要を担うこととなった。併せて戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務を中心とする物資・サービスが提供された。この影響でいわゆる「船成金」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが債権国に転じ[注 3]正貨が大いに蓄積された[注 4]

戦争が終結し、戦争特需が終わると反動で不況になることが危惧された。日本においては日清戦争日露戦争の後の反動不況の経験もあり十分警戒されたことから重篤な不況に陥らず、およそ戦後半年で反動不況から脱した[注 5]。また、欧州では戦後の復興のための需要がおこり、これに向けて輸出が行われたし、やはり戦禍を直接受けなかった米国の景気は好調で、これも相まって景気は拡大し(戦後ブーム)起業・生産にむけての投資も盛んに行われ、大戦中の好況で資金を蓄えた銀行も積極的に貸し出しを行ってこれを支え、株価・地価も上昇した。だが、その内容はやがて投機へと変質していった。

1920年に入ると経済に変調を来たし3月15日に東京の株式市場が暴落を見せ、4月には大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻し、経済的混乱から株式市場・商品市場が暫時閉鎖に追い込まれる事態となった。欧州での生産が回復するとアジアの市場を喪って日本の輸出も落ち込み、また7月には米国の景気が後退期に入ったことが明らかとなり、好況を前提に事業を拡大していた企業は一転して不良債権を抱えた(1920年の大反動)。拡大路線をとっていた鈴木商店も多大な不良債権を抱えた企業の一つである。

振り返ればこの不況は重篤であったが、当時は景気循環の中のありふれたリセッションであると見誤り不良債権を解消する根本的な対策を怠ったのが政策上の失敗と考えられている。

軍縮

帝国海軍はかねてより主力艦の増強と更新を図るいわゆる八八艦隊計画を推進しており、大戦中に最初の段階である八四艦隊案の下で主力艦長門陸奥加賀・土佐天城・赤城空母翔鶴[注 6]をはじめとする艦艇の建造を開始していた。戦後も続く好景気もあって1920年に「国防所要兵力第一次改訂」の予算が成立し、八八艦隊の実現に向けて追加の戦艦巡洋戦艦を中心とする大規模な艦艇建造に着手した。鈴木商店も需要の細った民間船舶から建艦需要拡大が見込まれる軍相手の取引へ経営の軸足を移していたが、直後に大反動に見舞われた。やはり景気の後退した米国でも不況の中で拡大する軍事予算と他国、中でも日本の軍拡を問題視して米国大統領ウォレン・ハーディングが軍縮会議を提唱し、復興の負担にあえぐ欧州諸国等[注 7]も参加して1921年よりワシントン会議が開催された。ここで軍艦の保有・新造を制限する軍縮条約が結ばれ、その取り決めに沿って帝国海軍の正面装備が削減されることとなり、特に造船分野では新造の需要が激減した[注 8]。これに対し政府からは造船企業に対して一定の補償金が支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼や関係の深い川崎造船所も受注を減らして業績が悪化した。

関東大震災

1923年関東大震災が発生し、東京・神奈川で被災した企業が振り出していた手形については決済不能となることが危惧され、直ちにモラトリアム令が出され、続けて日銀が手形の再割引を行い(震災手形)、決済困難な手形に流動性を付与することで経済活動の停滞を防ぐべく対応を取った(日銀特融)。しかし、日銀に持ち込まれた多くの手形の中から震災手形としてスタンプを押すものを選別する場面において、真に震災の被害を受けて当座の支払いに困窮したものは同時に生産手段や担保となる資産も喪失していることが多くリスクが大きいとして敬遠された。一方で被災の程度が軽く安全な物件が優先されたほか、折からの不況や投機の失敗で不良債権となった手形は一応の担保が確保されていることから安全な物件とみなされ、これらを再割引の対象として受け入れることがあったと指摘されている[3]。この過程で直接震災に関係ない手形が多数紛れ込むモラルハザードが発生し、戦後不況に起因する不良債権が根本的な解消を見ることなく残りつづけた。

また、震災からの復旧に際して海外からの物資輸入が増大し[注 9]為替で円の下落を招くと共に在庫が滞留し、これが国内の生産を圧迫して不況に輪をかけた。

なお、震災手形による救済策の実施には、鈴木商店の金子の働きかけがあったという俗説もあり、日銀特融を台湾銀行の未決済手形の穴埋めに流用する意図であったと言われる。また、政府もこれを承知で流用を黙認していたとも言われる。

震災手形として再割引した手形の支払期限は1925年9月までの2年とされたが、その内容は前述のように比較的安全なものと、上辺は安全を装っているが実際には投機の失敗でもはや回収の見込みのない悪質なものとがあった。1924年3月の受付期限までに日銀が割り引いた手形は政府補償額である1億円を超える4億3千万円に達したものの、最初の数ヶ月は予想よりも早く決済が進んだ。しかし徐々に決済が滞るようになり、猶予期限が到来する頃には決済の進展がほとんど見られないまま投機で失敗した不良な物件を中心に2億円が未決で残り、やむなく支払期限1年延長を2回繰り返し1927年9月まで猶予したが、金融の不安定要因となり「財界の癌」と呼ばれた。

金本位制と為替変動

19世紀半ばから金本位制による交易体制が確立しつつあり、日本も日清戦争の賠償等として得た金[注 10]を準備金に充てて1897年に貨幣法を施行し、平価を金0.75g=1円(100円=49.875ドル)と定めて本格的金本位制[注 11]を確立した。以後20年は平価・為替が維持された。

第一次大戦が始まると欧州各国は相次いで金本位制を停止し、1917年の4月に参戦した米国が9月に金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止[注 12]し、戦後に金本位制へ復帰(金解禁)する機会を窺った。しかし、戦後の大反動の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで概ね平価(100円=49.875ドル)を維持していたものが1924年暮れには40ドルを割り込むまでになった。政府は財界の整理(国際汽船朝鮮銀行・台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が平価に戻るように企図したが、これを先読みした投機筋[注 13]の取引により1925年暮れには49ドル近辺まで急騰し、以後乱高下した。

戦後発足した国際連盟常任理事国にもなり、五大国の一つに数えられるようになったとはいえまだ日本の経済は小規模であり、兌換を停止し金の裏付けのない通貨「円」は半ば金融商品として投機の対象とされた。このように為替が不安定で、投機筋の思惑で乱高下することは経済にとって好ましいものではなく、交易業や金融業を中心とする経済界から為替の安定のために金解禁を行うことが求められた。また、諸外国は戦後に続々と金本位制に復帰し、1922年4月から5月にかけて開かれたジェノア会議で戦後の貨幣経済についてなされた議論の中で日本に対しても金本位制への復帰が求められた。

一方で金解禁のためには1920年来の不良債権、そして震災手形を根本的に整理・解消することが前提となり、その処理が大きな課題としてつきつけられた。あるいは金解禁を強行すれば企業の経営体質も問われることとなり、不健全な企業は自然に淘汰され自ずと不良債権は解消するとの見方もあった(清算主義)。

なお、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあり、例えばフランスは通貨を1/5に切り下げ、ドイツ、イタリアも平価を変更した。日本でも関東大震災後の円下落の頃に一応の為替安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=40ドル前後)で復帰すべきとの意見もあった。しかし、1919年にいち早く復帰した米国や、世界の金融の中心であった英国が1925年に復帰した際には、戦前の平価を維持しており[注 14]、その中にあってようやく列強に名を連ねるに至った日本が円を切り下げるのは国力の低下をあらわにするものであり国家の威信を損ない「国辱」であるという見方から、旧平価(同49.875ドル)での復帰を望む意見が大勢を占めた。また、平価は法律で規定されているところで、特に外交・交易を重視し金解禁に積極的な憲政会が十分な党勢のないままに法改正に臨めば議事の混乱を招く可能性があり変更は容易ではないとみなされていた。結局旧平価での復帰を志向して為替政策上も政策金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、加藤高明内閣濱口雄幸蔵相が緊縮財政をとるなど経済政策を経て間接的に誘導する政策がとられた。しかし、緊縮財政が採られ物価が下落し、また円高が維持されたことから輸出が奮わず、日本国内の景気は悪化した。

政界

大正期中期には憲政会立憲政友会の二大政党があり、のちに成立した革新倶楽部を加えて護憲三派と言われた。1922年に立憲政友会の高橋是清が計画した内閣改造の内容を巡って内部で分裂が生じ、政権獲得を優先する床次竹二郎らが1924年に成立した清浦内閣を支持して、立憲政友会を脱党して政友本党をうちたてた。このとき政友本党は最多数となって第一党となったが、超然内閣を支持したことから1924年の総選挙で敗北して議席を減らし、一方で立憲政友会は勢いを盛り返した。清浦内閣が倒れて護憲三派が加藤高明内閣を立てた後、憲政会と立憲政友会の対立、立憲政友会と革新倶楽部の合同によって護憲三派が解体されて1925年8月に憲政会単独内閣となると、立憲政友会と政友本党の間で和解の動きが現れ、特に1926年夏の朴烈事件を機にその傾向に拍車がかかった。同年末には後藤新平の斡旋で立憲政友会と政友本党の提携が成立した(政本提携)が、1927年2月に一転、立憲政友会の政権獲得阻止を図って憲政会と政友本党の提携(憲本提携)が秘密裏に成り、立憲政友会は孤立した。

憲政会には三菱出身の者が参加し[注 15]、一方で立憲政友会は三井と縁が深く三井財閥の出身者も参加していた。この点から、特に立憲政友会が震災関連二法を攻撃することについて三井と競合する鈴木商店を実質的に救済する法律阻止を狙ったとする見方がある。また、震災手形の実態が鈴木商店絡みであると把握した財界関係者が与党憲政会を攻撃する材料として立憲政友会に情報を流したという俗説がある。

憲政会と立憲政友会は共に護憲派であり、その他の政党[注 16]のものと比較すればその政策・主張は相似していた。第二次護憲運動普通選挙を実現し、また清浦内閣を打倒するまでは一致して協力したが、その目的が達せられると大きな論点を失い、しかし政権獲得のためには自党の主張を盛り立てて支持を集めねばならず、僅かな差異を大きく取り上げ却って対立したといわれる[4]

また、当時は政党政治における憲政の常道として「内閣が失政によって倒れた時は、次に野党第一党が内閣を担当する」政権交代が慣習として行われていた。ここから、野党に立った側は与党の失政を衝き政権から追い落として、次の政権を獲得することを動機の一つとして与党を攻撃することも行われた。

そうした中で、両党の間の政策の差異があらわとなった。憲政会は穏健ないし協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方の立憲政友会は積極外交政策を取り、中国東北部の権益を護るために軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費調達のために借款を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。

さらに、1925年、田中義一が陸軍から政界に転じ政友会総裁に迎えられ、田中に近い鈴木喜三郎久原房之助なども入党したが、彼らは親軍派・国粋主義者に近く、護憲派に対する反感を抱いていた。総裁の権限が強い政友会において田中とその周辺が党の実権を握るようになると、党内の要職は徐々に護憲派から親軍派に取って代わられるようになっていった。

直前の状況

1924年6月に護憲三派連立内閣として加藤高明内閣が成立したが、護憲三派が解体して1925年8月に憲政会単独内閣となった(いわゆる第2次加藤内閣)。この内閣は金解禁を指向し、首相加藤高明の急逝をうけて翌1926年1月に成立した若槻内閣もその方針を引き継いだ。この時憲政会は少数与党[注 17]であり、議会運営に困難が予想された事から現状打開の為に総選挙に打って出る事を求める意見[注 18]が党内からあがり、若槻に大命を降下させるよう取り計らった西園寺もそれを期待した。だが若槻は選挙を渋り[注 19]結局少数与党のままで議会運営に当たることとなった。

1926年の第51回帝国議会については政友本党の協力を得て乗り切ったが、その夏から秋にかけて朴烈事件、続けて松島遊郭疑獄の騒動が起きた。朴烈事件では予審中の男女被疑者が抱き合う写真が公開され世論が騒然となり、司法大臣江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件もおきた。司法当局の能力ひいては政府の統治能力に疑義を生じせしめることで若槻内閣転覆を図った北一輝らの陰謀によるといわれる。一方、松島遊郭事件では、遊郭の移転を巡って不動産業者から政治家に運動費が渡されたという疑惑が持ち上がり、若槻禮次郎が現職の総理大臣でありながら予備審問を受け、また偽証罪で告発されるなど、前代未聞の事態となった。これらは第52回帝国議会冒頭で野党が政府を攻撃する口実となった。

1925年9月大蔵大臣となった片岡直温は早期金解禁論者であり、かねてより問題となっていた銀行法改正、不良債権の解消、そしてその多くを抱えた台湾銀行の整理を行って金解禁の条件を整えるべく意欲的に取り組んだ[注 20]。具体的には1927年夏頃の金解禁を企図していたとのちに証言している。不良債権を根本的に処理する震災手形関係二法帝国議会に上程するに際してあらかじめ野党立憲政友会の田中義一総裁と秘密裏に交渉し、協力をとりつけるなど注意を払っていた。ただし、田中は立憲政友会生え抜きではなく、また陸軍から政界に転じてまもなく党内の有力者をまとめきれなかった。

大蔵省は、銀行法の改正の準備を行っていた。また、経営の危うい銀行を整理統合すべく経営者に聴取を行っていた。東京渡辺銀行もその一つで原邦道事務次官らが聴取に当たり、また、併せて4行[注 21]を合併させて新銀行に編成しなおすことが計画されていた。この過程で東京渡辺銀行の内情が悪い様も大蔵省は把握しており、1927年3月14日に同行専務らが登庁したことについて、予断を与えたとも言われる。

日本経済は1920年の大反動から続く慢性的な不況から抜け出せないでいた。巷間では1920年、1922年、1923年にも取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が続いており、その中にあっても震災手形の絡んだ不良債権の存在が不安を煽っていた。

中国大陸では、1926年7月から蔣介石が率いる国民党による北伐が行われ、日本が権益を持っていた満州が脅かされつつあった。これに対し与党憲政会の若槻内閣は穏健政策を取り、目立った対応を取らなかった。これは枢密院の反感を買い、のちに若槻内閣が勅令発布を諮った際に拒絶する原因の一つとなる。

第52回帝国議会

1926年12月24日に召集され、翌25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王践祚して昭和に改元した。

議会は26日に開会し、すぐに昭和2年(1927年)に年が改まったが、政界では朴烈事件ならびに松島遊郭疑獄を巡り混乱が続いていた。

一方、経済状況としては円高・物価下落の不況下にあり、また、1920年の大反動時に生じた不良債権が震災手形に姿を変えて、なおもくすぶり続けていた。同時に、震災手形が本来の機能を果たさず実は特定政商[注 22]の救済・延命に用いられていると見る向きからは批判があり、それを許容してきた政府に対しても批判があった。ことに鈴木商店の放漫経営へ多く貸し付けたものが焦げ付いた台湾銀行が多くの震災手形を抱えているとの憶測がなされ非難の目が向けられ、他にも同様に震災手形を抱え込んだ銀行の経営状況が危ぶまれていた。

政府はこれらの震災手形の処理を急ぎ、早期の金解禁を実現する方針をとった。しかし、政府を批判する立憲政友会は朴烈事件ならびに松島遊郭疑獄の非を鳴らして若槻内閣弾劾上奏案を提出し対決姿勢を明らかにした。

若槻首相は立憲政友会総裁田中義一と政友本党総裁床次竹二郎を待合に招き、新帝践祚の折でもあり政争は避けるべきと説き、暗に閉会後の退陣[注 23]を条件として今後の議会運営について協力[注 24]を取り付けた(三党首会談)[5]

加えて、片岡が田中に直談判[注 25]して協力を取り付けるなど条件を整えた上で、1月26日に、来る9月30日が期限となる震災手形を全額処理するために国債を発行し、10年かけて償還する震災手形関係二法を議会に上程した。当初は立憲政友会が合意に沿って内閣弾劾上奏案を撤回したうえで審議に応じたことから、法案は3月4日に衆議院で可決成立を見て貴族院に送付された[5][6]

だがその裏では、三党首会談で若槻が独断で政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約したことを快く思わない憲政会の有志が中心となって政権維持を図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって次の組閣の大命を受けることを企図し、仮にそれがかなわないまでも政友本党が政権を取るように図り[注 26]、立憲政友会へ政権が移ることを阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政会幹部の不注意からこの提携の存在が露呈した。


注釈

  1. ^ こと、士族は商いを蔑視し金勘定をさげすみ、金融に関する知識が乏しいままに銀行経営に携わる例も多かった。
  2. ^ 1890年制定の銀行条例では「第五条 一人又は一会社に対し資本金高の十分の一を超過する金額を貸付又は割引の為に使用することを得ず」と規定されていたが、銀行の強い反対を受けて1895年に撤廃された。
  3. ^ 1914年には約11億円の債務国だったが、1920年には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した。
  4. ^ 開戦した1914年の保有正貨は約3億4,000万円だったが、1918年の終戦時には約15億9,000万円となった。
  5. ^ のちの分析では、1920年の大反動が真の戦後不況と考えられている。
  6. ^ 空母鳳翔の改良型。後に第二次世界大戦で活躍した翔鶴とは異なる。
  7. ^ 英国・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガル。
  8. ^ 八八艦隊計画に基づき既に竣工した長門陸奥に続いて、戦艦加賀・土佐、巡洋戦艦天城・赤城・愛宕・高雄、空母翔鶴が建造中であり、戦艦紀伊・尾張の建造命令が発令され起工直前で造船業界は活況を呈していたが、空母に転用される天城・赤城を除き全て中止となった。他にも巡洋艦駆逐艦潜水艦をはじめとする補助艦艇も多くが建造中ないし計画中であったがワシントン海軍軍縮条約を受けて削減されている。
  9. ^ 救援物資を名目として特定物品の輸入関税が免除されたため。
  10. ^ 下関条約で定められた賠償額は銀2億両だが、これに遼東半島返還の報償銀3000万両他を合わせて銀2億3150万両に相当するソブリン金貨3800万ポンド余を在外正貨として受け取った。
  11. ^ 1871年に新貨条例が制定されて以降、日本は制度上は金1.5g=1円とする金本位制であった。しかし金準備金が乏しく金本位制が機能しておらず、本来貿易用であった銀貨が巷間に流通して実質的に銀本位制となり、政府もこれを追認して兌換銀券を発行するに至った。その後26年間の間に国際的銀価格の下落や、国内のインフレが進行して円の価値が金に対しておよそ半減しており、1897年の貨幣法制定時には平価を半分の金0.75g=1円に切り下げた。
  12. ^ 具体的には米国が9月10日に金兌換と輸出停止を発表した翌々日の12日に日本も大蔵省令28号「金貨幣又ハ金地金輸出取締ニ関スル件」を出して暫時金輸出を許可制としたが、許可が出ることはなく、実質的に金輸出禁止となった。
  13. ^ 香港の投機家が中心で、「香港筋」と呼ばれた。
  14. ^ とはいえ、戦禍に見舞われて産業が打撃をうけ、また植民地への影響力が低下したイギリスの国力は衰えてポンドの実勢は安くなったのに対して戦前の平価で復帰したため、ポンドの評価が高すぎ、英国の景気は低迷した。
  15. ^ 例えば加藤高明は三菱から政界に転じ、岩崎弥太郎の娘婿である。
  16. ^ 無産政党等。
  17. ^ 1924年の衆議院選挙では全464議席中、憲政会151議席、立憲政友会100議席、革新倶楽部30議席、政友本党116議席であり、護憲三派を合わせて281議席で過半数であったが、憲政会単独では全議席の1/3にも満たない。
  18. ^ 往時は多かれ少なかれ選挙干渉があり、政権を取った与党が総選挙に打って出て党勢を増す挙にでることもしばしばあった。そもそもが1924年の選挙は言わば選挙管理内閣である清浦内閣の下で行われたのであり、憲政会が政権を握った今選挙を打てば充分に有利であるという期待もあった。
  19. ^ 若槻は「金ができない総裁である」と自覚しており、資金を欠いたまま選挙に打って出て失敗したら取り返しがつかないために選挙を避けたという。
  20. ^ 片岡は前任者の早速に敵愾心を抱いており、彼が成し得なかった不良債権の整理と金解禁を自ら成し遂げる事に意を注いだ。震災手形についても期限を更に1年延長する弥縫策に拠らず震災手形関係二法をもって根本的に解決する道を選んだ。
  21. ^ 東京渡辺銀行、中井銀行、中沢銀行、村井銀行の4行。
  22. ^ a b 特定政商としては、具体的に鈴木商店を念頭においていたと言われる。
  23. ^ 合意文書の中に盛り込まれた「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」が若槻内閣の退陣と立憲政友会への禅譲を表していると言われる。
  24. ^ 大日本帝国憲法第71條では会期中に予算案の成立を見なかった場合には、前年の予算と同額で執行することと定められていた。これは予算の硬直化に繋がり、殊に積極財政を志向する立憲政友会にとっては、次に政権を獲得した際に不自由な政権運営を強いられることから受け容れ難く、予算案を通すために妥協を迫られた。
  25. ^ 法案上程の4〜5日前と言われる。
  26. ^ 憲本提携がなれば270議席弱の新政党となり大命降下を受けるに相応しい党勢となる。そもそも、政友本党は立憲政友会よりも議席数が多い。
  27. ^ 先の三党首会談では立憲政友会に政権を譲ると合意していたにもかかわらずこのような策を弄するのは立憲政友会にとって許しがたい行為と映った。一方で憲政会側は禅譲の合意などしていないとシラをきった。
  28. ^ 具体的には「喜色満面であった」というが、これを伝えたのは大蔵官吏の一人であり、他には類似の伝聞はないと言われる。
  29. ^ 政府が台銀整理委員会を設けて台銀の経営状況を調査し、その経営基盤を盤石にするべく必要な法律を制定して処理する。
  30. ^ 俗に言う "Too big, to fail." 大きすぎて潰せない
  31. ^ 借り換え・ロールオーバーをせず、短期融資の期限が来たものから着々と債権を回収する。
  32. ^ 緊急時に財政上の必要な処分を行う勅令を発し、爾後帝国議会で承認する憲法規定に基づき、政府が2億円の補償をつけることで日銀に特融を行わせる勅令の渙発を求めた。
  33. ^ 憲法70条の解釈として「本条文は天災事変に際しての規定であり、今回は緊急の事態に当らず、臨時議会を召集して法律を制定して対応すべき」との理由を示した。
  34. ^ 討議の中で「コール市場」の語に接して「石炭」の事かと問うた者もいる。
  35. ^ 枢密顧問官の長老格であった伊東巳代治は伊藤博文に付き従って洋行し、帰国後は憲法制定に参画するなど伊藤との縁が深く、その伊藤が結党した立憲政友会に対しても一時期は党籍を置くなど親政友会の立場にあった。こうした事情から、枢密顧問官は政友会に親近感を抱いていた。一方の憲政会は伊藤と対立していた大隈重信の流れを汲む党派であり、これに嫌悪感を抱いていた事も背景にある。
  36. ^ 枢密院と内閣が対立した場合には必ずしも内閣が辞職をする必要はない。しかし、若槻はもはや混乱収拾の手立てを見出せないとして辞職を選択した。
  37. ^ 国会閉会中の緊急事態に際して天皇は法律に代えて勅令を発し、爾後議会で承認する。
  38. ^ 「憲法八条一項ニヨル私法上ノ支払延期及ビ手形ノ保存行為ノ期間延長ニ関スル緊急勅令」4月22日から5月12日までの3週間、預金の引き出しを500円に制限する。
  39. ^ 往時は週休2日制ではなく、土曜日も半ドンではあるが営業日であった。
  40. ^ 乙二百円券。片面のみの印刷に留めて裏が白いところから俗に「ウラシロ」と呼ばれた。一部は実際に預金者に支払われたが、裏面の印刷がなく作りも粗悪であったことから市中で行使しようとしたところ贋札と疑われ、加えて当該銀行券の発行が警察当局に周知されていなかったことから贋札行使の罪で逮捕された事例も伝えられる。この銀行券は事後に日本銀行が急速に回収したため、現在では現存数が非常に少なく、収集家の間では非常に高値で取引されるほどである。なお、同時に裏が白い急造の甲五十円券も刷られたがこちらは使用されなかった。
  41. ^ 往時流通していた最高額面の紙幣は百円券であり、それを上回る額面の紙幣を急遽発行した。尚、二百円券としては関東大震災後の混乱に対応して甲二百円券の発行が準備されたが、これは実際には発行されなかった。
  42. ^ 丙二百円券。裏に赤の紋様が刷られ、俗に「ウラアカ」と呼ばれた。これは預金者に渡らずにそのまま回収、将来の緊急事態に備えて日本銀行に保管され、太平洋戦争終戦後の昭和20年8月16日以後に使用に供された。

出典

  1. ^ 破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす 大阪毎日新聞 1927.3.15(昭和2)
  2. ^ 『昭和初年の金融システム危機 -その構造と対応―』伊藤正直
  3. ^ 震災手形による悪化
  4. ^ 武田晴人『現代日本経済史 7』。
  5. ^ a b c d e 『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』
  6. ^ 『昭和金融恐慌史』
  7. ^ 中井銀行も休業、渡辺銀行破綻の余波『東京朝日新聞』昭和2年3月19日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p97 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 今度は村井銀行が休業『中外商業新報』昭和2年3月22日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p98-99)
  9. ^ 神戸の六十五銀行も休業発表『大阪毎日新聞』昭和2年4月9日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)
  10. ^ 大阪の近江銀行も『大阪毎日新聞』昭和2年4月19日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)






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