開業後の推移とは? わかりやすく解説

開業後の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 05:13 UTC 版)

三河田口駅」の記事における「開業後の推移」の解説

清崎延伸から2年経過した1932年昭和7年12月22日三河田口駅開業し田口鉄道全通した紆余曲折経て駅が設置されたのは、豊川沿いの田尻であった同地森林鉄道貯木場設置するのに適した場所であった一方で市街地から2.1kmの距離があり、その間には約150m標高差が存在した。 段戸御料林からの木材輸送については、駅の開業2つ森林鉄道通称田口森林鉄道)が敷設された。まず1934年度(昭和9年度)に尾線、続いて1940年度(昭和15年度)に本谷線が開通した。この森林鉄道軽便鉄道であり田口鉄道とは軌間異なるため、駅には貯木場設置され、ここで森林鉄道経由搬出された木材田口鉄道貨車積み替えていた。これらの森林鉄道戦後道路整備森林資源の枯渇により、本谷線が1960年度昭和35年度)、尾線が1961年度昭和36年度)に廃止され消滅した。このほかの貨物輸送については、戦後1940年代後半から1950年代前半にかけて、津具金山鉱石、段戸鉱山マンガン扱っていた。 駅から離れた田口市街地へは、当初東三自動車運輸連絡バス運行した1939年昭和14年11月21日より、この連絡バス路線田口鉄道譲り受け直営としている。しかし太平洋戦争下ガソリン足深刻化に伴い1944年昭和19年下半期運行中止同年11月13日正式に休止した戦後1949年昭和24年1月、駅から市街地までのバスは運転を再開した。ただし田口鉄道直営ではなく尾三自動車流れを汲む名古屋鉄道名鉄)による運行で、1日3往復のみ、田口町越えて稲武までの路線であったその後東三自動車運輸流れを汲む豊橋鉄道により、駅と市街地を結ぶ連絡バス電車発着時間あわせて運行されるようになった。 その豊橋鉄道1956年昭和31年10月1日田口鉄道合併した。これにより三河田口駅は、豊橋鉄道田口線の駅となっている。 それから8年後の1964年昭和39年)、豊橋鉄道赤字拡大理由田口線廃止決定沿線自治体などとの協議開始した。その最中1965年9月17日から翌18日にかけて襲った台風台風24号)で被災し清崎三河田口間が不通バス代行となってしまう。同区間復旧することなく1966年昭和41年10月1日以降三河田口駅休止となり、再開されないまま田口線全線廃止により1968年昭和43年9月1日付で廃止された。

※この「開業後の推移」の解説は、「三河田口駅」の解説の一部です。
「開業後の推移」を含む「三河田口駅」の記事については、「三河田口駅」の概要を参照ください。


開業後の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:27 UTC 版)

阪急神戸本線」の記事における「開業後の推移」の解説

開業時、「綺麗早うて。ガラアキ 眺め素敵によい涼し電車」をキャッチコピーとして大阪梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を50分(開業から5日間は60分)で結び、国鉄大阪駅 - 三ノ宮駅51分、阪神の同60に対して優位に立った対す阪神キャッチコピーは「またずにのれる阪神電車」で、その通り電車頻発運行対抗した。 だが、開業当初神戸本線は、大阪側と神戸双方ターミナル問題抱えていた。梅田駅現在の大阪梅田駅) - 十三駅間では併用軌道宝塚本線乗り入れていたためにボトルネックとなっており、他方神戸駅神戸市中心部より手前位置していたのである大阪側の問題は、1926年梅田駅 - 十三駅間に神戸本線宝塚本線分離され高架線完成したことで解消する一方神戸側は、阪急工費地下構造物の問題から高架での三宮乗り入れ希望したが、神戸市会現在の神戸市議会)が市内乗り入れる鉄道路線地下線とする原則を崩さなかったため工事遅れていた(「阪神急行電鉄#三宮高架乗り入れ騒動」の項目も参照のこと)。結局省線現在のJR神戸線)が三ノ宮駅付近高架化すると市会高架化対す容認論に傾き1936年現在の神戸三宮駅開設当時神戸駅)までの開業漕ぎつけた。三宮乗り入れ後、西灘駅現在の王公園駅) - 上筒井駅間の旧線に関しては、支線の上筒井線として1940年廃止まで90形単行による折り返し運行が行われた。 沿線開発では宝塚本線開業時同様、住宅開発積極的に進められた。この頃になると、阪急のみならず芦屋六麓荘関西土地などといった民間宅地開発業者開発参入するようになり、結果として伊丹西宮七園夙川六麓荘町御影など良好な住宅地沿線形成され、のちにこれらの新興住宅地は、高級住宅街となった。これらの開発はそれ独自の文化生み出し、後に阪神間モダニズム呼ばれるうになる1938年7月発生した阪神大水害では、住吉川橋梁橋桁流出するなどの甚大な被害被っている。いったんは仮線により復旧するものの、同年8月1日発生した豪雨で再び不通となった。この復旧住吉川改良並行して行われ新住吉川橋には梅田駅省線乗り越える部分使われていた橋桁再利用している。

※この「開業後の推移」の解説は、「阪急神戸本線」の解説の一部です。
「開業後の推移」を含む「阪急神戸本線」の記事については、「阪急神戸本線」の概要を参照ください。


開業後の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:57 UTC 版)

大阪駅」の記事における「開業後の推移」の解説

開業当初大阪駅は「梅田駅」「梅田ステーション」「梅田すてんしょ」などと呼ばれていたが、阪神阪急貨物駅梅田駅開業すると、次第大阪駅のことを「梅田駅」などと呼ぶことはなくなった。 当初貨物輸送比重大きく堂島から梅田への候補地変更水路との接続犠牲にするものであったことから、1878年明治11年)に堂島川から駅の南西まで、堂島のもと駅候補地東端沿って堂島掘割梅田堀川)が、開削された。堂島川の南に位置する中之島にも土佐堀川まで中之島掘割開削され、水運の便が図られた。 しかし、旅客輸送次第増大すると、駅の南西に入堀(船溜)があること、市街中心となる船場とのアクセス悪さ大阪市電乗り入れ計画などを考慮して十分な駅前広場確保すべく、1901年明治34年7月現在地である四つ橋筋より東側移転された。なお、貨物の取り扱いに関しては後に梅田貨物駅設置された際に全面移管され、梅田堀川北へ延伸されている。 1906年明治39年)に公布され鉄道国有法に基づき主要私鉄国有化される前は、当駅に官営鉄道国鉄)の列車のほか、山陽鉄道(今の山陽本線)・阪鶴鉄道同じく福知山線)・西成鉄道大阪環状線・桜島線)・関西鉄道関西本線大阪環状線など)・南海鉄道南海本線)といった5つもの私鉄列車乗り入れていたことがあった。南海鉄道列車は、1984年1993年2段階で廃止され天王寺線経由関西鉄道線に乗り入れる形で、山陽鉄道阪鶴鉄道列車官営鉄道乗り入れて当駅に達していた。 1934年昭和9年)には大阪市街の踏切撤去目的とし、城東線(のちの大阪環状線と共に大阪駅高架工事実施されるが、それに先駆けて1926年昭和元年)に阪神急行電鉄現在の阪急電鉄)が大阪市街の高架化工事実施し同社起点梅田駅東海道本線城東線をまたぐ形で仮設高架駅となっていたため、高架化に際して阪急梅田駅地上駅にする工事同時に行う必要があり、結果として路線の上下を同時に入れ替えるという大工事を、5月31日から6月1日にかけての一夜実施することになった工事について詳細はこちらを参照)。この時地上駅となった阪急梅田駅は、1970年代北へ移設して再び高架駅戻っている。 それまで田圃だった大阪駅周辺地盤は非常に脆く地下20 m付近までが粘土層である。高架化の際には、軟弱地盤対処するため鉄筋コンクリート製の打ったものの、粘土層で基礎杭が留まっていたために建設直後から地盤沈下生じた当時地下水汲み上げ規制がなかったことで脱水圧密生じ沈下量は最大1.8 mにもなった。一方で御堂筋線との交差部では基礎杭砂礫層に達していたために沈下量が極小であったが、その前後沈下量に著しい差があったために不等沈下生じたその結果当時大阪駅構内駅東端で最大23.6 ‰の急勾配生じホーム屋根建築限界超えて車両限界抵触するなど、列車運行支障をきたすようになった深刻な地盤沈下対処するために、当駅では日本初アンダーピニング工法採用された。1962年昭和37年)までの5年間に計245本の砂礫層に打たれたことにより、沈下沈静化した。また、同年には地下水汲み上げ規制する法律制定されたことにより、沈下原因解消向かった地盤沈下名残として、現在でも駅構内数段階段勾配数多くある。 1964年昭和39年10月1日東海道新幹線開業した際には、既に梅田地区には新たに新幹線用施設設けるだけの土地余裕がほとんどなかったことや(北は阪急梅田駅梅田貨物駅、南は阪神百貨店など)、将来山陽新幹線建設考慮した際に北方貨物線の上用地使えるようにした方がいいと考えられたため、大阪市街地から3 kmほど離れた新大阪駅ターミナルとした。 1989年梅田貨物線使用して京都駅新大阪駅から和歌山関西国際空港への直通列車走らせることになった際には、当駅はそのルート上に新たにホーム設けるには大きく離れていたため設置見送られ通過扱いとなった。(#今後予定参照二代目駅舎 清水太右衛門殉職碑(写真1956年再建され2011年移設したもの二代目駅舎 東から(大正期地上駅最終日二代目駅舎構内 奥は阪急百貨店1934年5月31日未完成のまま使用中三代目駅舎 左奥は大阪中央郵便局1940年頃北口現在の御堂筋北口1944年頃空襲焼け野原化した大阪駅前(1945年三代目駅舎1950年頃) 大阪駅周辺白黒空中写真1961年6月撮影国土交通省 国土地理院 地図空中写真閲覧サービス空中写真を基に作成 三代目駅舎近景阪急グランドビル1979年2000年代中頃の阪環状線ホーム 大規模改修前の四代目大阪駅アクティ大阪」(2008年

※この「開業後の推移」の解説は、「大阪駅」の解説の一部です。
「開業後の推移」を含む「大阪駅」の記事については、「大阪駅」の概要を参照ください。


開業後の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 09:18 UTC 版)

鳳来寺駅」の記事における「開業後の推移」の解説

駅ができると、駅前には十数軒の民家集まり一つ集落形成された。1935年昭和10年)には門谷鳳来寺女子高学園(のちの愛知県立鳳来寺高等学校2011年閉校)が開校する同校田口鉄道によるアクセス前提として開設されたともいえた。 太平洋戦争中1945年昭和20年7月27日より、駅に田口鉄道本社入った。もともと本社豊橋市にあったが、同年豊橋空襲被災したため移転してきたものである戦後1949年昭和24年9月23日駅前に「田口鉄道自然科学博物館」が開館した。「東三河地質鉱物の会」に田口鉄道協力して創設したもので、鳳来寺山中心とする資料展示した。この施設1963年昭和38年)に開館した町立鳳来寺山自然科学博物館基礎となっている。 鳳来寺最寄り駅として毎年11月23日鳳来寺山もみじ祭の際には、飯田線から臨時列車乗り入れていた。 1961年昭和36年7月25日から8月10日までの期間には、名古屋駅からの直通快速列車も「臨電鳳来」として運転され、 また1950年昭和25年)から1954年昭和29年)にかけて、名古屋鉄道名鉄)の小坂井支線飯田線を介して名鉄団体臨時列車新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅方面から乗り入れていたこともある 1956年昭和31年10月1日田口鉄道豊橋鉄道合併された。これに伴い豊橋鉄道田口線の駅となった

※この「開業後の推移」の解説は、「鳳来寺駅」の解説の一部です。
「開業後の推移」を含む「鳳来寺駅」の記事については、「鳳来寺駅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「開業後の推移」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「開業後の推移」の関連用語

開業後の推移のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



開業後の推移のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三河田口駅 (改訂履歴)、阪急神戸本線 (改訂履歴)、大阪駅 (改訂履歴)、鳳来寺駅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS