開業後の推移
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清崎延伸から2年が経過した1932年(昭和7年)12月22日、三河田口駅は開業し、田口鉄道は全通した。紆余曲折を経て駅が設置されたのは、豊川沿いの田尻であった。同地は森林鉄道の貯木場を設置するのに適した場所であった一方で、市街地から2.1kmの距離があり、その間には約150mの標高差が存在した。 段戸御料林からの木材輸送については、駅の開業後2つの森林鉄道(通称:田口森林鉄道)が敷設された。まず1934年度(昭和9年度)に椹尾線、続いて1940年度(昭和15年度)に本谷線が開通した。この森林鉄道は軽便鉄道であり田口鉄道とは軌間が異なるため、駅には貯木場が設置され、ここで森林鉄道経由で搬出された木材を田口鉄道の貨車に積み替えていた。これらの森林鉄道は戦後、道路の整備と森林資源の枯渇により、本谷線が1960年度(昭和35年度)、椹尾線が1961年度(昭和36年度)に廃止されて消滅した。このほかの貨物輸送については、戦後の1940年代後半から1950年代前半にかけて、津具金山の鉱石、段戸鉱山のマンガンも扱っていた。 駅から離れた田口の市街地へは、当初は東三自動車運輸が連絡バスを運行した。1939年(昭和14年)11月21日より、この連絡バス路線を田口鉄道が譲り受け、直営としている。しかし太平洋戦争下のガソリン不足深刻化に伴い1944年(昭和19年)下半期に運行を中止、同年11月13日に正式に休止した。戦後の1949年(昭和24年)1月、駅から市街地までのバスは運転を再開した。ただし田口鉄道直営ではなく尾三自動車の流れを汲む名古屋鉄道(名鉄)による運行で、1日3往復のみ、田口町を越えて稲武までの路線であった。その後、東三自動車運輸の流れを汲む豊橋鉄道により、駅と市街地を結ぶ連絡バスが電車の発着時間にあわせて運行されるようになった。 その豊橋鉄道は1956年(昭和31年)10月1日、田口鉄道を合併した。これにより三河田口駅は、豊橋鉄道田口線の駅となっている。 それから8年後の1964年(昭和39年)、豊橋鉄道は赤字の拡大を理由に田口線の廃止を決定、沿線自治体などとの協議を開始した。その最中の1965年9月17日から翌18日にかけて襲った台風(台風24号)で被災し、清崎・三河田口間が不通、バス代行となってしまう。同区間は復旧することなく、1966年(昭和41年)10月1日以降三河田口駅は休止となり、再開されないまま田口線全線廃止により1968年(昭和43年)9月1日付で廃止された。
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開業後の推移
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開業時、「綺麗で早うて。ガラアキ 眺めの素敵によい涼しい電車」をキャッチコピーとして大阪の梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を50分(開業から5日間は60分)で結び、国鉄の大阪駅 - 三ノ宮駅間51分、阪神の同60分に対して優位に立った。対する阪神のキャッチコピーは「またずにのれる阪神電車」で、その通り電車の頻発運行で対抗した。 だが、開業当初の神戸本線は、大阪側と神戸側双方のターミナルに問題を抱えていた。梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間では併用軌道の宝塚本線に乗り入れていたためにボトルネックとなっており、他方神戸駅は神戸市の中心部より手前に位置していたのである。大阪側の問題は、1926年に梅田駅 - 十三駅間に神戸本線と宝塚本線の分離された高架線が完成したことで解消する。一方の神戸側は、阪急が工費や地下構造物の問題から高架での三宮乗り入れを希望したが、神戸市会(現在の神戸市議会)が市内に乗り入れる鉄道路線は地下線とする原則を崩さなかったため工事が遅れていた(「阪神急行電鉄#三宮高架乗り入れ騒動」の項目も参照のこと)。結局、省線(現在のJR神戸線)が三ノ宮駅付近を高架化すると市会は高架化に対する容認論に傾き、1936年に現在の神戸三宮駅(開設当時は神戸駅)までの開業に漕ぎつけた。三宮乗り入れ後、西灘駅(現在の王子公園駅) - 上筒井駅間の旧線に関しては、支線の上筒井線として1940年の廃止まで90形単行による折り返し運行が行われた。 沿線開発では宝塚本線開業時同様、住宅開発が積極的に進められた。この頃になると、阪急のみならず芦屋六麓荘、関西土地などといった民間宅地開発業者も開発に参入するようになり、結果として伊丹・西宮七園・夙川・六麓荘町・御影など良好な住宅地が沿線に形成され、のちにこれらの新興住宅地は、高級住宅街となった。これらの開発はそれ独自の文化も生み出し、後に阪神間モダニズムと呼ばれるようになる。 1938年7月に発生した阪神大水害では、住吉川橋梁の橋桁が流出するなどの甚大な被害を被っている。いったんは仮線により復旧するものの、同年8月1日に発生した豪雨で再び不通となった。この復旧は住吉川の改良と並行して行われ、新住吉川橋梁には梅田駅の省線を乗り越える部分に使われていた橋桁を再利用している。
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開業後の推移
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開業当初、大阪駅は「梅田駅」「梅田ステーション」「梅田すてんしょ」などと呼ばれていたが、阪神・阪急や貨物駅の梅田駅が開業すると、次第に大阪駅のことを「梅田駅」などと呼ぶことはなくなった。 当初は貨物輸送の比重が大きく、堂島から梅田への候補地の変更は水路との接続を犠牲にするものであったことから、1878年(明治11年)に堂島川から駅の南西まで、堂島のもと駅候補地の東端に沿って堂島掘割(梅田入堀川)が、開削された。堂島川の南に位置する中之島にも土佐堀川まで中之島掘割が開削され、水運の便が図られた。 しかし、旅客輸送が次第に増大すると、駅の南西に入堀(船溜)があること、市街の中心となる船場とのアクセスの悪さ、大阪市電の乗り入れ計画などを考慮して、十分な駅前広場を確保すべく、1901年(明治34年)7月に現在地である四つ橋筋より東側へ移転された。なお、貨物の取り扱いに関しては後に梅田貨物駅が設置された際に全面移管され、梅田入堀川も北へ延伸されている。 1906年(明治39年)に公布された鉄道国有法に基づき主要私鉄が国有化される前は、当駅に官営鉄道(国鉄)の列車のほか、山陽鉄道(今の山陽本線)・阪鶴鉄道(同じく福知山線)・西成鉄道(大阪環状線・桜島線)・関西鉄道(関西本線・大阪環状線など)・南海鉄道(南海本線)といった5つもの私鉄の列車が乗り入れていたことがあった。南海鉄道の列車は、1984年と1993年の2段階で廃止された天王寺線経由で関西鉄道線に乗り入れる形で、山陽鉄道と阪鶴鉄道の列車は官営鉄道へ乗り入れて当駅に達していた。 1934年(昭和9年)には大阪市街の踏切の撤去を目的とし、城東線(のちの大阪環状線)と共に大阪駅の高架工事が実施されるが、それに先駆けて1926年(昭和元年)に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が大阪市街の高架化工事を実施し、同社線起点の梅田駅も東海道本線・城東線をまたぐ形で仮設の高架駅となっていたため、高架化に際しては阪急梅田駅を地上駅にする工事も同時に行う必要があり、結果として路線の上下を同時に入れ替えるという大工事を、5月31日から6月1日にかけての一夜で実施することになった(工事についての詳細はこちらを参照)。この時地上駅となった阪急梅田駅は、1970年代に北へ移設して再び高架駅に戻っている。 それまで田圃だった大阪駅周辺の地盤は非常に脆く、地下20 m付近までが粘土層である。高架化の際には、軟弱地盤に対処するため鉄筋コンクリート製の杭を打ったものの、粘土層で基礎杭が留まっていたために建設直後から地盤沈下が生じた。当時は地下水の汲み上げ規制がなかったことで脱水圧密も生じ、沈下量は最大で1.8 mにもなった。一方で、御堂筋線との交差部では基礎杭が砂礫層に達していたために沈下量が極小であったが、その前後の沈下量に著しい差があったために不等沈下が生じた。その結果、当時の大阪駅構内は駅東端で最大23.6 ‰の急勾配が生じ、ホームの屋根が建築限界を超えて車両限界に抵触するなど、列車運行に支障をきたすようになった。 深刻な地盤沈下に対処するために、当駅では日本初のアンダーピニング工法が採用された。1962年(昭和37年)までの5年間に計245本の杭が砂礫層に打たれたことにより、沈下は沈静化した。また、同年には地下水の汲み上げを規制する法律が制定されたことにより、沈下原因も解消に向かった。地盤沈下の名残として、現在でも駅構内は数段の階段や勾配が数多くある。 1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開業した際には、既に梅田地区には新たに新幹線用の施設を設けるだけの土地の余裕がほとんどなかったことや(北は阪急梅田駅や梅田貨物駅、南は阪神百貨店など)、将来の山陽新幹線建設を考慮した際に北方貨物線の上の用地を使えるようにした方がいいと考えられたため、大阪の市街地から3 kmほど離れた新大阪駅をターミナルとした。 1989年に梅田貨物線を使用して京都駅・新大阪駅から和歌山・関西国際空港への直通列車を走らせることになった際には、当駅はそのルート上に新たにホームを設けるには大きく離れていたため設置は見送られ、通過扱いとなった。(#今後の予定も参照) 二代目駅舎 清水太右衛門殉職碑(写真は1956年に再建され、2011年に移設したもの) 二代目駅舎 東から(大正期) 地上駅最終日の二代目駅舎構内 奥は阪急百貨店(1934年5月31日) 未完成のまま使用中の三代目駅舎 左奥は大阪中央郵便局(1940年頃) 北口(現在の御堂筋北口、1944年頃) 空襲で焼け野原と化した大阪駅前(1945年) 三代目駅舎(1950年頃) 大阪駅周辺の白黒空中写真(1961年6月撮影)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 三代目駅舎近景と阪急グランドビル(1979年) 2000年代中頃の阪環状線ホーム 大規模改修前の四代目大阪駅「アクティ大阪」(2008年)
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開業後の推移
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駅ができると、駅前には十数軒の民家が集まり一つの集落が形成された。1935年(昭和10年)には門谷に鳳来寺女子高等学園(のちの愛知県立鳳来寺高等学校、2011年閉校)が開校する。同校は田口鉄道によるアクセスを前提として開設されたともいえた。 太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月27日より、駅に田口鉄道の本社が入った。もともと本社は豊橋市内にあったが、同年の豊橋空襲で被災したため移転してきたものである。 戦後の1949年(昭和24年)9月23日、駅前に「田口鉄道自然科学博物館」が開館した。「東三河の地質と鉱物の会」に田口鉄道が協力して創設したもので、鳳来寺山を中心とする資料を展示した。この施設は1963年(昭和38年)に開館した町立鳳来寺山自然科学博物館の基礎となっている。 鳳来寺の最寄り駅として毎年11月23日の鳳来寺山もみじ祭の際には、飯田線から臨時列車が乗り入れていた。 1961年(昭和36年)7月25日から8月10日までの期間には、名古屋駅からの直通快速列車も「臨電鳳来」として運転され、 また1950年(昭和25年)から1954年(昭和29年)にかけて、名古屋鉄道(名鉄)の小坂井支線と飯田線を介して、名鉄の団体用臨時列車が新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)方面から乗り入れていたこともある 1956年(昭和31年)10月1日、田口鉄道は豊橋鉄道に合併された。これに伴い豊橋鉄道田口線の駅となった。
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