山陽鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 00:01 UTC 版)
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山陽鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:22 UTC 版)
山陽鉄道は、神戸駅から広島駅を経由し、馬関駅(現在の下関駅)に至る路線(現在の山陽本線)を敷設。1888年設立、1894年に広島まで完成。この年の8月に日清戦争が始まり、中国大陸への船積み基地となった広島と宇品へ日本各地から軍隊や物資が輸送された。同年9月から明治天皇が広島に滞在し、大本営も広島に移動して戦争の指揮に当たった。これらの人や物資の輸送には、官営の東海道線と私鉄の山陽鉄道や日本鉄道の輸送力が使われた。山陽地区は古来人や物資の往来も多いため、建設後の収支見込も悪くないと判定された。その結果、建設に際しての援助は日本鉄道に比べて大幅に少なく、建設費1マイル当たり2,000円の補助金交付にとどまった。 山陽鉄道は瀬戸内海航路との競争を強いられたという事情もあり積極的な経営で知られ、日本初のさまざまなサービスを生み出している。急行列車の設定(1894年)、入場券の発売(1897年)、列車ボーイのサービス(1898年)、食堂車の営業(1899年)、寝台車の連結(1900年)などいずれも官営鉄道より早かった。また輸送力を重視し線路は、勾配が広島県内の瀬野八区間(22.5パーミル)を除き10パーミル以下、曲線が半径300 m以上で建設された。また私鉄として唯一自社工場で機関車23両を製造した。
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山陽鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 21:41 UTC 版)
「国鉄400形蒸気機関車」の記事における「山陽鉄道」の解説
山陽鉄道においては、バルカン・ファウンドリーへ1887年に6両(製造番号1218 - 1223)、1888年に2両(製造番号1238, 1239)、1890年に4両(製造番号1298 - 1301)、ダブスへ1892年に2両(製造番号3018, 3019)の合計14両が発注されている。このうち1888年製の2両(製造番号1238, 1239)は山陽鉄道側に該当する車両がなく、注文がキャンセルされたか、海難事故等の理由により日本に到着しなかったと推測されている。 1891年、不景気によって山陽鉄道の経営が苦しくなり、保有する蒸気機関車の半数近くを売却することとなった。これらは、社長の中上川彦次郎が近い将来の神戸 - 尾道間開業に備えて購入したものであったが、その尾道延長が困難になった当時、高価な機関車を徒に保有していても仕方がないという判断であった。本形式からは、これにより官設鉄道へ2両、筑豊興業鉄道(筑豊鉄道)へ2両の計4両が譲渡された。 官設鉄道に譲渡された2両は、193, 195となったものであるが、195の製造番号が1300であることが確認されており、1890年製のうちの1両であることがわかる。筑豊鉄道へは1892年度に譲渡され、3, 4と付番されたが、後に合併により九州鉄道へ移った。 山陽鉄道に残った1887年製の6両は1形1 - 4, 6, 7号機となったが、1898年度に1, 2号機が東武鉄道および南海鉄道に譲渡された。これらの製造番号は、それぞれ1218, 1222であることが確認されており、後に鉄道院701 - 704号機となった機体は製造番号1219 - 1221, 1223であると推定できるが、これらの製造番号と番号の符合については、よくわかっていない。 1892年ダブス社製の2両は2形8, 5号機となっており、山陽鉄道のA8系は、6両在籍で1906年12月の国有化を迎えることになる。
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山陽鉄道
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「国鉄1100形蒸気機関車」の記事における「山陽鉄道」の解説
1888年(明治21年)、山陽鉄道は3両(製造番号338 - 340 → 5, 8, 9)をナスミス・ウィルソン社から購入した。これらは弁装置が再びジョイ式ウェッブ型に戻され、ランボードもシリンダ上部から側水槽まで一直線に伸ばし、直角に2回折れて側水槽の下部に達する新しい形態(第3タイプ)となった。しかし、この3両は山陽鉄道による形式が設定される以前に他事業者に譲渡されている。 2両(製造番号338, 339)は北海道炭礦鉄道に譲渡され、同社のE形(17, 18)、後にニ形となった。この際、連結器を自動式にし、先頭部にはカウキャッチャーと大型の前照灯を、ボイラー上部には鐘を取り付けて北海道スタイルになっている。また、寒さを防ぐため17は側面の開口部を小さくし、18はガラスの引戸を取り付けていた。 残りの1両(製造番号340)は官設鉄道に譲渡され190に、さらに124に改番され、奥羽南線の建設用に回され、さらに山陰線の建設用に使用された。1898年(明治31年)の鉄道作業局の形式付与では、僚車がB3形とされたのに対し、この1両のみはどういうわけかB4形とされている。
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山陽鉄道
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1888年(明治21年)11月1日:山陽鉄道により兵庫駅 - 明石駅間 (10M68C11L≒17.46 km)が開業。兵庫駅・須磨駅・垂水駅・明石駅が開業。 12月23日:明石駅 - 姫路駅間 (22M14C94L≒35.71 km)が延伸開業。大久保駅・土山駅・加古川駅・阿弥陀駅(現在の曽根駅)・姫路駅が開業。 1889年(明治22年)2月1日:全線改マイルにより2C99L(≒0.06 km)短縮。 8月:垂水駅が舞子駅に改称。 9月1日:神戸駅 - 兵庫駅間 (1M11C25L≒1.84 km)が複線で延伸開業。神戸駅で官営鉄道と接続。 11月11日:姫路駅 - 竜野仮停車場駅間 (10M0C≒16.09 km)が延伸開業。網干駅・竜野仮停車場が開業。 1890年(明治23年)7月8日:貨物支線(和田岬線)兵庫駅 - 和田崎町駅間 (1M64C≒2.90 km)が開業。和田崎町駅(現在の和田岬駅)が開業。 7月10日:竜野仮停車場 - 有年駅間 (7M39C≒12.05 km)が延伸開業。竜野駅・那波駅(現在の相生駅)・有年駅が開業。竜野仮停車場が廃止。 12月1日:有年駅 - 三石仮停車場駅間 (12M3C77L≒19.39 km)が延伸開業。三石仮停車場が開業。 1891年(明治24年)3月18日:三石仮停車場 - 岡山駅間 (27M41C≒44.28 km)が延伸開業。三石駅・吉永駅・和気駅・瀬戸駅・長岡駅(現在の東岡山駅)・岡山駅が開業。三石仮停車場が廃止。 4月25日:岡山駅 - 倉敷駅間 (9M74C≒15.97 km)が延伸開業。庭瀬駅・倉敷駅が開業。 5月9日:営業距離をマイル・チェーン・リンク表記からマイル・チェーン表記に簡略化、一部修正(神戸駅 - 倉敷駅間 101M9C8L→99M3C)。 7月14日:倉敷駅 - 笠岡駅間 (17M39C≒28.14 km)が延伸開業。玉島駅(現在の新倉敷駅)・鴨方駅・笠岡駅が開業。 9月11日:笠岡駅 - 福山駅間 (8M70C≒14.28 km)が延伸開業。福山駅が開業。 11月3日:福山駅 - 尾道駅間 (12M22C≒19.75 km)が延伸開業。松永駅・尾道駅が開業。 1892年(明治25年)7月20日:尾道駅 - 三原駅(初代)駅間 (5M50C≒9.05 km)が延伸開業。三原駅(初代・現在の糸崎駅)が開業。 1893年(明治26年)4月21日:本線が改マイルにより16C(≒0.32 km)延長。 12月3日:和田岬線 兵庫駅 - 和田崎町駅間に新川荷扱所が開業。 1894年(明治27年)6月10日:糸崎駅 - 広島駅間 (46M22C≒74.47 km)が延伸開業。三原駅(初代)を糸崎駅に改称。三原駅(2代目)・本郷駅・河内駅・西条駅・瀬野駅・海田市駅・広島駅が開業。 1895年(明治28年):和田崎町駅が和田岬駅に改称。1月25日:白市駅が開業。 4月4日:上郡駅・八本松駅が開業。 1896年(明治29年)7月1日:塩屋仮停車場(現在の塩屋駅)・舞子公園仮停車場(現在の舞子駅)が開業。 1897年(明治30年)9月25日:広島駅 - 徳山駅間 (68M41C≒110.26 km)が延伸開業。横川駅・己斐駅(現在の西広島駅)・廿日市駅・宮島駅(現在の宮島口駅)・玖波駅・大竹駅・岩国駅・藤生駅・由宇駅・大畠駅・柳井津駅(現在の柳井駅)・田布施駅・島田駅・下松駅・徳山駅が開業。 12月18日:本線が改マイルにより5C(≒0.10 km)短縮。 12月26日:万富駅・大門駅が開業。 1898年(明治31年)3月17日:徳山駅 - 三田尻駅間 (16M37C≒26.49 km)が延伸開業。福川駅・富海駅・三田尻駅(現在の防府駅)が開業。 1899年(明治32年)1月1日:兵庫駅 - 姫路駅間が複線化。 4月1日:舞子駅が垂水駅に、舞子公園仮停車場が舞子仮停車場に改称。 6月5日:岩田駅が開業。 7月23日:神代駅(初代)が開業。 12月8日:五日市駅が開業。 1900年(明治33年)4月1日:鷹取駅が開業。 4月18日:御着駅が開業。 5月14日:宝殿駅が開業。 12月3日:三田尻駅 - 厚狭駅間 (32M66C≒53.83 km)が延伸開業。大道駅・小郡駅(現在の新山口駅)・嘉川駅・阿知須駅(現在の本由良駅)・船木駅(現在の厚東駅)・小野田駅・厚狭駅が開業。 1901年(明治34年)3月31日:和田岬線が改マイルにより2C(≒0.04 km)短縮。 5月27日:厚狭駅 - 馬関駅間 (21M60C≒35.00 km)が延伸開業し、神戸駅 - 馬関駅間が全通。埴生駅・小月駅・長府駅・一ノ宮駅(現在の新下関駅)・幡生駅・馬関駅(現在の下関駅)が開業。 8月4日:金神駅(現在の金光駅)が開業。 1902年(明治35年)3月1日:阿弥陀駅が曽根駅に改称。 4月7日:和田岬線が改マイルにより14C(≒0.28 km)短縮。 6月1日:馬関駅が下関駅に改称。 11月12日:営業距離をマイル・チェーン表記からマイル表記に簡略化(神戸駅 - 下関駅間 329M21C→329.3M、兵庫駅 - 和田岬駅間 1M48C→1.6M)。 1903年(明治36年)12月:海田市駅 - 広島駅間が複線化。 1906年(明治39年)1月1日:長岡駅が西大寺駅に改称。
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山陽鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 08:46 UTC 版)
1899年4月1日私鉄の山陽鉄道が神戸駅(または官営鉄道の京都・大阪) - 三田尻駅間に設定した急行列車4往復のうち、神戸午後0時40分発の307列車を「最急行」と名づけたのが初とされている。また、1901年(明治34年)5月27日に神戸駅 - 馬関駅間の路線(後の山陽本線)を開業させた際には、4往復設定された急行列車のうち、官営鉄道に乗り入れ京都駅 - 馬関駅間を昼行で走る303・316列車にも「最急行」と名付けている。 他の急行列車が15時間半 - 16時間程度で神戸駅 - 馬関駅間を結ぶ中、この最急行は下りの303列車が12時間25分、316列車が12時間41分で結び、303列車の表定速度は40.1km/hと、当時としては驚異的なものとなっていた。山陽鉄道は瀬戸内海航路との競争を強いられており、その流れで日本初となる急行列車・食堂車・寝台車の設定を行うなど、サービス面で先進する面が多かったが、この最急行もその一環として設定されたものと見られている。なお、この当時は優等列車といっても現在の急行券に当たる特別料金は徴収しておらず、現世の快速列車のように純粋な速達サービスを図るのが設定の目的となっていた。 1905年(明治36年)1月20日には最急行をさらに発展させた「最大急行」が登場した。日露戦争勃発に伴い1904年(明治37年)には急行運用が一時廃止されるが、1906年(明治39年)4月16日に復活している。その後の消滅時期は不明である。
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