第4編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
乱は何によりて起るかを察するに、相愛せざるより起る。春秋の末に於て、最も当時の人間の良心を沸騰せしめたものは墨子の思想及びその社会運動であろう。中国思想の淵源は先秦時代に在る。この時代でも確かに墨子と先進孔子との思想は社会生活上最も偉大なる意義と影響とを与えて居る。両者ともその遠大な社会的理想と、確乎たる道徳的信念と、及びその信念に基づいて理想を実現せんとする情意の純潔と、努力の熱烈で不屈不撓な点は全く人文史上稀に観る驚異である。当時に在ってはむしろ墨子の思想の方が社会を動かすに勢力があった。孔子の終局の理想は徹底した道徳的社会の実現に在ったが、彼はその手段上できるだけ現実の社会の矛盾を包摂して、これを浄化し向上せしめて行こうとした。それがために彼の思想は往々相反したる両端の何れにも不徹底の場合が少なくなかった。それから見ると、墨子は彼の徹底せる道徳的社会の理想を端的に実現しようとした点に於て、よほど痛切な影響を人心に与えた。孔子に於けるよりも一層直接にかつ深く人間の物質的問題にも触れ、また孔子及びその弟子たちのむしろ学者的、或る意味からいえば貴族的な矜持に対して、墨子及びその弟子たちの実務的、平民的態度がより多く実際に著しい影響を与えた。 墨子の思想及びその行動の根柢をなすものは、中国独特の天に対する宗教的信仰である。天は言うまでもなく万物創造の神であると同時に、彼に取ってはまた、彼も彼の愛する社会も、これなくしては生くる能わざる、生くべからざる唯一者であった。天は即ち愛であり、正義であった。人間の社会は当然正義と愛との統治でなければならぬ。天志篇に説く。「世間の知識階級は矛盾して居る。家族の者が家長に対して罪を犯せば、なお隣家という避難所もある。しかし彼等は甚だ慎んで罪に触れることをしない。国民もまた君主に罪を得れば、隣国に避難することもできる。しかし彼等はなおさら厳にその身を慎むようである。逃げ隠れの場所があってもそれ程慎むならば、もし逃げ隠れのできない者即ち天に対してはますます大いに謹慎せねばなるまい。しかるに知識階級は、この天の事までは思いが及ばず、少しも天を畏れることをしない。矛盾である。天は何を欲し何を憎むか。世間に「義」があれば進歩があるが、義が無ければ滅亡である。天は生成進化を愛し、平和を愛する。ゆえに天は義を欲し、不義を憎むものであることを知る。義とは正すことであり、上の在るものが下に在るものに作用することでなければならない。そこに階級の存在意義がある。正すことに於て、天子が最高の地位であることは言う迄もないが、その天子もまた天の正すところであることを知るものはまことに少ない。ゆえに禹、湯、文、武の諸名王は天が天子を正すゆえんを民衆に明らかにするために祭天という式を行った。人間に在って最も富みかつ尊い天子だにそうである。苟も富みかつ尊くなりたい者は、必然に天意を奉体し、これに順わねばならない。天意に順うとは、愛と利益とを平等にすることである。天は万人に皆生命を与え、生活の資料を給し、これに光を恵んで居る。天が万人を平等に愛し、これに利益を享有せしめて居る証拠である。また一人の罪なき者の生命を奪えば、必ず己に一の不祥が起こる。天の罰であって、天が万人を愛せることはますます明らかである。天意に順うて、万人に愛と利益とを平等に確保する政治を義政(道徳的政治)といい、しからざるものを力政(圧制政治)という。」治者と被治者との階級がある。天子、公侯、将軍大夫、士、庶民等の階級がある。それは物質的ではなく道徳的にどれだけ違うかの差別でなければならない。物質的社会生活の平面図を作る種別でなくして、道徳的社会生活の層々発展する立体関係をなすものである。総ての階級は皆唯一の天を標準とし、これを統一原理とする。墨子の必然に要求した社会は是の如き階級の社会である。内部的に観れば、平等愛の光被する天地である。しかるに現実世界にはまだこの愛の光被がない。兼愛篇に説く。「聖人は社会を治めることを以てその職分として居る。社会を治めるにはその紊乱の原因からつきとめてかからねばならない。紊乱の原因を察するに、人間相互に「愛」を欠くからである。もし社会に相互愛が行われて、人を愛することその身を愛する如くであったならば、不孝も不慈も有ろうはずなく、盗賊もまた跡を絶つであろう。他家を見ること我が家の如く、他国を見ること自国に等しかったならば、大夫が互いに他家を掻き回そうとすることも、諸侯が互いに他国を攻伐することも皆止まるであろう。ゆえに社会の平和を確立せんとするものは先ずこの愛を人間に向かって説かねばならない。」墨子に取っては、かかる信条の実現も極めて公明なかつ容易な問題であった。平和は人間に取って最も利益なるがゆえに、相愛することはつまり相利することであると力説して、次のように説く。「世間の識者は自他平等に愛するということは非常に善い。しかしその実現は至難なことであると言う。しかしそれは自らの無理解を示すものである。人人相互に愛と利とを等しく分つことは、我が行えば人もまた必ずこれに報いる。何の困難なことがあろうか。ただ為政者がこれを政策に採用しないのと、知識階級が身に実行しないばかりである。荊の霊王細越の風を愛す。荊国の士腰の肥大を恐れて三飯を最大限とす。越王勾践勇を好み、臣を武断的に養成すること数年、宮中に火を放ちこれを試験し、鼓譟して軍隊を指揮す。軍人皆狂熱して毫も死を顧みず。晋の文公粗服主義を採る。士悉く粗服を纏うて参内し些かも耻ずる色無し。皆民に取って困難な問題であるが、為政者の方針に依っては如何でもなる。まして兼愛交利(互いに愛と利とを等しく分かつ意)の実現しやすいことは殆ど論を待たない。苟も為政者がこれを法制に摂取したならば、火の燃え上がる如く、水の流れ出る如く、兼愛交利は碍げようも無い天下の勢となるであろう。」人間の心には常に二つの魂の戦いがある。しかし偶に宗教的信仰の固い人、道徳の前にある尊い単純性を持った人は、何の拘泥も無く驀直に光を逐うて進み得るものである。墨子は信じたことを疑うことは無かった。なさんと欲することを実行しかねる人ではなかった。彼は総ての人にこの道徳的単純性を認めた。ただ総ての人が驀直に進むべき大道を知ることは難しい。それを示すは即ち為政者の任務である。法令はこの理想の燈火の高揚であり、大道の指示であり、躊躇逡巡の叱咤鞭撻であり、落伍者、外道者に対する制裁でなければならない。ゆえに彼は兼愛交利の社会の実現が決して困難ならざるを確信するとともに、その実現を見ないのは容すべからざる為政者の怠慢でもあるとした。 墨子は人間社会が愛に依って統治せられ、人人相互にその利益を分かたねばならぬことを確信して疑わなかったから、人間の社会を構成する国家間に戦争なるものの存在することを如何しても是認することはできなかった。墨子に取って、戦争は人間の最も矛盾したかつ不利なものであった。非攻篇に説く。「人の畑の桃李を盗めば罪悪となり、罰せられる。人の犬や豚や雞を盗むこと、牛馬を盗むことはさらに罪悪であり、侵害が大きい。凶器を以て人を殺し、財物を掠奪するに至っては、その罪悪もまた甚だしい。世の識者が不義として排斥するところである。しかるに「他国を侵略する」ことになると、これを肯定し讃美するのはわけが分からない。これ義不義を理解しないのである。義に就いて無知なるがゆえに、ここに戦勝の頌徳文などがあるのである。少しく悪をなせば罪悪とするにも拘らず、大いに悪を行うて他国を侵略すれば、却ってこれを肯定讃美するのは、確かに識者の義の観念が乱れて居ることが分かる。独り道徳的議論から許りではない。実際の利害関係から論じても、一度戦争を起こせば、民間の産業を疲弊させ、莫大の軍事財貨を消費し、人畜の死傷算無く、人民の祭祀は廃れ、その惨状は言うに忍びない。戦勝の名誉などが何の価値あるものではなし、その損害は却って利得よりも大きいこと今更言うを待たない。また戦争を弁護する者は、国家の富強を謀るためには戦争は避くべからざるものである。荊、呉、斉、晋の祖先が始め一国を建設した時は、領土人口ともに微々たるものであった。それが戦勝の功に依って今日是の如き大強国となって居る。ゆえに戦争は国家発展上決して排斥すべきものではないと論ずる。しかし世の中に絶対の利害は無い。如何なる利にも害有れば、如何なる害にも利は有る。要はただその利害の程度の問題である。真に国家の安寧福利を確保せんがためには、如何しても戦争を排斥しなければならない。侵略主義者はよく大禹の三苗征伐、湯王の桀王討伐、武王の紂王放討等を借りてきて、自己の無名の侵略を粉飾しようとする。しかし前記の戦争の如きは大禹や湯王や武王が社会民衆のために止むを得ず天に代わって義兵を起こしたのであって、貪婪たる利己的欲望のために侵略を試みたのと性質を異にする。それは侵略(攻)ではなくて、天誅である。」即ち彼は絶対に戦争否認論者ではない。戦争に攻と誅、換言すれば侵略と制裁とを区別して、侵略を極力否認し排斥する一方、制裁、社会の敵に対する武力的積極手段を肯定して居る。社会改革には二つの手段がある。一つは、偉大なる愛と力との具現者――天の使――聖王が出現して、社会に蔓る群悪侵略主義者を絶滅して、しかる後愛の統治を実現すること。一つは、有徳な君子が奮起して、そして社会改造の倫理道徳を高唱し、社会の人心を道徳的に覚醒せしむると同時に、彼の呪うべき侵略主義者に対しては互いに同盟を策して、その侵略を不可能ならしむることである。さし当たっての急務は、精神的に社会民衆の道徳的自覚を促し、実際上侵略主義者に対する神聖同盟を実現する他はない。墨子は先ず社会民衆に向かって愛の統治を説くとともに、自ら愛を統一の原理とする一家の国体を作り、諸国の主権者に向かって侵略の不義不利を説いて非戦主義を実現せしむべく、自己は勿論弟子を督励して社会に熱烈なる運動を試みたのである。しかるに非戦主義は多数同盟を得るに非ずんば、何等かの方法に依って侵略者の侵略を不能ならしめるだけの準備が要る。武道の達人であって始めて丸腰の工夫ができるのである。平和主義を主張し、侵略主義の罪悪と排斥とを高唱せんがためには、彼に侵略主義者の頭を圧えるだけの矜持が無ければならぬ。何等実際的に無力なる者が力即ち権利主義の勇猛な闘士の許に到って腕力の暴逆なるを説いたところで、それは徒に彼等の反感と軽蔑、乃至は却って暴行沙汰を挑発するに過ぎぬことは、ちょうど学問一辺の小姓が乱暴な家中の若侍を詰責し罵倒するようなものである。墨子は、熱烈なる平和主義兼愛主義宣伝の半面に深く戦術及び兵器に関する技術の研究を重ね、兼愛力行を以て集合せる彼の弟子にさらに武士的訓練を与うることに努力した。この正義の剣の力に依って、苟も無道の侵略を敢えてせんとする諸侯国に対しては、その被侵略国を飽く迄も応援し、侵略をして畢竟不可能ならしめんとした。聖侠子墨子は生涯を捧げて驀直に彼の確信の実行に東奔西走した。筆者はそこにむしろ東洋の特色である尊い道徳的単純味、高貴な精神とこれに伴う至醇至烈な情意との躍動を見る。彼の思想は徹底して功利的であるが、それがほとんど宗教的信仰に近いまでに浄められ高められて居ることは驚くべき事実である。 墨子はその弟子を諸国に派遣し遊説せしむるとともに、自分も身体の続く限り東奔西走した。しかもその間に少しも彼は講学を廃しなかった。魯を中心として斉、衞、宋、楚、古の荊等の諸国を往来した。例えば、大国楚による小国宋への侵略を、楚王に直訴して止めた。このとき、楚の智将公輸子と模擬戦闘を行い、九種類の攻撃を墨子は躱して見せた。この墨子の堅守を墨守という。墨子は依然として平和運動、社会改革に任ずる一処士であった。学び易からざるは常に確乎不抜の信念とこれに伴う純粋な操守とである。次は斉国の魯国圧迫。魯君に相対しては「どうか我が君が上は天を尊び、祭祀を厚くし、人民を愛撫せられ、速やかに四隣の諸侯と礼を尽くされて、そして国民を募って斉に備えられましたならば、斉の圧迫も必ず止むでありましょう。」と説いた。斉の項子牛が魯を侵略しようとしたとき、その大いなる罪過であることを説くとともに、さらに斉王に会見して、「鋭利な刀の不祥を切手が受けるのと同様、領土を侵略し、軍隊を覆滅し、民衆を殺戮する罪は、そもそも誰が被るのですか。」と問い、「私だ。」との答えを引き出している。魯陽の文君も、彼が鄭を侵略しようとしたとき、墨子の痛烈なる争論に遇うた一人であった。彼等は皆自己の掩有する武力の遊戯衝動と戦国的功名心とのために、その内奥の良心の麻痺し、或いは淀んだ人物である。その良心を先ず覚醒せしめ沸騰せしめんとした墨子の努力がある。 墨子の団体で特に領袖の地位に在る者を鉅(巨)子といい、その地位は中々厳しいもので、容易に授受できなかったものらしい。戦国の初、鉅子孟勝という人物が荊の陽城君の親任を受けて城代をして居た。しかるに陽城君は呉起の乱に関係して亡命し、陽城の領地は没収された。孟勝は人から託された領地を没収されては死なねば義理が立たぬと覚悟した。「自分と陽城君とは師友の関係であり、また君臣でもある。自分がもしここで死ななかったならば、今後もはや世人は厳師を求めるにも、良臣を求めるにも、我等墨者に就きはすまい。しからば自分がここに死ぬのは、まさに墨者の「義」を行い、その生命を繋ぐゆえんである。鉅子の位は宋の田襄子に譲ろう。田襄子は賢者である。自分が死ぬとも、決して墨者が世に絶ゆるようなことはない。」孟勝は二人の使者を田襄子の許に遣って鉅子を譲り、それから心静かに自殺した。このとき孟勝に殉死した弟子の数は実に183人の多きに達した。秦の恵王の時、鉅子腹䵍が恵王の尊敬を受けていた。或るとき、腹䵍の独り息子が殺人罪を犯した。恵王は少なからず同情して赦免しようとした。これを辞退。墨者の法として、人を殺す者は死罪、人を傷害したものもそれ相当の刑罰を与うることになって居る。人の殺傷を絶滅するためである。殺傷は国法もこれを厳禁するところであるからには、今もし国王の特赦を受けても、墨者の鉅子たる自分は飽く迄も墨者の法を断行せねばならないというのが彼の決心であった。恵王も止むなく国法に照らしてその子を処刑した。 墨子の社会思想の中で尚お留意すべきものは、その富国論と人口増殖論とである。古来中国の思想家は皆政治と倫理と経済との間に密接な関係を識認して居る。墨子は社会動乱の主因を二つの方面より観察して居る。一は兼愛の欠乏であり、他は生活の不安定である。就中生活の不安脅威は人間の道徳的生活を破壊する。先ず生活の保証――国家の富裕ということが社会政策の必須条件である。如何にして国家民衆の生活を富裕にすべきか。それは労働と簡易生活とに依らねばならない。墨子は安逸な生活を非常に嫌った。人間は常に肉体的にか精神的にか労働しなければならない。安逸は必然に心身の弛緩、情意の堕落を来して、知らず識らず不善を孕むものである。人間には総て分業がある。その各自の職分に朝から晩まで出精しなければならない。労働の思想に伴うものはその簡易生活である。富国の物質的要件は無用の消費を禁ずることと生産力を増進せしめることとである。墨子の観るところ当時の社会には、戦争、富豪貴族の奢侈、音楽、葬喪の礼の四大弊害が行われて居た。また、墨子の人口増殖論は生産力の増進と、無道なる侵略者に対抗すべき国力の充実とにあう。人口の増加は即ち人間の繁栄であり、幸福であるという極めて単純な自然な考えから出たもののように信ぜられる。人口の増加を妨げる諸種の原因六事。晩婚、公租公課の苛重、戦争、殉死、厚葬久喪の害、蓄妾である。 墨子からのち、その思想及び行動に自ら流派が生じた。筆者による綜合では、三派に分けて考えられる。平和主義者、博愛主義者:宋牼、尹文、胡非子派。労働主義者:相里勤、呉侯子派。詭弁派:罟獲、已歯、鄧陵子派。各派の中で、それぞれ領袖たる人が鉅子の位置に就いて、団体の間に規約を制定し、制裁を厳重にし、いわゆる「義」を以て相結んだのである。ただ時勢の変遷とともに、彼等は次第に当初の高遠な理想を離れて、いわゆる侠客風に堕することが多くなったのであろう。天下が一統せられると、彼等の団体は行政整理上甚だ都合が悪い。そこで政府の圧迫が彼等に加えられてきたのである。墨家の思想及び運動が、前漢に於て早く衰滅した理由は次の四大原因に帰する。孟子荀子等の排撃、秦始皇の言論圧迫、董仲舒の学術統一論による武帝の儒教採用と異学派の排斥、公孫弘・張湯等の墨者圧迫。第三、第四の打撃は墨家者流に取って最後の致命傷であった。殊に武帝の元朔元狩の頃宰相公孫弘及び張湯等は政府の権力を以て盛んに墨家者流を捕縛し、追放し、殺戮したものである。官吏では当時好学と義侠とを以て有名であった汲黯、処士では民間に蔚然たる勢力のあった郭解などがその犠牲の主たるものである。
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