第二次世界大戦後の日本での研究
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「高句麗論争」の記事における「第二次世界大戦後の日本での研究」の解説
河上洋によると、高句麗は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であった。 矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮・衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅と百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを夫余の系統に位置づけた。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう」と述べる。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる。 高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と述べる。19世紀後半になると朝鮮人が間島や沿海州などに移り住むようになり、朝鮮が清に対して間島の領有権を主張する。1885年と1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった。大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した。1909年の日清間における間島協約や1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による「高句麗論争」の素地になった。 外山軍治と礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民の混血」が生じたとしている。 『三国史記』巻46巻崔致遠伝では、以下の記述がある。 伏聞 東海之外有三國 其名馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷46#崔致遠 古畑徹によると、馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅とあり三韓を高句麗・百済・新羅に対応させる歴史意識が見られるが、「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識であると指摘している。また古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、金・清を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している。ちなみに古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している。 黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、黄は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている。 井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている。 このことは高句麗史研究において、現在の国境ではなく、より大きな観点から高句麗史を理解することが必要であることを端的に示しているといえる。それならば、問題を多数内包しているものの、中国東北地方と朝鮮半島を区別することなく、一体的な歴史地理的空間として高句麗史を把握しようとする満鮮史的視座は、高句麗の史的展開過程を考究する上で、有効な視角の一つとおもわれる。それは高句麗の動向を今日の国家という枠組みを超えて巨視的に理解しようとする試みの一つでもある。今日の高句麗史研究が国境を基準とする一国史的史観にとらわれ論及された結果、冒頭で示したようにさまざまな問題を惹起していることを想起すれば、満鮮史的視座は一国史的史観を克服するものとして、再度、考究される余地があってもよいのではないかと考えられるのである。 — 井上直樹、帝国日本と“満鮮史”―大陸政策と朝鮮・満州認識、p229-p230 金光林は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海・遼・金などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする。 武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海、遼などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった」と述べている。 松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり」と述べている。 奈良本辰也が編集した『日本歴史大辞典』には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた」と記述してある。 山田信夫は、「高句麗は漢以降の中国王朝と対立することが多かったが、3世紀末には夫余に代わって勢力を伸ばし、南方、半島の韓族も圧迫して大国となった」と述べている。 藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する」「其文化は漢、晋、六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である」と記述している。 浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族の歴史とも関係のない異民族が建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国の地方政権の歴史として、韓国の歴史認識を封じ込めんとした」として、「高句麗が領土としていた朝鮮半島北部地域が中国人が建国した箕子朝鮮・衛満朝鮮の故地であり、漢四郡(楽浪郡・臨屯郡・真番郡・玄菟郡)が所在した地域であることから、韓国・北朝鮮が歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズムの発揚と接合して歴史認識を確認」し、「韓国は、建国神話と歴史事実を混同させつつも、現在の政治イデオロギーを抑え込もうとすることへの対決と走った」と述べている。 宮脇淳子は、「このドラマ(『太王四神記』)は済州島でロケをしていて、そのことが日本で大きく宣伝されたりしましたが、ドラマの舞台の大半は今の中国領の話なのです。談徳が本拠にする国内城も、現在の中国の遼寧省にあります。私がそう言うと驚く人が多いのですが、高句麗を舞台にした『朱蒙』や『太王四神記』は、実際は今の北朝鮮よりもさらに北方の話なのです。それを済州島でロケをしていることを強調するなどして、いかにも韓国につながるように印象づけています。国民国家史に沿ってドラマをつくるので、現在の韓国の歴史であるかのように描くしかないのがつらいところで、本気で史実を追求したら、韓国史はメチャクチャなことになる。端的に言えば、『外国』の話になるわけです。要するに、現在の韓国がある土地に住んでいた人々にとって、高句麗人は異民族だったのです。それを何とかして今の韓国に結び付けようとして、彼らは古朝鮮という国家を持ち出して正当化しようとするわけです。そのためドラマの中でも談徳に『昔は高句麗、百済、靺鞨、鮮卑も兄弟だった』などというセリフを言わせています。こんな理屈がまかり通るなら人類皆兄弟です。その点が大陸と地続きであることの宿命で、朝鮮半島史を書く時は本当に不自由なのです。われわれ歴史家からすれば、韓国史だけを切り離して語るなんてとても無理な話で、シナの歴代王朝ともつながっているし、モンゴルともつながっているし、さらに日本とも一体の話なのです。それを国民国家史に合わせるために、『あそこは切ってこの話だけにしよう』といったように描かざるを得ない。脚本家の縛りはすごく大変だろうなと同情します」「そもそも実際には、『朱蒙』の時代に朝鮮民族という概念はありません。にもかかわらず、ドラマでは夫余までもが朝鮮民族がつくった国にされているのです。朝鮮人は歴史的に満洲人を見下してきましたが、高句麗は夫余から分かれた国で、その夫余は満洲で半農半牧の生活をしていた人々です。バカにしてきた民族を今度は自分たちの祖先だと誇るというのは、どう考えても自己矛盾でしょう。…韓国が高句麗を即自分たちの祖先とするのもかなり無理があるのです」「歴史を遡ってみても、高句麗のように北から入ってきた人たちと、三韓時代に南にいた人たちが、韓国人が言うように本当に同族だったかは非常に怪しいと思います。だからこそ、李氏朝鮮の500年間を見ても階級が固定したままで、奴婢のように人権のない人たちがいる一方、両班はずっと両班であり続けたのだと思います」と述べている。 夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました」と述べている。 南出喜久治は、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている。 室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている。 宇山卓栄は、「朝鮮半島には、目に見えない分断が元々、ありました。『血の分断』です。古代において、異なる血統の2つの民族が半島に住んでいました。北に住んでいたのが満州人、南に住んでいたのが韓人です。ソウルの南側を東西に流れる大河、漢江があります。大まかに言うと漢江を境にして、北側が満州人のエリア、南側が韓人のエリアでした。長い歴史の中で、この両者が混血し、朝鮮人となり、今日に至ります。韓人は朝鮮半島の南部から中部にいた農耕民族で、半島の中心的な原住民です。満州人は朝鮮半島の北部にいた狩猟民族で、中国東北地方の満州を原住地とします。満州人のエリアには高句麗、韓人のエリアには新羅、任那、百済が建国されました。古代において、満州人と韓人は南北で争っていました。この『血の分断』を中国の王朝は最大限利用し、朝鮮半島を巧みに支配しました。韓人というのは現在の韓国人の元となった民族です。では、満州人はいったいどういう人たちなのでしょうか。満州人は現在の中国領に属する満州を原住地とする人で、満州平野を中心に、遼東や朝鮮半島北部に分布していました。そのため、満州人は朝鮮人ではなく、中国人ではないのかと多くの人が疑問を持つと思います。17世紀に中国最大の王朝の清を築くのも、この満州人です。満州人は中国から朝鮮半島に至るまで広範に分布しており、韓人よりも人口が多く、強大な勢力を誇っていました」「満州人が最初に建国した王国が高句麗です。紀元前1世紀に、朝鮮半島北部に建国され、4世紀末から5世紀に最大版図に達し、満州人の分布エリア全体を国土としました。…満州は中国に属し、そこに暮らす『原満州人』たちも中国に属します。また、高句麗の国土の三分の二が現在の中国領です。このような観点から、中国は『高句麗は中国に属する』と主張しています。中国は朝鮮半島への支配を強化する正当性を歴史的な背景から得ようと企んでいます」「日本としては、高句麗は朝鮮の歴史に属することを暗黙の了解にしています。その証拠に、日本の学校では、高句麗の歴史は朝鮮の歴史というカテゴリーで習いますし、教科書でも朝鮮史として記述されています。そのため、我々は『高句麗が百済や新羅と同じ朝鮮の王国』というイメージを強く持っています。しかし、中国が主張するように、民族の系譜で見てみれば、高句麗は必ずしも、朝鮮史に属するとは言えません。また、中国は百済も中国史に属するという主張をしています。7世紀の中国の史書『周書』や『隋書』では、百済の王族が満州人の一派の夫余族出身で、高句麗王族から派生したと記されています。このことから、中国は『百済は中国人の王国』と主張しています。百済の民の中には、中国の山東半島から移民してきた漢人もいましたが、そのほとんどは韓人であったと考えられます。高句麗が王族も民も満州人だったのに対し、百済は王族の始祖だけが満州人でした。その後の王は現地の韓人と混血し、同化していきます。『百済は中国人の王国』という中国の主張は言い過ぎでしょう」と述べている。 申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』には以下のような文章がある。 韓国民族は70万年前の旧石器時代から新石器・青銅器時代へと移り、古代国家を成立させて以後、現在まで東アジアの主役として堂々と固有の歴史を守り続けてきた。特に、古代社会で韓民族は満州大陸を支配しながら中国の東進を防ぎ、近代に入り一時期日本の支配を受けたものの最後まで民族の独自の文化を守り続けてきた。…他の国を侵略した事がない平和を愛する民族である。…満洲で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満洲を支配した東アジア最大の国家だった。 — 申瀅植、梨花女子大学校コリア文化叢書 韓国史入門、p4 この申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』に対して、倉山満は、「お国自慢をはじめてしまうのです。『侵略した事がない』と『支配した』に矛盾を感じなかったのでしょうか」「実証主義の歴史専門家からすると、考古学と歴史学と政治的宣伝が混在していて頭が痛くなります。あえてひとつだけ挙げるとすると、韓国人への啓蒙書なので冒頭は『韓国民族』で始まるのですが、途中の『韓民族』は大韓民国とは無関係です。むしろ、今の北朝鮮の領域の人たちのご先祖さまです。もっと正確に言うと、朝鮮北部と満洲を支配したのがKorea民族であるかは、かなり疑問です」「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満洲人です。より正確に言えば、満洲から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも『純粋Korea人』でないことだけは確かです。中韓の間で、『高句麗は中国か朝鮮か』という歴史論争がありますが、『どちらでもない』が正解です。『今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだ』という思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはいけません」「高麗とは高句麗の別名です。高句麗は、前述のように朝鮮北部と満洲を勢力圏としていました。満・韓・漢のどの民族であるかなど、完全に区切ることはできません」と批判している。また、渤海を「渤海(のちの満州人)」として、「唐は渤海(のちの満州人)との対立と新羅の謀反で日本どころではなくなります。ついでに言うと、韓国人はこの渤海の歴史も韓民族の歴史に組み込んでいます。渤海の侵略を防いだり、渤海の栄光を誇ったり、忙しいのが韓国人の歴史観です」と批判している。 横田安司は、韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化における民族主義史学以降であるため、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している。戦後になると石井正敏をはじめとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。また戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている。 東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、高句麗が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない、と述べている。 現在の日本の教科書では、高句麗は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われるが、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という記述の教科書もある。 田中俊明は、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・韓の諸民族が併存している様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識は存在せず、特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は晋代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であり、中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなく、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであると述べている。
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