広開土王碑とは? わかりやすく解説

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広開土王碑

読み方:コウカイドオウヒ(koukaidoouhi)

高句麗第一九代国王広開土王好太王功績編年的に叙述して記した石碑


好太王碑

(広開土王碑 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 14:57 UTC 版)

座標: 北緯41度7分49.4秒 東経126度11分2.6秒 / 北緯41.130389度 東経126.184056度 / 41.130389; 126.184056


  1. ^ 藤田友治 (1983年). “好太王碑改削説への反証”. 市民の古代. オリジナルの2020年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201018082438/http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin05/fujita51.html 
  2. ^ 藤田友治. “好太王碑の新たな論争点”. 市民の古代. オリジナルの2020年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201018082631/http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin07/fujita71.html 
  3. ^ 同じく5世紀の建立の中原高句麗碑においては、征服地である新羅の民衆への理解を考慮し新羅語の制約を受けた表記法になっていると推察される。李 2000[要ページ番号]
  4. ^ a b c 西嶋定生『日本歴史の国際環境』東京大学出版会〈UP選書 235〉、1985年1月1日、21頁。ISBN 4130020358 
  5. ^ a b c d e f g h i j 坂元義種「巻頭史論 研究史 古代の日本と朝鮮--「七支刀」「好太王碑」「倭の五王」研究の成果と課題」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、51-55頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i 坂元義種「巻頭史論 研究史 古代の日本と朝鮮--「七支刀」「好太王碑」「倭の五王」研究の成果と課題」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、55-58頁。 
  7. ^ 酒寄雅志渤海史研究と近代日本』明治大学史学地理学会〈駿台史学 (108)〉、1999年12月、6頁https://hdl.handle.net/10291/1522 
  8. ^ a b 岩波新書『日本の誕生』1997年、ISBN 4-00-430510-1、54~56頁。
  9. ^ a b c 野呂肖生・笠原一男『史料による日本史』山川出版社、2007年1月1日、4-5頁。ISBN 978-4-634-02023-8 
  10. ^ 井上 2004, 85頁
  11. ^ 鈴木靖民 編『倭国と東アジア』吉川弘文館〈日本の時代史 2〉、2002年7月、22頁。ISBN 4-642-00802-0http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32042.html 
  12. ^ 森公章浜田耕策 (2010年). “古代王権の成長と日韓関係 ―4~6世紀―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第2期) (日韓歴史共同研究): p. 120. オリジナルの2022年8月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220813102055/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf 
  13. ^ “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210511192943/https://www.yna.co.kr/view/AKR20110823082800005 
  14. ^ 李 1972[要ページ番号]
  15. ^ 浜田耕策「高句麗広開土王碑文の研究――碑文の構造と史臣の筆法を中心として(日本における朝鮮史像(特集))」『朝鮮史研究会論文集』第11号、朝鮮史研究会、1974年3月、1-37頁、ISSN 0590-8302 
  16. ^ 武田幸男「広開土王碑文辛卯年条の再吟味」(武田 1989)pp. 152-186
  17. ^ 上田正昭 (2010年10月20日). “高句麗・好太王碑の拓本”. 日本経済新聞(夕刊) (日本経済新聞社) 
  18. ^ 東方史学会好太王碑訪中団の報告
  19. ^ a b c d 原田実「改竄された好太王碑文」『トンデモ偽史の世界』楽工社、2008年9月19日、301-302頁。ISBN 978-4-903063-24-9 
  20. ^ 王健群『好太王碑の研究』雄渾社〈シリーズ歴史研究〉、1984年12月。ISBN 4-8418-3000-6 
  21. ^ “好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 吉村明大教授「改竄論争に終止符」”. 読売新聞: p. 19. (2006年4月14日). "中国社会科学院の徐建新氏は、「好太王碑拓本の研究」(東京堂出版、2006年、335 ページ)において「酒匂拓本と全く同じであり、改竄は全く無かった」ことを証明した。" 
  22. ^ 徐建新『好太王碑拓本の研究』東京堂出版、2006年2月。ISBN 4-490-20569-4 
  23. ^ 関晃『日本古代の政治と文化』吉川弘文館、1997年1月1日。ISBN 4642023054 
  24. ^ 朴 1985 P350-P352[要ページ番号]
  25. ^ 坂元義種「巻頭史論 研究史 古代の日本と朝鮮--「七支刀」「好太王碑」「倭の五王」研究の成果と課題」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、54頁。 
  26. ^ 中国国家宝物局発行『中国文物報』1月4日発行


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広開土王碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)

三韓征伐」の記事における「広開土王碑」の解説

詳細は「好太王碑」を参照 広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島進出して百済新羅臣従させ、高句麗激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。 李進熙は、1972年好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文大日本帝国陸軍大日本帝国半島進出正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年平成17年6月23日墨本中国発見され、さらに2006年平成18年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年明治14年)に作成され現存最古拓本酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄捏造説は完全に否定された。

※この「広開土王碑」の解説は、「三韓征伐」の解説の一部です。
「広開土王碑」を含む「三韓征伐」の記事については、「三韓征伐」の概要を参照ください。

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