渤海 (国)
(渤海人 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 06:23 UTC 版)
渤海(ぼっかい、朝鮮語:발해 パレ、中国語: 渤海、満洲語: ᡦᡠᡥᠠᡳ[要出典]、ロシア語: Бохай、698年[9] - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。靺鞨族の大祚栄により建国され[10]、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
- ^ 朱・魏 1996, p. 248朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「文献に記録されている言語は未詳であって、その全体を究明することは難しい。わずかに『新唐書』渤海伝および『旧五代史』渤海靺鞨などの史書に、渤海では王を『可毒夫』と呼び、王に対面する時は『聖』と呼び、上表する時は『基下』と書くとあるが、この『聖』は明かに漢語からの借用語である。ソ連(ロシア)の学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunov、ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、『可毒夫』とはおそらく満洲語の『卡達拉』(管理するの意味(ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊/kadala-))やナナイ語の『凱泰』と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う。また、渤海人と靺鞨人の名前には最後に『蒙』の字の一音節を持つ『烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙』などの例がある。この『蒙』の音は靺鞨語の中で重要な膠着語尾の一つであることが知られる。ツングース語系の各民族は氏族を『木昆』『謀克』と称するが、『蒙』の音が『木』や『謀』の音と近いことを考えると、この『蒙』の音は、その人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。当時、靺鞨語が国家の公用語であり、広汎に使用されていたことは間違いない」と述べている。
- ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。"八一〇年(弘仁元)五月、帰国を目前にした渤海使の一員であった首領の高多仏が使節団から一人離脱して、越前国にとどまることになった。いわば亡命である。高多仏はその後、越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習することになったが、この高多仏が教習した渤海語とは、いったいどのような言葉であったのだろうか。『新唐書』渤海伝に、「俗に王を謂いて、可毒夫と曰う。聖主と曰う。基下と曰う」と、王の俗称、つまり固有の呼び方があったことを伝えている。このことは渤海には、独自の言語が存在したことを示しているといえよう。そもそも言語と密接な関係にあるのが民族であるが、渤海は高句麗の遺民や粟末あるいは白山靺鞨などを糾合して樹立された多民族国家である。とすればまずは高句麗語が話されていたことは想像に難くないが、粟末靺鞨や白山靺鞨の前身ともいうべき挹婁や勿吉について、『魏志』東夷伝挹婁条には、「その人の形夫余に似る。言語、夫余、句麗と同じからず」とあり、また『北史』勿吉伝にも「勿吉国は高句麗の北にあり。一に靺鞨と曰う。…言語、独り異なる」とあることから、靺鞨の言語は周辺諸民族ときわだって異なっていたのであろう。したがって靺鞨諸部もその構成民族とする渤海では、靺鞨語が話されていたことになる。しかも渤海が領域を拡大していく過程で、越喜や鉄利・払涅などの北方の靺鞨諸部を征服し多くの部族を内包しており、靺鞨語とはいえ、地域や伝統によって差異、つまり方言などもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗語をはじめ多様な靺鞨語が話される多重言語の世界であったのである。以上のような理解に立つならば、在地の首長である首領の高多仏が教習した渤海語とは、こうした靺鞨語ではなかったかと思われる。"。
- ^ a b 波戸岡旭『渤海国の文学—日渤応酬詩史概観』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、67頁。"渤海国は靺鞨族を主体とし高句麗人・漢人・突厥人・契丹人・室韋人・回紇人など多くの民族がいたらしいが、建国当初は靺鞨語を公用語とした。しかし政治機構をはじめとしてもろもろの制度・文化が唐風化されて行くうちに、漢語が公用語となっていった。また、渤海は高句麗の文化・文学を継承したが、高句麗の文化・文学はすでに唐風化されていたものである。そして更に渤海建国の後も唐風化されつつ大いに栄えた。但し、大使に文官が任命されるようになったのは、第六回朝貢使からである。"。
- ^ a b 上田雄『渤海使の研究』明石書店、2001年12月27日、126頁。ISBN 978-4750315072。"可毒夫について、朱国忱・魏国忠の『渤海史』では『ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunov、ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、「可毒夫」とはおそらく満州語の「卡達拉カダラ」(管理するの意)やナナイ語の「凱泰カイタイ」と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う』と紹介している。また石井正敏は可毒夫とは『仏陀の対音であろう(稲葉岩吉『増訂満州発達史』)とする見解もあるが、あるいは全くの憶測に過ぎないが、原語で「大王」のごとき意味をもっていたものではなかろうか。識者のご教示をまちたい。』と、している。"。
- ^ 劉毅『渤海国の族源について-中国・日本・朝鮮関連史料の考察-』國學院大學〈国学院雑誌〉、1997年7月、60頁。劉毅(遼寧大学)は「渤海国の風俗について、『新唐書』渤海伝に、「俗謂王曰可毒夫、曰聖王、曰基下。其命爲教。王之父曰老王、母太妃、妻貴妃、長子曰副王、諸子曰王子。」とあり、王を可毒夫と称する風俗のあることが知られる。この可毒夫と呼ぶ用語については、ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunov、ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)氏の研究によれば、可毒夫とはおそらく満州語の卡達拉(管理するの意味)や、ナナイ語の凱泰(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、この可毒夫を仏陀の対音であろうと説く学者もある。いずれにしても、可毒夫と呼ぶ用語が朝鮮についての歴史文献である両唐書の高句麗伝、百済伝、新羅伝には、見られないことは事実である。これこそ、渤海人の出自が高句麗人ではなかった反証であろう」と述べている。
- ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42-43頁。"八七三年(貞観一五)五月に、肥後国天草郡に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、大宰府の遣わした大唐通事の張建忠の取り調べを受け、渤海の入唐使であることが判明した。このことは崔宗佐らが、唐語=漢語を話せたことを示している。もっとも崔宗佐らは入唐使であるから、唐語を話せたのは当然ともいえるが、渤海人が唐語を話したことの微証にはなるであろう。また一九四九年に吉林省敦化県の六頂山から発見された渤海第三代王大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や、一九八〇年、延辺朝鮮族自治州和竜県の竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主墓誌などをみると優れた駢儷体の漢文で書かれていることや、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒などが漢文で書かれ、また王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることを想起すると、渤海人が漢字を熟知していたことは確かである。もとより漢字を使用していたことが、ただちに唐語を話し言葉として使っていたとはいえないが、渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族や民族集団を統一していく手段として、漢語の導入をはかったのであろう。日本へ派遣された渤海使たちも、唐語で日本人と意思の疎通をはかっていた。だからこそ春日宅成や伊勢興房、また、大蔵三常のように、豊かな在唐経験に裏打ちされた唐語に秀でた人物が渤海通事に任じられたのである。"。
- ^ 古畑 2017, p. 89-90 古畑徹は「渤海が国家の意思を表現し、記録を遺すのに使用した文字は、漢字である。独自の文字の存在は確認できないし、同時期にユーラシアで使用されていたほかの文字(突厥文字、ウイグル文字、ソクド文字など)が国内で使用された形跡もない。記録を残すのに漢字が使用されたことを証明するのが、墓誌である。渤海の墓誌は、現在、四つ発見され、いずれも皇后・公主のもので、漢文で書かれている。墓誌は、墓の外に立てる墓碑と違い、墓のなかに納めてしまう。そのため、その文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけで、それが読者として想定されている。ということは、皇后・公主の埋葬に集まる支配層の人々が共通に読めるのが、漢字・漢文だったということである。文字文化という点でみれば、渤海が漢字文化圏に属すことは明白である。それだけでなく、渤海の支配層は漢語で会話ができたとみられる。それを窺わせるのが、日本と渤海との外交交渉の共通言語が漢語だった点である。日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され、通訳をした。この渤海通事の使用言語が漢語であり、渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した。そもそも渤海を構成する高句麗人や靺鞨諸族は、それぞれ独自の言語を有しており、渤海は多重言語世界であったとみられる。このような場合、優位性を持つ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を相互の意思疎通のための共通言語にすることもある。渤海の場合、建国集団は、唐領域内に居た高句麗人・靺鞨人の混成集団であったから、その指導層は漢語が話せたはずで、これを異なる種族間の意思疎通に使っていたと思われる。そのあり方が、その後の多様な種族の吸収にあたって有効に機能し、そのまま継続したのであろう。一方、渤海に独自言語が存在したことも、『日本紀略』弘仁元年(八一〇)五月丙寅条に、越中国の史生と習語生を渤海人高多仏に師事させて『渤海語』を習得させたという記事があるから、間違いない。ちなみにこの高多仏は、渤海使の一員として来日したが、脱出して日本に残り、越中国に安置された者である。ともかくも、渤海には、漢語と『渤海語』という二種の共通言語があったと想定され、なかでも漢語は支配層による公用語的位置にあったとみられる。漢語には当時、異なる言語を話す渤海領域内の人々を納得させるだけの権威があったのであろう」と述べている。
- ^ 浜田 2000, p. 127-128 浜田耕策は「渤海の遣日本使の一行は、日本側との意思疎通のために、文字言語では漢文の外交文書等を交換していた。しかし、音声言語はどうであったか、交渉記録にはこれに関する言及はない。双方の音声言語になんら支障がなかったかのようである。そこに通事が仲介して中国語で対話したからであろう」と述べている。
- ^ 元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
- ^ "渤海(ぼっかい)". 山川 日本史小辞典. 山川出版社. 2016年3月4日. 2022年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。
- ^ 外山軍治、礪波護『隋唐世界帝国』人物往来社〈東洋の歴史5〉、1967年、358頁。
- ^ 西嶋定生『日本歴史の国際環境』東京大学出版会〈UP選書 235〉、1985年1月1日、136頁。ISBN 4130020358。
- ^ 源氏物語に黒貂の毛皮を纏っている女性の描写が見られる。
- ^ 古畑 2017, p. 74
- ^ a b c d e 古畑 2017, p. 78-80
- ^ 三上 1990, p. 230
- ^ 澤本 2008a, pp. 23–50.
- ^ 三上 1990, p. 220-221
- ^ 三上 1990, p. 222
- ^ 澤本 2008b, pp. 1097–1122.
- ^ 三上 1990, p. 221
- ^ a b 古畑 2017, p. 151-152
- ^ 北村 1998, pp. 71–72.
- ^ a b 北村 1998, p. 72.
- ^ 北村 1998, p. 73.
- ^ 北村 1998, pp. 72–73.
- ^ 北村 1998, pp. 73–74.
- ^ "신증동국여지승람 제24권 / 경상도(慶尙道)". 韓国古典翻訳院. 2021年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。
- ^ a b 北村 1998, p. 74.
- ^ 北村 1998, p. 70.
- ^ 北村 1998, p. 75.
- ^ 金毓黻『东北通史』五十年代出版社〈上编六卷〉、1981年、262-263頁。
- ^ 刘振华『渤海史识微』〈学习与探索 1982年第6期〉1982年。
- ^ a b c d 森安 1982, p. 76-77
- ^ 橋本 1937, pp. 43–44.
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、441-442頁。ISBN 978-4582802832。
- ^ 橋本 1937, p. 55.
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、444頁。ISBN 978-4582802832。
- ^ 田村晃一 (2013年). "近時における渤海都城研究の動向と課題". 青山考古. 青山考古学会. NAID 40022116642。
- ^ a b c d e f g h 堀井佳代子 (2020年11月14日). "平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係". 現代ビジネス. 2020年11月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。
- ^ a b 李 1998, p. 420
- ^ 李 1998, p. 426
- ^ a b 李 1998, p. 421
- ^ 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、156頁。ISBN 978-4000108294。
- ^ 古畑 1988, p. 49.
- ^ 李 1998, p. 381
- ^ 李 1998, p. 400-401
- ^ a b 李 1998, p. 402
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 209
- ^ 高仁義を筆頭とする24名を派遣している。『続日本紀』727年(神亀4年)9月庚寅の条
- ^ 堀井佳代子『平安前期対外姿勢の研究』臨川書店、2019年3月1日、27-34頁。ISBN 4653044120。
- ^ 堀井佳代子『平安前期対外姿勢の研究』臨川書店、2019年3月1日、49-71頁。ISBN 4653044120。
- ^ a b 李 1998, p. 418
- ^ 湯沢 1997, p. 20
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 202
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 299-300
- ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 326
- ^ 『古銭新典』P265
- ^ 小嶋芳孝『渤海考古学の現状と課題--渤海都城の変遷と水系を考える』大和書房〈東アジアの古代文化 (96)〉、1998年8月、137頁。
- ^ エ・ヴェ・シャフクノフ『北東アジア民族の歴史におけるソグド人の黒貂の道』大和書房〈東アジアの古代文化 (96)〉、1998年8月、144頁。
- ^ a b c 酒寄雅志 (2010年3月19日). "渤海の遣唐使". 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報. 専修大学社会知性開発研究センター.
- ^ 礪波護、武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史〉、1997年、405頁。ISBN 978-4124034066。"支配階層は中国文化に親しみ、漢字・漢文を駆使し、儒教や中国の故事来歴につうじていた。とくに渤海後期に日本にきた使節たちは、日本の文人と好んで詩賦をうたいかわした。日本であまれた漢詩集『文華秀麗集』などに、王孝廉・釈仁貞らがつくった、優れた詩篇が残されている。"。
- ^ a b c 酒寄雅志 (2004年10月19日). "早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」". 日本海学推進機構. 2021年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。
- ^ 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、441頁。ISBN 978-4582802832。
- ^ 朱・魏 1996, p. 248
- ^ 酒寄雅志 (2011年). "2010年度第6回日本海学講座 渤海と古代の日本" (PDF). 日本海学推進機構. p. 6. 2013年11月2日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。
渤海使の応接には、漢文学に優れた者が任ぜられた。外交使節が詩宴の席で漢詩を詠むことは、国家の威信を懸けた「闘筆」の場であり、それには当代随一の文人が当たった。その代表者が菅原道真であり、応接した渤海大使裴頲は、「七歩あるくごとに詩を一篇賦す」とされた人であった。こうした外交の場で話されていたのは漢語、つまり中国語である。渤海は多民族国家なので、国家を統一していくときに共通語として漢字と漢語が使われたのだろう。従って、日本側の通訳は皆、中国に行ったことがある人が充てられていた。
- ^ 酒寄 2001, p. 312
- ^ a b c d 古畑 2017, p. 89-90
- ^ 朱・魏 1996, p. 247
- ^ 湯沢 1997, p. 29
- ^ 酒寄 2001, p. 304
- ^ 酒寄 2001, p. 306-307
- ^ 酒寄 2001, p. 308
- ^ 酒寄 2001, p. 310
- ^ 酒寄 2001, p. 305
- ^ 湯沢 1997, p. 27
- ^ a b c 湯沢 1997, p. 30
- ^ a b c 湯沢 1997, p. 28
- ^ a b c 湯沢 1997, p. 29
- ^ a b c d e f g 湯沢 1997, p. 32-34
- ^ a b c 湯沢 1997, p. 34
- ^ a b c d e 湯沢 1997, p. 41
- ^ a b 湯沢 1997, p. 39
- ^ 月刊しにか 1998, p. 42-43
- ^ 朱・魏 1996, pp. 250
- ^ 朱・魏 1996, p. 251
- ^ a b 朱・魏 1996, p. 250
- ^ 朱・魏 1996, p. 250-251
- ^ 朱・魏 1996, p. 252
- ^ 朱・魏 1996, p. 252-253
- ^ a b c 姜成山 2014, p. 40
- ^ a b c d e 浜田 2000, p. 82-83
- ^ a b c d 河上洋『渤海の貴族と王権』大谷学会〈大谷学報 = THE OTANI GAKUHO 67〉、1987年9月、52-53頁 。
- ^ a b c 佐藤 2003, p. 210
- ^ a b 河上洋 1983, p. 207-208
- ^ 鈴木靖民『渤海の首領に関する予備的考察』龍渓書舎〈朝鮮歴史論集 上巻〉、1979年、447頁。
- ^ 河上洋 1983, p. 208
- ^ 佐藤 2003, p. 216
- ^ a b c d e 鈴木靖民. "入唐求法巡礼行記の世界の背景―渤海国家の交易と交流―" (PDF). 入唐求法巡礼行記研究会. 2006年7月21日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。
- ^ a b c d 浜田 2000, p. 6
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:資治通鑑/卷277
- ^ 佐藤 2003, p. 29
- ^ a b c d 古畑 2017, p. 165-167
- ^ a b c d e 佐藤 2003, p. 211-212
- ^ a b 石井 2001, p. 145
- ^ a b c 李成市『古代東北アジア諸民族の対日本通交--穢・高句麗・渤海を中心に』大和書房〈東アジアの古代文化 (96)〉、1998年8月、90-91頁。
- ^ 金鍾圓『渤海의 首領에 대하여-地方統治制度와 關聯하여-』全海宗博士華甲記念史學論叢、1979年。
- ^ 金東宇『渤海의 地方統治體制 운영과 그 변화』韓國史學報、1996年。
- ^ 宋基豪『渤海 首領의 성격』지식산업사〈한국 고대·중세의 지배체제와 농민〉、1997年。
- ^ 朴真淑『渤海의 地方支配와 首領』国史編纂委員会〈國史館論叢97〉、2002年。
- ^ 東北アジア歴史財団 2009, p. 393
- ^ a b 石井 2001, p. 129
- ^ 朱栄憲『渤海文化』雄山閣出版〈考古学選書〉、1979年3月1日、175-176頁。ISBN 4639009100。
- ^ 張博泉、程妮娜『論渤海国的社会性質』黒龍江省社会科学院〈学習与探索〉、1982年。
- ^ 石井 2001, p. 132
- ^ a b c 佐藤 2003, p. 213-214
- ^ a b c d 佐藤 2003, p. 213
- ^ 河上洋 1983, p. 215
- ^ a b 河上洋 1983, p. 210
- ^ 河上洋 1983, p. 211
- ^ 河上洋 1983, p. 212
- ^ 金毓黻『渤海国志長編』文海出版社、681頁。
- ^
官有宣詔省、左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省、右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省、大内相一人、居左右相上;左、右司政各一、居左右平章事之下、以比僕射;左、右允比二丞。左六司、忠、仁、義部各一卿、居司政下、支司爵、倉、膳部、部有郎中、員外;右六司、智、礼、信部、支司戎、計、水部、卿、郎准左;以比六官。中正台、大中正一、比御史大夫、居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺、有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺、寺有卿。司蔵、司膳寺、寺有令、丞。冑子監有監長。巷伯局有常侍等官。(『新唐書』渤海伝)
官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。冑子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった[36]。中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海
- ^
北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通。(『三国史記』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)
北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と[42]
- ^
廿七日庚寅。先是。大宰府言。去三月十一日。不知何許人。舶二艘載六十人。漂着薩摩國甑嶋郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書曰。宗佐等。渤海國人。彼國王差入大唐。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)五月二七日)
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿三
- ^
八日庚午。先是。大宰府馳驛言。渤海國人崔宗佐。門孫。宰孫等漂着肥後國天草郡。遣大唐通事張建忠覆問事由。審實情状。是渤海國入唐之使。去三月着薩摩國。逃去之一艦也。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)七月八日)
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿四
- ^
廿五日甲午。渤海國使楊中遠等。自出雲國還於本蕃。王啓并信物不受而還之。大使中遠欲以珍翫玳瑁酒盃等。奉獻天子。皆不受之。通事園池正春日朝臣宅成言。昔徃大唐。多觀珍寳。未有若此之奇恠。(『日本三代実録』八七七年(元慶元)六月二五日)
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第卅一
- ^
明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。(『扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日)
- ^
渤海使首領高多佛脱身留越前國。安置越中國給食。即令史生羽栗馬長并習語生等就習渤海語。(『日本紀略』八一〇年五月二七日)
- ^
乙未。令美濃。武藏二國少年。毎國廿人習新羅語。爲征新羅也。(『続日本紀』天平宝字五年一月九日)
- ^ 開元十三年、安東都護薛泰請于黑水靺鞨內置黑水軍。續更以最大部落爲黑水府、仍以其首領爲都督、諸部刺史隸屬焉。中國置長史、就其部落監領之。 — 旧唐書、巻一九九下、靺鞨伝
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:舊唐書/卷199下#靺鞨 - ^ 敕雞林州大都督新羅王金興光。賀正謝恩兩使續至。再省來表。深具雅懷。卿位總一方。道踰萬里。託誠見於章奏。執禮存乎使臣。雖隔滄溟。亦如面會。卿既能副朕虚巳。朕亦保卿一心。言念懇誠。毎以嗟尚。況文章禮樂。粲焉可觀。德義簪裾。浸以成俗。自非才包時傑。志合本朝。豈得物土異宜。而風流一變。乃比卿於魯衛。豈復同於蕃服。朕之此懷。想所知也。賀正使金義質及祖榮相次永逝。念其遠勞。情以傷憫。雖有寵贈。猶不能忘。想卿乍聞。當甚軫悼。近又得思蘭表稱。知卿欲於浿江寘戍。既當渤海衝要。又與祿山相望。仍有遠圖。固是長策。且蕞爾渤海。久已逋誅。重勞師徒。未能撲滅。卿毎疾惡。深用嘉之。警寇安邊。有何不可。處置訖因使以聞。今有少物。答卿厚意。至宜領取。春暮已暄。卿及首領百姓並安好。遣書指不多及。 — 文苑英華、巻四七一、勅新羅王金興光書第二首
- ^
- ^
- 渤海人のページへのリンク