聖武天皇
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聖武天皇 | |
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『聖武天皇像』 鎌倉時代・作者不詳 | |
元号 |
神亀 天平 天平感宝 |
時代 | 奈良時代 |
先代 | 元正天皇 |
次代 | 孝謙天皇 |
誕生 | 701年9月18日 |
崩御 | 756年6月8日(54歳没) |
陵所 | 佐保山南陵 |
漢風諡号 |
勝宝感神聖武皇帝 (聖武天皇) |
和風諡号 | 天璽国押開豊桜彦天皇 |
諱 | 首(おびと) |
別称 | 沙弥勝満 |
父親 | 文武天皇 |
母親 | 藤原宮子 |
皇后 | 藤原光明子 |
夫人 |
藤原南夫人 藤原北夫人 橘古那可智 県犬養広刀自 |
子女 |
孝謙天皇 基王 安積親王 井上内親王 不破内親王 |
皇居 | 難波宮 平城宮 |
諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する[1]。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
略歴
大宝元年、文武天皇の第一皇子として生まれる。慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、その後は長らく会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。慶雲4年7月17日(707年8月18日)、父方の祖母・元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首親王の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に伯母(文武天皇の姉)・元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった[注釈 1]。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
ただし、当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかった[注釈 2]。このため、即位と同時に当時9名いた議政官全員の昇叙(位階の昇格)もしくは益封(封戸の増加)を行い[注釈 3]、その18日後には六人部王・長田王・葛木王以下諸王10名と大伴宿奈麻呂・多治比広成・日下部老以下諸臣44名の昇叙を行っており、以降天皇即位時の臨時の昇叙が慣習として定着する。即位時の臨時の昇叙自体は天武天皇の先例に基づくものとされているが、天武天皇の即位自体が壬申の乱による皇統の変更という異常な状況下で実施されたことに留意する必要がある[4]。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[注釈 4]。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられていて彷徨五年と呼ばれている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震[5]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[注釈 5]。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急逝した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)[注釈 6]、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる[注釈 7])。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った。同時期に、長く病気を患っていた母・宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。天平宝字2年(758年)8月9日、「勝宝感神聖武皇帝」と諡され、後には聖武天皇と呼ばれるようになった。
聖武の七七忌(なななぬか、いわゆる四十九日)に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。なお、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した[8]。
この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
系譜
聖武天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
- ^ ただし、『続日本紀』に皇太子の元服した年月日(和銅7年6月庚辰条)と聖武天皇が和銅7年6月に立太子をした記事(即位前紀)があっても立太子の正式な年月日を記した本文記事はなく(立太子と元服が同時というのは両記事の合成に過ぎない)、和銅7年に首親王(聖武天皇)が立太子された事実は確認できず、実際には元正天皇の即位後、首親王が朝政に参画したり、東宮職員の整備が進んだりした養老4年(720年)前後に立太子されたとする説もある[2]。
- ^ 河内祥輔はその弱点を克服するために自分の母親と同じ藤原氏出身の后妃の皇子に皇位を継がせることで自己の皇位継承を正当化しようと計画したとする説を採り、基王立太子・長屋王の変・光明子の立后・阿倍内親王の立太子など通説では"藤原氏の陰謀"とされる事件についても聖武天皇自身が積極的関与・主導していた可能性を指摘している[3]。
- ^ 新田部親王は一品親王に進められ、長屋王・巨勢邑治・大伴旅人・藤原武智麻呂・藤原房前・阿倍広庭は1階昇進した。舎人親王は既に一品親王・知太政官事で既に最高の地位に達し、正三位大納言の多治比池守を昇叙させると官位相当から外れるために昇叙ではなく益封が行われた。なお、『続日本紀』には参議正四位上の阿倍広庭に関して昇叙も益封も記載されていないが、即位の5か月後には広庭が既に従三位へと昇叙していることが確認できるため、『続日本紀』の記載漏れとみられる(虎尾達哉)。
- ^ これより前の皇后は原則的に神または天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。
- ^ 天平16年2月には恭仁京から難波京への遷都の詔が出されているが、当時天皇は紫香楽宮に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、たび重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている[6]。
- ^ 天平21年4月14日(749年5月4日)に陸奥国からの黄金献上を理由に天平感宝と改元されたが、わずか3か月後の7月2日(同8月19日)に新天皇の即位を理由に再度の改元が実施されている。
- ^ 公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に行基を師として出家した(『扶桑略記』)とされ、また閏5月20日に作成された東大寺への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。河内祥輔は可能性の1つとして、践祚と即位が分離する初例を桓武天皇とする通説よりも前に遡り、聖武天皇の譲位と孝謙天皇の践祚が行われた後に出家したとするならば、矛盾は解消されると指摘する[7]。
出典
- ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年、1-21頁、hdl:11173/1496、ISSN 0386-8931、NAID 120005407781。
- ^ 本間満「首皇子の元服立太子について」初出(『昭和薬科大学紀要』35号、2001年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P71-95)初版は1986年
- ^ 虎尾達哉「律令制下天皇即位時の特別昇叙について」『律令政治と官人社会』(塙書房、2021年)P145-194.
- ^ 松浦茂樹「聖武天皇と国土経営」(『水利科学』358号、2017年)p55
- ^ 筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267.
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P96・101)初版は1986年
- ^ 【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について
- ^ 飯沼賢司「信仰の広がり」(館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P158-172
- ^ 施設案内 - 東新館・西新館『奈良奈良国立博物館公式サイト』
- ^ 聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁、日本経済新聞、2012年9月26日
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