西園寺家 歴史

西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 02:01 UTC 版)

歴史

封建時代

閑院流の祖である閑院太政大臣藤原公季の五世の孫の藤原公実の四男の通季を祖とする[1][5]三条家徳大寺家とは姉妹家にあたる(三条家は藤原公実の次男の実行の子孫、徳大寺家は公実の五男の実能の子孫)。

藤原通季保安年間(1120年 - 1124年)に鳥羽上皇の御厩別当になっており、ついで通季の曾孫の西園寺公経正治元年(1199年)まで後鳥羽上皇の御厩別当になっている。さらに寛元4年(1246年)に西園寺公相後嵯峨上皇の御厩別当になっており、これ以降は中絶の時期はあれど、院の御厩別当の地位は西園寺家の世襲となり、その立場は戦国時代、江戸時代にも変わることがなかった[6]

公経源頼朝の同母姉妹の坊門姫の娘の全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れがあるとして朝廷によって幽閉されるが、かえって乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇外戚として一時は摂関家をもしのぐ権勢を振るった[4]実兼大覚寺統に接近し、亀山法皇後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。

また、藤原実宗(公経の父)は藤原師長から桂流・西流の琵琶の奥義を得て以来、琵琶の家として知られた。特に後鳥羽天皇以来、琵琶は天皇が習得する必須の楽器とされるようになってから宮廷でも重要視され、西園寺公相後深草天皇の琵琶の御師(御琵琶師)とされて以降、歴代天皇は西園寺家の当主から琵琶を習う慣例となり、政治的のみならず、文化的分野でもリードするようになった[7]

この時期は西園寺家の女性の成員も文化面で活躍しており、伏見天皇中宮の永福門院(西園寺鏱子)は京極派を代表する大歌人で、後醍醐天皇中宮の後京極院(西園寺禧子)も勅撰歌人である。

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗北条氏残党である北条泰家(時興)をかくまい、後醍醐天皇を暗殺して持明院統後伏見上皇を擁立する[8]謀叛を計画したが、弟公重密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏の祖となった。近世初期の実晴細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主の早死にが相次ぎ、他家からの養子が続いた。

家業は四箇の大事(節会官奏叙位除目)・有職故実雅楽琵琶)。琵琶の伝授は江戸時代に597石(実高約400石)の微禄しかなかった西園寺家にとって重要な収入源になっていた(西園寺公望は琵琶が嫌いで家臣たちを心配させたという)[9]。西園寺家には官位持ちの諸大夫5家と侍4家が家臣として仕えていた[9]一条家家礼だった[10]

明治以降

幕末に同じ閑院流徳大寺家から養子に入った公望は、明治維新を経て政治家として活躍した。1884年明治17年)7月7日に旧清華家として侯爵を授けられ[11]内閣総理大臣を二度経験した後、1920年大正9年)9月7日に勲功により公爵(しょうしゃく)した[11]。公望は元老として明治後期から昭和初期の政界に重きをなした。特に明治後期から大正初期に西園寺公望と桂太郎が交互に内閣総理大臣を務めた時代を桂園時代と呼ぶ。リベラリストだが、共産主義は受け入れず、君主制を拒否しないコスモポリタン・自由主義者の立憲君主主義者だった[12]

公望は、西園寺家の家業である琵琶の演奏が苦手であったが、首相在任中に明治天皇から悪戯半分に「久しぶりに西園寺家の琵琶が聞きたい」と言われたため、宮内省楽部職員と琵琶の共演をさせられて四苦八苦したというエピソードが伝わっている[要出典]

西園寺公爵家の邸宅は静岡県庵原郡興津町東京市神田区駿河台にあった[5]

男子がない公望は毛利元徳公爵の八男八郎を養子に迎え、公爵位を継承させた[13]


  1. ^ 当初の景観は法成寺をもしのいだというが、南北朝時代には早くも荒廃したため[要出典]、寺地は足利義満に譲られ、やがて鹿苑寺(金閣寺)が建てられた[4]
  1. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2429.
  2. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 2432.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 57.
  4. ^ a b 太田 1934, p. 2430.
  5. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 3.
  6. ^ 網野善彦 2008, p. 309.
  7. ^ 豊永聡美『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年(平成18年)) ISBN 4-642-02860-9 P59 - 66・82 - 85・186 - 189
  8. ^ 近年、公宗が擁立しようとしたのは光厳上皇であったとする見解もある(家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年平成28年)10月 ISBN 978-4-89259-798-5)。
  9. ^ a b c 岩井忠熊 2003, p. 3.
  10. ^ 刑部芳則 2018, p. 5.
  11. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 228.
  13. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 4.
  14. ^ 網野善彦 2008, p. 297-298.
  15. ^ 網野善彦 2008, p. 298.
  16. ^ 網野善彦 2008, p. 299.
  17. ^ 岩井忠熊 2003, p. 16.
  18. ^ 立命館大学 蔵書冊数 [リンク切れ]






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西園寺家」の関連用語

西園寺家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西園寺家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの西園寺家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS