岡田健蔵 岡田健蔵の概要

岡田健蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 08:14 UTC 版)

おかだ けんぞう

岡田 健蔵
1937年12月撮影
生誕 (1883-08-15) 1883年8月15日
北海道函館区鰪澗町
死没 (1944-12-21) 1944年12月21日(61歳没)
北海道函館市青柳町
死因 肺疾患
墓地 実行寺(函館市船見町)
国籍 日本
出身校 弥生尋常高等小学校(中退)
職業 私立函館図書館主事兼事務主管
→函館市会議員
→函館市立図書館館長
活動期間 1909年 - 1943年
団体 函館毎日新聞緑叢会
函館啄木会
著名な実績 私立函館図書館の建造
耐火構造の建築物の提唱
函館市の郷土資料の収集
石川啄木の業績の保存
影響を受けたもの 齋藤與一郎
内田銀蔵
帝国図書館
活動拠点 北海道函館市
子供 岡田弘子
親戚 岡田一彦(孫、長男の子)
受賞 社会教育事業功労者(1940年
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経歴

図書館人となるまで

函館区鰪澗町で、大工の長男として誕生した。1893年(明治26年)に父が死去し、母に育てられた[3][6]。弥生尋常高等小学校を中退後[7]、15歳のときに雑貨商の見習い奉公に出され、商売の基礎を学んだ[注 1]。奉公先は、曲がった古釘を叩き直して再利用するほどの倹約家であり、後の岡田に大きな影響を与えた[8]

1903年(明治36年)に独立し、以前から興味のあった西洋式ろうそく製造業に乗り出し、自宅で「太陽石蝋発売元」を開業した。当時の日本ではろうそくの原料を海外輸入に頼っていたことから、これを日本国内の原料で賄うことを発案して資料を捜した。しかし見つかった資料がわずか1冊であり、その1冊によるろうそく製造も失敗に終わったことから、各種文献収集の重要性を認識し、図書館設立を決意した[5][9]

当時の函館には、図書館と呼べるべきものは存在しなかった。かつては1880年(明治13年)に開拓使ら読書愛好者たちにより「共覧会」(後に思斎会と改称)が結成され[10]、函館公立図書館の設立が計画されていた。開拓使の廃止により同会の活動が困難になった後、その活動は函館区有の書籍館である区立函館書籍館へ引き継がれ、1888年(明治21年)に一般公開された。しかし利用者の少なさや経費の問題で1893年(明治26年)に廃止され、「函館区共有文庫」と改称されて単なる書庫としての存在となり、実質的に図書館としての機能を休止するに至っていた[9][11]

初の図書室の設立

1906年(明治39年)、函館区内では函館毎日新聞の投稿者たちにより、知識と教養の向上のための団体として「函館毎日新聞緑叢会」が結成された。これを知った岡田は早速入会し、図書館の必要性を説いた。この岡田の提案は結成同年の大会で満場一致で可決[12]され、同会は図書館設立に向けて動き出し、岡田は設立委員に任命された[3][5]。折しも1897年(明治30年)の帝国図書館開設を皮切りに、京都府立図書館大阪府立図書館が開設するなど、日本全国で図書館の開館ブームが巻き起こっている時代であった[13]

1907年(明治40年)、岡田の自宅兼店舗を「函館毎日新聞緑叢会付属図書室」とし[12]、岡田や会員たちの蔵書、各出版元から新刊紹介のために函館毎日新聞社に寄贈された図書の無料公開が開始された[14]。これは図書館よりむしろ貸本屋に近いもので、店舗内でろうそくを作っている岡田の周りに書棚が並んでおり、来客の都度、岡田が本業の手を休めて図書の貸出を行なうという、小規模のものであった[9][15]

岡田たちの期待とは裏腹に、当初の利用者は1か月に22人から23人程度であったが、3か月も経つと、次第に函館区民にこの図書室の存在が浸透した。しかし同時期に函館を大火災が襲い、岡田の店舗は焼失。図書室の蔵書類も大半が失われ、閉鎖を余儀なくされた。岡田は一度は落胆したものの、このことが、火災の多い函館で大火災に耐え得る図書館の建造を目指すきっかけとなった[5][9]

なお先述した函館区共有文庫も、函館教育協会内において再び書籍館経営が検討されていたものの、この年の大火で焼失に至った[11]

私立図書館の開館

緑叢会は、図書館再建に向けて動き出した。岡田は緑叢会から図書館の知識を得るための視察を委ねられ、北海道外を巡る旅行に出た[5]。この旅行で岡田は1か月以上にわたって、東北地方東京府を視察した[12]。特に、耐火構造帝国図書館(後の国立国会図書館)に圧倒された。早稲田大学図書館の館員らは、北海道から東京を訪れた岡田の熱心さに感心し、彼を日本図書館協会に推薦し、岡田は道内会員1号となった[3][16]

帰郷後の岡田は早速、図書館創立委員会を結成した。この報せを知った人々からは、入会の問合せ、図書寄贈の希望など、毎日のように反響があった。大火で焼失した岡田の店舗は1908年(明治41年)に再建されていたが[5]、図書館創立委員会のあまりの多忙さに岡田は家業を妹に譲り、自身は地元の名士たちの会員への勧誘、役所への連絡などに奔走した[17]。図書館の建物として、函館区公共の建物である協同館を借り受け、函館毎日新聞社の社内にあった図書館創立事務所がそちらへ移設されると、岡田は協同館の事務所に寝泊まりして仕事に明け暮れた[5]。この建物は30年近く無人であったために損傷が激しく、岡田は大工たちを指揮しつつ、自ら金槌を振るい、手に血豆を作りながら修理を行なった[14]

岡田の熱心さに、豪商の小熊幸一郎[注 2]、銀行家の初代相馬哲平といった函館の有力者たちも岡田に賛同した[3]。また図書の寄贈者の1人に、歌人の宮崎郁雨がおり、後に岡田と長年にわたる親友となった[19]

私立函館図書館の外観と閲覧室

1909年(明治42年)、私立函館図書館が函館公園内に開館した[12]。初日は51人、5日目には123人、6日目には178人が来館した。開館後の最初の日曜日には、「あらゆる人に利用を[20]」との岡田の理念のもとに児童室も開設され、絵本などで子供たちを喜ばせた。この日は、もの珍しさもあって、朝8時から子供たちが押し寄せていた。午前10時には子供たちの数が100人を超えたため、一時的に閲覧室を閉鎖するほどの盛況ぶりであり、来館者397人のうち半数以上の218人が子供であった。後の平成期の函館の年配者には、この児童室が図書館利用の嚆矢だったという人物も多い[17]。その後も利用者は増加の一途を辿り、初年度の来館者は2万8千人を超えた[21]

図書館の運営資金は図書閲覧料と維持会員の納付金によるもので、納付金は月々50銭であった。貸本屋の単行本の借り賃が6銭、米1升が17銭の時代であり、維持会員になる者は文化的なことに興味を持つ、ごく限られた人員だったと見られている[13]

図書館の経営者は函館毎日新聞関係者や市内各界の有志たちであり、岡田は図書館主事兼事務主管として実務に専念した[3]。事務主管は1年間のみ兼任の約束であったが、後任者不在のために1年後も事務主管を続けた。妹に任せた家業を顧みなかった上、図書館経営の資金に私財を投じていたため、家業は次第に経営が困難となり、1912年(明治45年)に廃業を余儀なくされた[5]

1910年(明治43年)、日本図書館協会の一員として、兼ねてから希望していた全国図書館大会に初めて参加。その後、1949年(昭和24年)の第33回の同大会まで毎年のように参加し、その回数は15回におよんだ[22]。またこの頃、当時の函館区医、後に函館市長となる齋藤與一郎との出逢いがあった[23]

鉄筋製書庫の完成

函館公園内に残る函館図書館の書庫(2014年8月撮影)

1913年(大正2年)に再び帝国図書館を視察した岡田は、案内役の司書から「もしこれから図書館を新築するのであれば耐火構造にするべきで、蔵書を火災から守ることを第一義と心がける[注 3]」ように強く言われた[16][24]。岡田自身も、初の図書室を火災で失った過去の教訓から、図書館の現状に満足せず、火災に耐えうる耐火構造の図書館を目指していた[3]。火災の心配のあまり、強風の日に図書館に泊まり込むことも多かったといわれる[25]

そんな岡田に助力したのが、前述の相馬哲平である。大正初期のある日に街中で岡田と出逢った相馬は、耐火構造の図書館を目指す彼の想いを知り、その場で手持ちの千円を岡田に託し、さらに皇太子嘉仁(後の大正天皇)に拝謁した記念に、建築費用3千円の寄付を約束した[3]。その後も物価の高騰につれて、建築費が当初の約3倍にまで膨れ上がったため、岡田はさらに相馬に寄付を懇願し、最終的に相馬の寄付金は9千円にまでなった[17][26][注 4]

相馬からの多額の寄付により、1916年(大正5年)、鉄筋コンクリート構造の5階建ての書庫が完成した[28][29]。これは北海道最初の鉄筋コンクリート構造の建築物である[30]。当時の公共建築物は木構造が主流であり、災害や劣化といった木構造の欠点を解決した建築物として、この書庫は北海道中の注目を集めた[3]

私生活での苦難

図書館主事としての岡田の収入は、図書館会員費から捻出のみの、わずか10円のみであった[注 4]。すでに家業を廃業していたこともあり、岡田家の生活は貧困を極めた。1912年に7歳下の渡辺イネと結婚したが、そのときには蔵書収集の資金繰りのために不動産をすでに処分していたため、図書館の宿直室に夫妻で住み込み、母や姉妹は安価な住居に住まわせていた[31]

その後は6人の子供に恵まれたものの、家族が多人数となったことや、岡田が膨大な数の蔵書収集に没頭していたこと(後述)、加えて1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦に伴う物価の騰貴や米騒動も、貧困に追い打ちをかけた[5]。後の岡田の履歴書には、1918年9月の項に「創立以来報酬月額十円を贈られるに止り多年の収書に全資産を失う[注 5]」とある。日々の食事も主食は外米の粥、副食は魚の粗ばかりであった[32]。図書館の館員を雇うほどの経済的な余裕もなかったため、図書館経営には妻や妹たち家族総出、親戚まで駆り出した[30]。この貧困と多忙の中で、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)までの6年間で、3人の子供が幼少の内に病死、1922年(大正11年)には母とも死別した(後述)。

身を挺して函館に尽くす岡田のために、岡田の支援者たちは公私共に彼を支えた。当時の函館図書館館長であった平出喜三郎は、1918年(大正7年)から評議員会を開いて個人的に毎月80円を図書館に寄付、そのうち70円を岡田の収入にあて、後の市立図書館開館まで岡田家の家計を支えた[31]。正月を迎える餅がない年には、匿名で餅米を差し入れた友人もいた[5]

市立図書館の開館

1916年(大正5年)、大正天皇即位に伴う御大礼記念事業が日本全国に発令された。函館では岡田ら有志による私立図書館に代って公立図書館を作る動きが開始され、岡田のもとへは私立図書館の蔵書をそのまま公立図書館へ寄贈するよう申し入れがあった。岡田側は新図書館を耐火構造で建築することを条件として、それに応じた。しかし函館区側では、鉄筋ではなく木造での新図書館建造が計画されていた[27]

鉄筋書庫に次いで鉄筋の図書館本館を目指していた岡田にとって、この函館区の方針は納得できるものではなかった。木造の建築計画を鉄筋に覆すためには自ら行政に直接介入するしかないと考えた岡田は、議員選挙への出馬を決意した。市政制定により函館区が函館市となった1922年(大正11年)、在職のまま市会議員に立候補[25]。函館のための鉄筋図書館建造を公約に掲げた岡田は、区民たちからの大きな支持を得、当選に至った[3]

市会(現在の市議会)で岡田は、木造図書館を支持する市会に対し、鉄筋図書館の重要性を説き続けた。しかし両者の意見は平行線を辿るばかりで一向に交わることはなく、その状態は実に10年に及んだ。市会の圧力により、一時は200人以上いた私立図書館の維持会員も、わずか7人にまで減り、岡田家の苦難はさらに増した[5]衆議院議員でもある前述の平出喜三郎は、この膠着状態を重く見て仲介に入り、岡田を説得し、鉄筋図書館の建築を岡田に約束した。この際には宮崎郁雨も、平出からの依頼により岡田の説得にあたった[33]。岡田は公私にわたって自分を支えてくれた平出を信じ、図書館問題を彼に託した[3]。折しも大正天皇の病状が思わしくなかったことから、平出がこれを引合いに出し、「大正天皇の記念事業として始められた公立図書館設立は天皇の存命中に着手するべき」と主張したことで、この膠着状態は解決に至った[5]

図書館旧本館(2014年8月)

平出の尽力や先述の小熊幸一郎の多額の寄付のもと、1928年(昭和3年)、函館市立函館図書館(後の函館市中央図書館)が完成した。岡田と交わした平出の約束は守られ、本館は岡田待望の鉄筋コンクリート構造の3階建であった。私立図書館の資産は約3万冊の蔵書をはじめ、すべてが市立図書館へ寄付された[5]。この蔵書の中には日本で1冊しかない古書が何千冊も含まれており、平成期の金額に換算すれば少なくとも数十億円との声もある[24]

岡田は新技術の導入にも熱心であり、平成期の日本の図書館で広く用いられている日本十進分類法(NDC)がこの時期に発表され、1929年(昭和4年)に間宮書店より単行本『日本十進分類法』として刊行されると、ただちに注文した[31]。さらに目録ケースの横にNDC索引部分を置くことで、利用者の利便性を高めるよう工夫を凝らし、間宮書店の間宮不二雄を唸らせた[17]。また、本1冊につき1枚の基本カードを作成し、この複製によって目録を編成するユニットカードシステムを採用した。間宮不二雄は「ユニット・カードは恐らく同館が、わが国では最も早い実施館であったろう[注 6]」と述べている[34]

岡田を館長に推す市民たちの声が市政に届いたことで、1930年(昭和5年)には岡田は館長に就任した。市会議員には1926年(大正15年)に再当選していたが、図書館業務専念のため、館長就任の同年に市会を引退した[5]。図書館に隣接して岡田の公宅も設けられたが、岡田はその後も図書館内にベッドを持ち込んで1人で住み込み、妻イネに食事を運ばせて生活し続けた[17][24]

私立図書館開館前に入会した日本図書館協会では、1931年(昭和6年)に評議員に初当選[7]。協会における特異な存在として重要視され、終生にわたって図書館事業と協会の発展に尽くした[5]

函館市の文化向上のために尽くした功績により、1939年(昭和14年)には高等官七等待遇となり、従七位に叙せられた。翌1940年(昭和15年)には社会教育事業功労者として文部大臣からの表彰を受けた[35]1942年(昭和17年)には高等官六等待遇となり、正七位に叙せられた[7]

函館大火

1934年(昭和9年)3月、世界の火災史に残るほどの大火災である函館大火が発生し、函館図書館も火災に見舞われた。このとき岡田は妻イネと共に、閲覧中であった蔵書類をすべて書庫へ戻し、水をかけた敷物で書庫への火を遮り、蔵書類を守った[36]。さらにイネを避難させた後、自らは図書館内にただ1人残り、避難を呼びかける部下の声に耳を貸すことなく、消火に奮闘した。書庫の前に仁王立ちになった岡田は、目や鼻が煙に襲われ、髪が焼け焦げることにも構わず、バケツを振るって水を撒き続けた[3][37]

この岡田の活躍、そして図書館の鉄筋建築が功を奏し、函館の街の半分以上を焼き尽くした大火災にもかかわらず、図書館の蔵書類は一切焼失することがなかった[3]。しかし岡田の公宅は焼失したため、岡田と家族は着のみ着のままとなってしまった[5]

火災から守られた図書館は、火災後には閲覧室などが避難所として活用された。岡田の長女である岡田弘子の小学4年生当時の作文によれば、図書館のどの部屋も多くの避難者がおり、まだ寒い時期の北海道でも、室内は昼夜ともに暖房で夏のように暖められ、多くの慰問品や食料が届いたことで、避難者たちは元気を取り戻したという。この作文は後に、北海道社会事業協会による『函館大火災害誌』に収録されている[17][38]

北海道小樽市の郷土史家である越崎宗一は、大火の翌年の1935年(昭和10年)の函館赴任にあたって岡田のもとに挨拶に訪れ、そのときの印象を以下の通り書き残している[39]

驚いたことに図書館を囲む樹々には生々しい焼け焦げの爪跡が残っており、附属していた館長官舎は焼け跡だけが残って姿がない。公園附近の人家も殆ど焼失して、バラックがボツボツ建ち始めている。 暴風下の……模様を伺うと、到底助かるような状勢ではなかったそうであるが、館長は中にいて、必死に、窓の戸締りを厳にし、防火につとめた甲斐あって、鉄筋不燃質の館と書庫が奇蹟的に焔の侵入を免れ助かったという。命をかけてつくりあげた館を、死守せねばならぬという館長の至誠、天に通じたと考うるより他ないと、私には思えた。 — 坂本 1998, p. 172より引用。

函館大火の後、岡田は復興に要する建築資材の調達のため、北海道内外の建築業界や土木業界に呼び掛けた。多くの商社が資材を提供し、その数は百社以上に昇った[39]。また、図書館ではそれら建築資材を展示した企画展を開催。函館市復興資料目録を刊行するなどし、市の復興のために尽くした[3]

また岡田は、被災した子供たちの心を癒すため、日本全国に児童書の寄付を呼びかけた。彼の声に応え、日本全国各地から児童書が贈られ、その数は12万冊以上にも昇った。中には台湾満州などで発行された、日本では入手困難なものもあり、それらは函館の子供たちや学校に配布された後、残りの雑誌、図書は同図書館に保存された[40][41]。その後の平成期に、かつては図書館や関係機関で長らく収集の対象とならず消耗品扱いされてきた児童雑誌が、後の児童文化や児童文学の研究において資料としての必要性が高まったことから、函館図書館に贈られたこの多数の児童書を中心とし、北海道立文学館により「函館貴重児童雑誌及び児童雑誌附録データベース」が作成された[41]。さらに後の2011年平成23年)に発生した東日本大震災に際しては函館からの恩返しとして、震災で被災した子供たちに絵本を贈る「被災地の子どもたちへ絵本を送ろう 函館プロジェクト」が開始されるに至っている[42][43]

函館大火では、かつて私設図書館を開いた協同館も焼失したが、その前に置かれていた狛犬(岡田がどこかの神社の解体時に持ち込んだという)を、「捨てられない」という理由で1940年に市立函館図書館の屋根を改装した際に、屋上に設置したとされる[44]

晩年

函館中央病院

1943年(昭和18年)に岡田は還暦を迎え、同年10月にはその祝賀会が開催された。戦中のためにジャガイモやカボチャによる会食であったが、多くの出席者たちで賑わい、岡田も同会を記念して出版された『岡田健蔵君還暦頌徳喜季』に満足していた。この席で「すべてを投げ打って図書館に尽くした岡田への感謝として、岡田の新居を建てよう」との意見が出、満場一致で採択された。岡田は皆の温情に涙ぐみ、俯いたまま動かなかったという[45]

しかし、同1943年初めより岡田は肺疾患で体を病んでおり、すでにこの時点では病状がかなり進行していた。同年末に周囲からの説得により函館中央病院に入院したが、回復には至らなかった[46]

翌1944年8月、祝賀会出席者たちの支援により、図書館に隣接して岡田の新居が着工された。同年12月20日、岡田は自ら希望して、医師の反対を押し切り、その新居に移り住んだ[19]。その時点では新居はまだ未完成であり、せいぜい雨露が凌げる程度で、借り物の建具をはめ込むなどしてようやく住居らしい姿に仕上がった[45][47]。そこまでして新居に移り住みたかった理由を、宮崎郁雨は「まことに彼は図書館以外の何処ででも死にたくなかったのである[注 7]」、函館市のジャーナリスト、北海タイムス社主宰者の小野寺脩郎は「すでに死期を悟った彼は、持前の強い責任感から生命あるうちにせめて一夜だけでもそんな温い善意の家で過し多くの市民に感謝の心を伝えたかったのであろう[注 8]」と語っている。

新居に移り住んだ翌日の12月21日、近親者、および主治医を務めた齋藤與一郎に看取られつつ死去した[46]。遺言は妻イネに遺したただ一言「誰が来ても、生前の俺のことを絶対にシャべんなよ[注 9]」であった。葬儀は、岡田が生涯をかけて愛し続けた函館図書館の大閲覧室で図書館葬として執り行われた。齋藤與一郎が委員長を務め、300人の弔問客が訪れた[17]。墓碑は函館市船見町の実行寺にある[45]

没後、日本図書館協会創立60周年にあたる1951年(昭和26年)には、日本全国での図書館活動功労者としての追悼を受けた[48]

そのほかの業績

石川啄木の資料の保存

函館市立待岬にある石川啄木一族の墓

函館ゆかりの歌人である石川啄木が1912年に死去した後、翌1913年大正2年)、岡田は自ら中心となって一周忌の追悼会を市立函館図書館内で開催した[49][50]。同年、啄木の義弟でもある宮崎郁雨らと共に、啄木にまつわる貴重な資料の維持保存のための団体として「函館啄木会」を組織し、幹事の1人を務めた。そして同会最初の仕事として、図書館館内に「啄木文庫」を設け、岡田の収集や宮崎の寄贈による図書類を収め、啄木の業績を後世に残すべく尽力した[51][52]

啄木文庫の所蔵資料は、開設当初は『一握の砂』『悲しき玩具』、そして第1詩集『あこがれ』のわずか3種であった。追悼会翌日、岡田は入院中であった啄木の妻である節子夫人を見舞い、啄木の遺稿の寄贈を申し入れた。節子死去の同1913年、その遺志に基いて日記などの遺稿類が図書館へ寄贈された[53]。こうして図書館内に保存された啄木の資料は、先述の通り函館大火の際も鉄筋構造と岡田の尽力によって守られ、『啄木日記』など重要な資料が後に伝えられるに至った[36][54]

また、1913年に岡田は、前述した2度目の帝国図書館視察の際、節子夫人や宮崎郁雨の依頼のもと、啄木と彼の一族の遺骨を引き取り、函館へ持ち帰った。これは啄木が宮崎に宛てた手紙に「死ぬときは函館で死にたい」とあったことが理由とされる[33][55]。岡田は遺骨を節子に引き渡したものの、改めて節子から遺骨の保管を依頼されたため、周囲から「気持ち悪い」と言われることも構わずに、図書館内に遺骨を保存していた[17][56]

節子夫人の没後、岡田と宮崎は彼女を含む一族の墓碑建設の計画に取りかかった[57]。函館市立図書館の建設方針を巡って市会と対立し続けていたときも、岡田は墓碑建設の計画を絶えず勘案していた。毎年の忌日には、啄木追想の行事を続けた。啄木忌は、数十年の間には諸々の事情で参加者が減ることもあったが、岡田と宮崎だけは常に出席し続けた[58]。また石匠の選定をはじめ、工事に関する一切も岡田が引き受けた[33]。そして1926年(大正15年)に啄木一族の墓が函館の立待岬に建立されるに至った[57][注 10]

節子夫人から寄贈された遺稿のうち『啄木日記』については、岡田は非公開の姿勢を貫いていた。啄木と最晩年に親交のあった丸谷喜市は、啄木が「自分の死後に日記を出版したい奴が現れたら、日記を全部焼いてくれ」と遺言したと言い、図書館にある日記をすべて啄木の遺児である長女に返却するよう要求した[59]1926年(大正15年)に日記を啄木の遺児宛てに返却するよう求めたが、岡田は「職務上の責任感と、啄木が明治文壇に重要な存在であるから焼却には反対する」と返した[52][60]。しかし1939年(昭和14年)頃、啄木の全集の刊行などによって、当初は少数の関係者が知るのみだった日記の存在が次第に公になり[59]、日記の公開を求める世間の動きが活発し、『東京日日新聞』[注 11]『報知新聞』など新聞各紙が相次いで公開キャンペーンを行なった。これに対し岡田は同年4月、NHKによる全国放送を通じ、日記の焼却および公開を否定する意思を表面化し、世間から大きな反響を呼んだ[60][63]

立待岬にある与謝野寛晶子の歌碑。短歌「啄木の草稿 岡田先生の顔も……」が確認できる[64]

1944年、岡田の死去により日記の公刊を阻むものがなくなったことで、1948年から1949年に石川正雄(啄木の長女・京子の夫)の編で世界評論社から『石川啄木日記』(全3巻)が出版されるに至った[60]。なお晩年に入院した岡田は、病床での1年間の療養生活の間、啄木の『小天地』の合本を常に枕元に置き、片時も離すことはなかったという[45]

岡田の十三回忌の後、函館図書館の児童図書室の利用者でもあった歌人・土井多紀子らが中心となり、岡田の仕事の継承と函館の文化向上への寄与のための団体として、岡田の雅号「図書裡(としょり)」にちなんで「図書裡会」が結成された[7][47]1957年(昭和32年)にこの図書裡会により、岡田の功績を称える目的で、前年に函館を訪れた与謝野寛与謝野晶子夫妻の歌碑が立待岬に設置された[65]。碑には晶子の詠んだ「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」が刻まれており、この「岡田先生」とは岡田健蔵のことである[66]

絵はがきの収集

1900年(明治33年)に逓信省令で私製はがきの製作が認められて以来、日本では全国の名所や都市景観、美人画、催事、年賀状などの絵はがきの製作や販売が盛んに行われた。1902年(明治35年)には万国郵便連合加盟25周年絵はがき、次いで日露戦役記念の絵はがきが登場し、空前の絵はがきブームが起きていた[67][68]

岡田は1903年の独立後から、以前から趣味としていた絵はがきの収集を始め、その数は3万枚以上にも昇っていた。その対象は郷土である北海道の史跡をはじめ、建造物、都市の景観、自然、風物など、あらゆる分野におよんでおり、友人たちが声をそろえて岡田を一流の収集家と呼んでいた。岡田にとって絵はがきの収集は、当時のブームに乗じた一時的な趣味でも、単なる趣味や娯楽でもなく、短文学の通信と研究を目指すものであった[67][68]。岡田の少年時代に函館の富岡町で展覧会が開催されたときには、最も多い出品者が岡田であった[69]

1905年(明治38年)、岡田は絵はがき愛好者の団体として「函館絵葉雅喜倶楽部」を結成した。絵はがきのブームに伴い、日本全国各地には絵はがき同好会が結成されて展覧会や交換会が盛んに行われており、北海道内にも1905年から翌1906年(明治39年)にかけて6団体が結成されていたが、そのうち最も早くに結成されたのが岡田の函館絵葉雅喜倶楽部である[67][68]

結成同年には岡田の発案のもと、同団体主催による「絵葉雅喜大会」が開催された。このとき記念絵はがきの印刷を担当した業者の1人は、その盛況ぶりを以下のように語っている。

その頃公会堂で絵葉書展覧会が催されたことを知っている人は現在幾人もいないだろうと思う。これは岡田さんの発案であったが……全国各地からいろいろな絵はがきが収集され、三日間に渉るこの展覧会が……絵はがきの存在価値を高めた……。この事が発表さるるや函館のみでなく近郊からの参観者は意外に多く、当時としては一大センセーションを捲き起こした。 — 坂本 1998, pp. 42–43より引用。

函館市立図書館設立後、岡田は間宮不二雄設立による青年図書館員連盟に個人会員として加盟。同団体が1932年(昭和7年)に発行した『図書館学及書誌学関係文献合同目録』には、2千点以上に及ぶ図書や刊行物が収録されている中、末尾には「絵ハガキ」の項が設けられ[70]、約70種の絵はがきが収録されている。うち最も多い物は間宮の擁する間宮文庫のもので、次いで函館市立図書館のものであり、ともにこの目録に収録されている絵はがきの約半数を占めている[67][68]

博物館への夢

岡田は図書館設立と共に、以前から函館に博物館を建てることも夢見ており、社会教育施設として図書館と博物館の活動の連携を理想としていた[71]。1909年には後に北方民族研究の世界的な権威者となる馬場脩[注 12]の提唱を受けて「函館考古会」を結成し、遺跡発掘や資料収集のための場とした[73][74]

1935年(昭和10年)には博物館建設に向けて具体的な活動に乗りだし、図書館内に函館博物館建設期成同盟を設け、博物館建設のために会員の募集を開始した。函館図書館発行による図書館報『市立函館図書館多与利 』では博物館の標本と図書との連絡活用の重要さを力説しており、1940年(昭和15年)には『函館日日新聞』において、説明より実物を見せることによる直感教育の観点においても博物館の存在が重要であることを説いている[71]

その後も岡田は地元の新聞や図書館報において、博物館の必要性を訴え続けた。しかし時代はすでに戦中であり、戦争の激化に連れ、次第に博物館の実現は困難となった。結局、岡田の存命中にこの夢が叶うことはなく、博物館完成は岡田の没後、1951年(昭和26年)を待つことになる[71]

函館市会

1922年(大正11年)から、函館市会議員を2期務めた。市会議員としての岡田は、市政の腐敗、議員たちの不正や疑惑を厳しく指摘するなど、異質な存在であった。1924年(大正13年)に函館水電水電事業市営化問題が起きた際には、岡田の政治活動は極度に活発化した。市会のみならず、雑誌や新聞紙上でも函館水電、関係重役、水電派の議員たちへ猛攻撃を繰り返した。また自ら電圧計を入手し、電灯の電圧を計測することで函館水電の契約違反を責めた。市民の電灯料不払同盟を牛耳り、函館水電争議の急先鋒として、函館水電を相手に個人で訴訟まで起こした[75]

こうした岡田の活躍は函館市民から喝采を浴び、市政界の名物ともいわれた[75]。また第1期で図書館問題が解決しなかった後も、再当選することで図書館問題に再び挑むことができたが、これは市政や議員を糾弾したことで市民たちの喝采を浴び、より多くの票を集めたことによるものである[76]


注釈

  1. ^ 当時の函館では家の貧富に関らず、商業見習いのために子供を商家へ奉公に出すことが風習であったという事情もある[5]
  2. ^ 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年 - 1952年)。漁業経営者、水産功労者[18]
  3. ^ 坂本 1998, pp. 53–54より引用。
  4. ^ a b c 当時の貨幣価値の参考として、1915年(大正4年)当時の大学卒の月給が35円から45円程度であった[27]
  5. ^ 田畑 1983, p. 17より引用。
  6. ^ 坂本 1998, p. 182より引用。
  7. ^ a b 宮崎 1956, p. 73より引用。
  8. ^ 小野寺 1993, p. 255より引用。
  9. ^ 坂本 1998, p. 348より引用。
  10. ^ 墓碑建設が節子夫人の死去から13年も後だが、これは当時、岡田が市立図書館設立準備で、宮崎郁雨が父の死に伴う家業経営で、それぞれ多忙を極めたためである[57]
  11. ^ 1931年と1933年に日記の抜粋を掲載[60]。この漏洩については、改造社版啄木全集の年表作成の目的で岡田から日記の閲覧を許された吉田孤羊がその当事者とみられている[61][62]
  12. ^ 馬場 脩(ばば おさむ、1892年 - 1979年)。孝古学者、アイヌ文化研究家。北方民族研究の世界的権威[72]
  13. ^ a b 藤島 2003, p. 6より引用。
  14. ^ 梅澤 2007, p. 20より引用。
  15. ^ 後に函館市中央図書館のデジタル資料館で公開されている[80]
  16. ^ a b 反町 1984, p. 14より引用。
  17. ^ 反町 1984, p. 15より引用。
  18. ^ 坂本 1998, p. 119より引用。
  19. ^ 反町 1977, p. 10より引用。
  20. ^ a b 中山 2009, p. 19より引用。
  21. ^ 間宮 1956, p. 42より引用。
  22. ^ 坂本 1998, p. 340より引用。
  23. ^ 佐藤 1957, p. 456より引用。
  24. ^ a b c 高木 1956, p. 25より引用。
  25. ^ 藤島 2003, p. 7より引用。
  26. ^ 佐藤編 1958, p. 233より引用。
  27. ^ 宮崎 1956, p. 70より引用。
  28. ^ 宮崎 1956, p. 71より引用。
  29. ^ 岡田の死去から宮崎の館長就任まで約1年以上の空白があるのは、函館市長の坂本森一が、出征した岡田の長男の凱旋を待って彼に館長を継がせるため、敢えて館長の座を空けておいたためとの説がある[19][47]
  30. ^ 田畑 1983, p. 72より引用。
  31. ^ 藤島 2003, p. 5より引用。
  32. ^ 函館市 2002, p. 589より引用。
  33. ^ 坂本 1998, pp. 112–113より引用。
  34. ^ 高木 1956, p. 24より引用。
  35. ^ 林 靖一(はやしせいいち、1894年12月26日 - 1955年2月17日[104])、1920年大正9年)に朝鮮に設立された鉄道図書館の創始者および初代館長[104]
  36. ^ 宮崎 1960, p. 286より引用。

出典

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