私生活での苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:19 UTC 版)
図書館主事としての岡田の収入は、図書館会員費から捻出のみの、わずか10円のみであった。すでに家業を廃業していたこともあり、岡田家の生活は貧困を極めた。1912年に7歳下の渡辺イネと結婚したが、そのときには蔵書収集の資金繰りのために不動産をすでに処分していたため、図書館の宿直室に夫妻で住み込み、母や姉妹は安価な住居に住まわせていた。 その後は6人の子供に恵まれたものの、家族が多人数となったことや、岡田が膨大な数の蔵書収集に没頭していたこと(後述)、加えて1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦に伴う物価の騰貴や米騒動も、貧困に追い打ちをかけた。後の岡田の履歴書には、1918年9月の項に「創立以来報酬月額十円を贈られるに止り多年の収書に全資産を失う」とある。日々の食事も主食は外米の粥、副食は魚の粗ばかりであった。図書館の館員を雇うほどの経済的な余裕もなかったため、図書館経営には妻や妹たち家族総出、親戚まで駆り出した。この貧困と多忙の中で、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)までの6年間で、3人の子供が幼少の内に病死、1922年(大正11年)には母とも死別した(後述)。 身を挺して函館に尽くす岡田のために、岡田の支援者たちは公私共に彼を支えた。当時の函館図書館館長であった平出喜三郎は、1918年(大正7年)から評議員会を開いて個人的に毎月80円を図書館に寄付、そのうち70円を岡田の収入にあて、後の市立図書館開館まで岡田家の家計を支えた。正月を迎える餅がない年には、匿名で餅米を差し入れた友人もいた。
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