私生活、および引退後、エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 06:08 UTC 版)
「ダイナマイト・キッド」の記事における「私生活、および引退後、エピソード」の解説
現役時代に結婚した夫人とはキッドの家庭内暴力を理由に離婚。元夫人は自分の喉元へショットガンを突きつけられたと主張しており、キッド本人もこれを認めていた。その一方でキッドは「当時自宅には弾丸が無く、弾が入っていない銃で脅してみせただけ」と弁明しており、真相は明らかになっていない。 晩年は現役時代のステロイド剤を始めとする多種の薬物群の投与や、1986年に負った椎間板の大怪我(上述)等の影響で車椅子生活を余儀なくされていた。 キッドの影響下にあったクリス・ベノワが死去した2007年には、CNNの取材で現役時代のステロイドと鎮痛剤の使用について語った。 2013年、ドキュメンタリー映画 "Dynamite Kid - A Matter of Pride" が完成。2月24日にマンチェスターのヒルトン・ホテルで行われたイベント試写会において、公の場へ久々に姿を見せた。 2016年10月5日、NHK BSプレミアムで放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』に出演。脳卒中に倒れ介護施設に入所中であったが、タイガーマスク(佐山聡)のことなら話したいと特別に取材を受け入れた。引退した年に再婚した2人目の妻も取材に応じ、キッドについて「(引退後は)とても穏やかな時間を過ごしました。良き夫であり父親でした。最初はそんな凄いレスラーだったなんて知りませんでした。私は彼の人柄に惹かれたんです」「タイガーマスクの事を話す時はいつも嬉しそうでした。今まで戦った中で最高のレスラーだと言っていました。たくさん試合をしたけど彼は一番だと」と語っている。 60歳の誕生日を迎えた2018年12月5日、死去したことが複数のメディアにより報じられた。訃報を受けた佐山は「偉大なライバルだったトミーが亡くなり、悲しみに暮れています」とコメント。翌12月6日、自身が主宰するリアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会において、追悼の10カウントセレモニーが行われた。 現役当時は気難しいイメージで知られ、ファンサービスをほとんどしなかった。1982年1月1日の新日本プロレス後楽園ホール大会でのサインボール投げで、不機嫌そうな顔で客席に叩きつけるようにボールを投げ込む姿は『アメトーーク』のプロレス特集でも紹介された。また、試合前に行われていた花束嬢からの花束贈呈も、無愛想な態度で受け取らないことも多々あった。小橋建太は、少年時代にサインをお願いしようとしたが、差し出した色紙を投げ捨てられたエピソードを語っている(それを反面教師として、小橋はファンサービスに手を抜かないと誓ったという)。しかし、実際には自身を日本人レスラーに対する外国人レスラー、すなわちヒールと捉えていたので、ファンに対してもヒールとしての立場を貫き、敢えて無愛想に接していた側面がある。佐山聡曰く本来は礼儀正しい性格で、英国マットではバックステージで大変慕われていたとのこと。 タイガーマスクの負傷により空位となったベルトを賭けて小林邦昭と王座決定戦を行う際、試合前に女性アナウンサーから小林の印象を問われ「コバヤシなんか知らない。顔も見たこと無い。俺がチャンピオンだ」といかにもヒールらしい返答をしたが、アナウンサーの「サンキューベリーマッチ」という挨拶に対しては「ドーモ」と日本語で返す茶目っ気も見せた。また、1990年の世界最強タッグ決定リーグ戦への参戦時には、福澤朗アナウンサーが全日本プロレス中継内で実施していた「プロレスニュース」のインタビューに応じ、「日本語が話せるのですか?」の問いかけに対して、日本のスポーツ新聞を読みながら「ダイジョーブ。ドシタノ? チクショー、ナンジャアコリャー」と真顔で答えてみせた。
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