岡田健蔵 評価

岡田健蔵

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評価

図書館事業

北海道新聞』の1944年(昭和19年)12月24日では、岡田の死去が以下のように報じられた[101]

函館図書館長の岡田健蔵氏が亡くなったことはひとり函館市にとつてのみならず北海道、否(いな)日本のために一つの損失といっても差支へあるまい(略)氏がはじめて自設図書館を自宅に開設したのは、その蝋燭屋時代であつたに相違なく、しかもそれがまだやつと子供あがりの二十三、四歳の頃だと聞いて、その賦性の高さと情熱に感嘆せぬものはないであらう(略)これまたその道の権威たるの北大の児玉医学部長等もこの才をたゝへ、これを組織し体系づけせぬことをいつも惜しんでゐたといはれる — 北海道新聞 1944, p. 1より引用

後に齋藤與一郎、北広島市図書館館長の坂本龍三、函館市中央図書館4代目館長(2015年〈平成27年〉就任)の丹羽秀人らは、函館図書館の北方資料や郷土資料の豊富さと、それを収集した岡田の功績について、以下のように評価した[100]

天下に誇るべきもの(略)それは函館市立図書館であります。この図書館は内容の充実誠に天下に誇るべきもんだ、と私は思っております。(略)このりっぱな図書館は、郷土愛好者のたったひとりの人間の力によって出来たということを思いますと、人間の力もまた大きいもんだと思います。無論援助をして下すった人はありますが、とにかく函館図書館は、亡くなりました初代館長の岡田健蔵君の手によって出来たんであります。基礎が出来たばかりでなく、その上に土台並に内容までも築き上げた(略) — 齋藤與一郎(NHK函館放送局『非魚放談』最終回〈1956年10月30日〉)、坂本 1998, pp. 318–319より引用
市立函館図書館が内外に誇りうる資料は2万数千点余りにのぼる北方関係資料と詩人石川啄木の『日記』をはじめとする稿本・書簡などのコレクションであろう。これらはいずれも岡田健蔵が生涯をかけて収集し、そして守り通したものである。 — 坂本龍三、坂本 1998, p. 454より引用。
当館のもとになった函館図書館には、帝国大学や国会図書館にもない満州や樺太、千島の資料が豊富にありました。岡田さんは北海道に関する価値ある資料を幅広く探し出し、このまちに残そうとした。あの時代にそこまで徹底して取り組んだ人は、皆無でした。向学心のかたまりだった岡田さんは、同時代の人たちよりもはるかに長い射程で、まちのあるべき未来を見据えていたのだと思います。 — 丹羽秀人、谷口 2016より引用

この北方資料は日本国内のみならず、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、中国など、日本国外の研究者たちからの評価も高い[13][102]。一例として、日露・日ソ関係史の分野の著名なフロリダ大学の教授ジョージ・レンセン(George Alexander Lensen)は、1967年(昭和42年)に来日して羽田空港に着いた際「すぐ函館に行きます。あの図書館は研究者の宝庫です[注 31]」と語っている[71]。また岡田が図書館内に設けた啄木文庫については、函館市史で「全国的に例を見ない優れたものばかりであり、日本の近代文学史上において、欠くことのできない貴重なコレクションでもある[注 32]」と評価されている[49]

ただし郷土資料などの古書に強く目を向ける一方、新刊書への興味は薄く、そのことはしばしば批判の的になった。市会議員たちからは「昭和十三年私が市会に出た時……どうも岡田は怪しからん、こんな骨董物ばかりに金を出して新刊書というものは、更に用意しないと言って、非常に批難された[注 33]」との声があり、前述の元議長・高木直行は「偉そうに構えているが反古紙だの古証文だの役にも立たぬ骨董品を漁っているだけではないか……、古典や文献を集めたところで市民の腹が脹らむものか、日本一の図書館長が聞いて呆れる[注 34]」と批判した。市会の予算委員会からも「館長の図書選択がその趣味に堕する[注 13]」と厳しく批判された。市会のみならず一般市民からも、岡田の収集物が古書ばかりとの苦情があった[103]。岡田自身、市会で同様の批判を受けたが、「郷土愛を高めることは図書館の大切な役目」「郷土資料収集は、函館の将来を担う子供たちや若者たちに地元のことを知ってもらうために重要」と反論していた[3]。また高木直行は、当時は自身がまだ若年であったため、岡田の真価を理解しておらず、一種の反感を抱いており、批判によって密かに鬱憤晴らしをしていたと後に述懐している[84]

函館図書館の運営にあたっては、図書館建設資金を得るための音楽を1909年(明治42年)頃より1919年(大正8年)頃まで続けたほか、郷土出身の画家を中心とした絵画展覧会、図書館記念日などの図書館行事として展示会や講演会を催した。また前述した函館大火後の函館復興に向けた企画展を始めとし、時節に応じたテーマによる展示会も開催した。後年には1936年の日本図書館協会による図書館大会では、図書館の附帯事業として講演会や展覧会などの開催が挙げられており、さらに後には図書館を含むあらゆる機関で情報の発信が推奨されていることから、函館図書館で様々な情報発信を行なったことについて、岡田の先見性を評価する声もある[71]

また、図書館業における岡田の美意識は、間宮富士夫や外地で活躍した図書館人である林靖一[注 35]らによって下記の通り賞賛されており、これは前述した岡田の絵葉書収集の趣味を通じて培われたものと見られている[67][68]

私は岡田さんが図書館行事を催される際に、或は有名なアイヌ酋長とか、その他催しに因んだ多色刷のポスターを発行されたことである。他の館又は協会等で発行したポスターに比し函館図書館のものは図柄といい、形状に於ても断然頭角を表している。 — 間宮富士夫、坂本 1998, p. 48より引用。
美を基調とする図書館、一体図書館に限らず、美の観点の乏しい施設が繁生するわけはないのだが、この点日本の図書館位い、この要素を欠き、旦無関心である。……それは貴館のトウシャ版のプリント、其他小印刷物を毎度見て快哉を叫んでいた。 — 林靖一、坂本 1998, p. 48より引用。

石川啄木関連

宮崎郁雨は、岡田が函館図書館建立に尽力したことと同様、「若し岡田君が居なかったならば現在の様な啄木の墓碑は建設されなかっただろう[注 36]」と語っている[33]。ただし岡田が啄木の骨を函館へ持ち帰ったこと、および啄木の郷里である岩手県ではなく函館に墓を建てたことには批判も多い。

岡田が上京して啄木の遺骨を引き取ろうとした際、啄木と親交のあった歌人の土岐善麿に会っているが、土岐と親交のある大阪商業大学教授の川並秀雄によれば、土岐は遺骨を函館に移すことに反対して岡田と激論を交わしたといい、川並は岡田の行為を「強引」「高飛車」と批判している[105]。また後に土岐は川並に「遺骨は全部を渡してはおらず、寺のあるものを分骨しただけ」と打ち明けているが、岡田は「すべての骨を持ち帰った」と主張している[105]

宮崎の著書『函館の砂』によれば、岡田は岩手ではなく函館に墓を建てるにあたり、礼儀として啄木の父である石川一禎に遺骨の取り扱いについて意向を伺ったが、一禎が「今さらそのような相談は迷惑なので適当に処理してほしい」と答え、それに憤慨した岡田は「墓は断然函館に建てる」と固く決意したという[33]。これについては当時は石川啄木の実妹・三浦光子(三浦ミツ、当時は結婚前で石川ミツ)も存命で石川家にいたこともあり、もっとよく石川家に相談するべきだったとの意見もある[96]。また一禎の先のような返答は、当時は妻や啄木に先立たれた一禎が次女の嫁ぎ先に寄食していた身のため、やむを得なかったとの見方もある[106]

後に三浦光子は自著『悲しき兄啄木[107]』や『兄啄木の思い出』において以下のように語っており、これをもって岡田が石川家の了承を得ずに函館に墓碑を建立したことを問題視する意見もある[13]。さらに後の1957年(昭和32年)、光子は啄木研究で知られる日本近代文学研究者の岩城之徳宛ての手紙で以下のように述べていることから、啄木の墓への考えは終生、変わらなかったものと見られている[108]

けれどもこの墓地を函館に移すということが、私たち石川家の誰の許可もえないで行なわれたのはどういうわけなのだろう。(略)ほんとうに故人兄啄木の遺志なのであろうか。私たち石川家の人々にとってどうしても納得のゆかないことであった。死ぬ日の朝まで、節子さんにすら決して行かぬと誓わせた函館に、どうして兄が自分の遺骨を埋めてほしがるであろう。(略)私たちには、はじめから一言の相談もなかったことだから、なんともできなかったのだが、どう考えても兄が嫌いぬいた函館にその墓を移したということは、兄に対して申し訳ない気がして困る。 — 三浦光子(『兄啄木の思い出』)、三浦 1964, pp. 140–144より引用。
墓地の事、誰が何と申しましても私は函館に埋めた事が最大の兄に対するぶじょくだと考へて居ります。(略)今此事に関していろいろな批判を下す方も少なく御座いません、いづれ私も此事については生命のある間に何とかせねばと考へて居ります。 — 三浦光子(岩城之徳宛ての手紙)、岩城 1976, p. 206より引用。

三浦光子は、宮崎郁雨と節子の恋愛が明らかになったことで、啄木が怒って節子に「函館に行くな」と言い残しており、函館に死にたいとの啄木の遺志はその問題が表面化する以前のものだったとしている[109][110]。この主張に対して前述の小野寺脩郎は、かつて宮崎が啄木を通じて光子に求婚したことがあったため、宮崎への恋慕が節子への憎悪に形を変え、節子亡き後はその想いが鬱積して兄の遺骨へ向けられたとしている[45]

前述の丸谷喜市も、以下のように岡田の行為を厳しく批判している。

骨を持って行ったのは岡田がわからずやなんですよ。あの男は自力で図書館に啄木文庫を造ったほど、熱烈な啄木文献収集家なんですが、盲目的なファンです。単純すぎる。あの男が、無作法にも土岐君の所へいったんでしょう。あれは非常識です。 — 丸谷喜市、天野 1987, p. 88より引用。

また岡田らが建立した啄木の墓碑自体についても、土岐善麿や川並秀雄らは下記のように否定的に述べている[111]

函館の人達が、啄木との交遊を記念するために、もっと永久的な、立派な塋域を造るという計画に対しては、僕は初めから賛成しなかった。(略)あまり立派な設計のものは、あの啄木の生涯と思想に思い比べて、却って奇異な感を起すだろうと思ったのである。(略)実際眼前にみて来たものの話によると、どこの富豪のものかと思うほどのもので、おそらく近代日本の文学者のうち、これほど立派な塋域をもつものは、絶無稀有であろうとのことだ。(略)もし啄木の生前、こんな墓を建てるだけの金があったら、かわいい妻子は飢えさせなかったろうというような意味の歌を落書きするものもあるので、遺族が困るというようなことを聞かされた。 — 土岐善麿、土岐 1975, pp. 51–52より引用。
そこに立派な墓を建て、今日では観光バスは必ず立待岬に立ち寄りますし、また、東海山啄木寺という寺までつくって大きな観光財源にしています。そこで絵葉書を売っていますし、記念スタンプは百円出さないと押せません。与謝野晶子の啄木をたたえるところの歌碑もありますが、何かゴミゴミしていて静けさがありません。 — 川並秀雄、川並 1975, p. 15より引用。

1965年(昭和40年)には啄木の生地である岩手県で、啄木生誕80年を記念する様々な行事が行われ、その一環として、啄木の遺骨を岩手へ分骨して故郷へ葬ろうとの動きが再燃するに至っている[110]1982年(昭和57年)時点での岡田弘子の証言によれば、遺骨に関する批難は三浦光子や土岐哀果といった関係者のみならず、毎年1,2通「啄木と無関係の岡田という男がなぜ東京から啄木の骨を函館に持ち去ったのか、まるで盗人のような行為ではないか」といった内容の抗議の葉書が届いているという[58]

また前述のように岡田が『啄木日記』の公開を控えた理由を、函館啄木会は「日記というものは極めて私的な内容を持つため」としているが、「貴重な研究資料であり、国民的な文化遺産である資料の公開を拒む」として頻繁に批判された[52]。前述の川並秀雄も「まるで私有物化」と否定的に述べている[105]。寄贈から10年を経て「日記その他の出版要求が強くなっているので、在京の友人に保管中のすべての日記を割愛して欲しい」という要求も出されたが、岡田は「啄木とどんな関係にある人でも、寄託者以外の第三者からの申し出には応じない」と拒否したため、新聞で叩かれるという事態まで招いていた[52]

建築物の不燃化

図書館事業のほか、市会議員時代に耐火構造の学校建築を提唱し、小学校校舎の増設と改築を決議させたことで、函館市立新川小学校(後の函館市立中部小学校)が鉄筋コンクリート構造の校舎として1927年(昭和2年)に完成した。鉄筋製の校舎は北海道ではこれが初であり、このことは市会議員としての岡田の最大の功績との声もある[5][8]

その後に先述の通り函館図書館が函館大火に耐えて貴重な蔵書が守られたこと、1941年(昭和16年)までに8校が耐火構造の校舎となったことで、岡田の卓見と信念が正しかったと見る向きもある[71]


注釈

  1. ^ 当時の函館では家の貧富に関らず、商業見習いのために子供を商家へ奉公に出すことが風習であったという事情もある[5]
  2. ^ 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年 - 1952年)。漁業経営者、水産功労者[18]
  3. ^ 坂本 1998, pp. 53–54より引用。
  4. ^ a b c 当時の貨幣価値の参考として、1915年(大正4年)当時の大学卒の月給が35円から45円程度であった[27]
  5. ^ 田畑 1983, p. 17より引用。
  6. ^ 坂本 1998, p. 182より引用。
  7. ^ a b 宮崎 1956, p. 73より引用。
  8. ^ 小野寺 1993, p. 255より引用。
  9. ^ 坂本 1998, p. 348より引用。
  10. ^ 墓碑建設が節子夫人の死去から13年も後だが、これは当時、岡田が市立図書館設立準備で、宮崎郁雨が父の死に伴う家業経営で、それぞれ多忙を極めたためである[57]
  11. ^ 1931年と1933年に日記の抜粋を掲載[60]。この漏洩については、改造社版啄木全集の年表作成の目的で岡田から日記の閲覧を許された吉田孤羊がその当事者とみられている[61][62]
  12. ^ 馬場 脩(ばば おさむ、1892年 - 1979年)。孝古学者、アイヌ文化研究家。北方民族研究の世界的権威[72]
  13. ^ a b 藤島 2003, p. 6より引用。
  14. ^ 梅澤 2007, p. 20より引用。
  15. ^ 後に函館市中央図書館のデジタル資料館で公開されている[80]
  16. ^ a b 反町 1984, p. 14より引用。
  17. ^ 反町 1984, p. 15より引用。
  18. ^ 坂本 1998, p. 119より引用。
  19. ^ 反町 1977, p. 10より引用。
  20. ^ a b 中山 2009, p. 19より引用。
  21. ^ 間宮 1956, p. 42より引用。
  22. ^ 坂本 1998, p. 340より引用。
  23. ^ 佐藤 1957, p. 456より引用。
  24. ^ a b c 高木 1956, p. 25より引用。
  25. ^ 藤島 2003, p. 7より引用。
  26. ^ 佐藤編 1958, p. 233より引用。
  27. ^ 宮崎 1956, p. 70より引用。
  28. ^ 宮崎 1956, p. 71より引用。
  29. ^ 岡田の死去から宮崎の館長就任まで約1年以上の空白があるのは、函館市長の坂本森一が、出征した岡田の長男の凱旋を待って彼に館長を継がせるため、敢えて館長の座を空けておいたためとの説がある[19][47]
  30. ^ 田畑 1983, p. 72より引用。
  31. ^ 藤島 2003, p. 5より引用。
  32. ^ 函館市 2002, p. 589より引用。
  33. ^ 坂本 1998, pp. 112–113より引用。
  34. ^ 高木 1956, p. 24より引用。
  35. ^ 林 靖一(はやしせいいち、1894年12月26日 - 1955年2月17日[104])、1920年大正9年)に朝鮮に設立された鉄道図書館の創始者および初代館長[104]
  36. ^ 宮崎 1960, p. 286より引用。

出典

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