岡田健蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 08:14 UTC 版)
人物
収集癖
岡田が図書館経営に際して最も重要視したことが、蔵書の収集である[17]。きっかけは私立図書館開館から間もない頃、京都帝国大学教授の内田銀蔵が来館し、岡田に「地方図書館の大使命こそは郷土資料の探索収集にある[注 13]」と語ったことであり、これ以降、岡田は郷土資料収集に没頭することになった[71]。
私立図書館の鉄筋書庫完成後は、岡田は建物の外側だけでなく内部も充実させるべく、蔵書集めにさらに没頭した。東京の神田の古書店から目録が届くと、岡田自身が貴重な地域書類などを捜し、高額でも即刻電報で注文していた。当時の蝦夷やアイヌ関連の貴重な図書類のある日本全国の書店には、必ず函館図書館から注文が届いていた[3]。齋藤與一郎が東京や札幌の古書店を訪れた際には、齋藤が函館から来たと店主が知ると、しばしば「函館の岡田さんはどうなさいましたか」と聞かれたという[77]。市立図書館開館後は収集癖に拍車がかかり、アイヌ絵、錦絵、ポスターも収集対象となった[20]。函館図書館のアイヌ絵のコレクションは大部分が岡田の収集によるものであり、1936年(昭和11年)には岡田の発案により「アイヌ絵画展覧会」が開催されている[78]。
1938年(昭和13年)度には図書費3500円中、4月早々に郷土資料に980円、アイヌ資料に16円を費やしており、これだけで図書費の28パーセントを占めている。さらにその後にも古文献を収集していることから、この年の郷土資料収集費は図書費の3分の1以上に昇ったと見られる[31]。こうした膨大な購入資金調達のために岡田は私財を投じ、土地や家屋を売り払っており、これが前述のような極貧生活の要因の一つにもなっていた[3][17]。
費用には限度があったため、市内の蔵書の持主のもとへ、できるだけ寄贈を募った。寄贈に応じない持主を岡田は「けちん坊」呼ばわりしており、これが市内の評判に昇るため、持主たちはできるだけ蔵書類を隠そうとした。しかし岡田は地獄耳ともいうべき情報網の持主で、どんなに蔵書を隠していても突き止めてしまったという[79]。
蔵書の持主がどうしても寄贈に応じない際は、知己や友人・知人・後援者に資金を頼り、また自ら市内を歩き回り、有力者たちに寄付金を募っていた[3][17]。岡田の長女の弘子は後に、父の収集癖にまつわる事情を「お金がなくてね、本当に大変なんです。なので、あっちこっちから寄贈本もずいぶんいただきました。どうしても寄贈してもらえない古書は職員で写本もしたんですよ。あのころの職員は大変だったと思います[注 14]」と語っている。
これらの収集癖を示す一例として、岡田存命中に購入した最も高価な資料、江戸時代の紀行書『東遊奇勝蝦夷地歴遊日記[注 15]』全13冊が挙げられる[13]。これは1936年、東京の古書店経営者である反町茂雄のもとから購入したもので、これのみで同年の図書費の約5分の1に相当している。購入時に岡田は反町に「すぐ帰ります。帰って、お金の工面をしなければならない[注 16]」「こんな大きな金の余裕が、市立図書館にあるもんですか。函館へ帰ったら、すぐ町の有力者の中を歩きまわって、寄附を頼まなくっちゃあ……[注 17]」と語った。本件は『北海タイムス』紙上で「郷土研究資料が収集されている事では全国に名高い函館図書館に、唯一つよりなく、而も岡田館長が今日迄探し求めて止まなかった貴重な文献が現れ……[注 18]」と報じられた。後に反町は「函館図書館は最も熱心な蒐集ぶりで、北海道関係の版本・写本は、目録以外でも、オッファーすれば大体必ず納まる常連客でした[注 16]」「私の目録に掲載した蝦夷地及びアイヌ関係の希書・珍書には、必ずといってよい程、全国に先がけて、函館図書館から電報の注文が到来し、沢山の高価な古書が津軽海峡を渡りました[注 19]」と語っている[31]。
岡田のこの熱心さが周囲に伝わるにつれ、蔵書の持主たちは次第に「何々を岡田に取り上げられた」と、秘蔵品を図書館に寄贈させられることに誇りを抱くようにもなった。岡田の名が知られると、東京をはじめ日本全国から貴重な蔵書や絵画を岡田に売り込みに来るようにもなった。郷土や蝦夷に関する古書や絵画は、岡田の折り紙がつかなくては真偽のほどを世間から疑われることもあり、それらを秘蔵する者たちは積極的に岡田に見せるようにもなった[79]。
1942年(昭和17年)、帝国図書館の図書館講習所では、県立長野図書館館長の乙部泉三郎が、岡田の収集癖を「ばた屋」(廃品回収業者)に例え、「図書館人の中には『バタヤ』みたいなものがいて、何でもかんでも集めたがる人がいまして、そのいい例が函館の岡田館長である[注 20]」と話した。ところが偶然にも、受講者の中に弘子がいた。弘子は乙部の話に納得していたものの、弘子を通じて岡田がこの話を知ったことで、乙部は後に岡田に対して非常に恐縮し「『バタヤ』というのは古文献を何でもかんでも集めることを言ったのである[注 20]」と訂正したという[36]。
図書への情熱
紙を食い荒らすシミは本の大敵のため、岡田はしばしば書庫から本を取り出して厳しい目つきでページをめくり、シミを見つけると憎悪で睨みつけた。樟脳、ナフタレンなどの防虫剤も他人には任せず、常に自分で新品と交換した。ハエも本の糊付けを嘗めることから、当時の殺虫剤であるインセクト・パウダーやイマヅ蠅取り粉を大量に撒き、館員たちが咳き込むほどであった[24]。ネズミもまた皮製のものを噛むことから、夜中にわずかでも物音がすると、書庫のあちこちにねずみ捕りや猫いらずを仕掛けた[24]。
館員たちによる毎朝の掃除の際は、箒の埃が書庫にある本にかからないよう、必ず床におからを撒かせてから掃かせた[24][81]。夏にはこのおからが腐敗して臭いを放つため、食卓に卯の花が出ると不快感を催す館員がいたほどだった[81]。冬の寒い日に館員がストーブで暖をとりながら本を読んでいると、熱で本が傷むと言って「そんな心がけで図書館員が勤まるか」と厳しく叱った[24]。児童室を利用している子供たちが相手でも、本の上でメモをとっていると叱りつけた[17]。図書館内でのその叱り声は別の階に響くほどで、晩年には天然のウェーブのかかった白髪頭で怒号を飛ばすことから「ホワイト・ライオン」と仇名された[13][24]。
心ない閲覧者が古書類を手荒く取り扱うことを恐れるあまり、閲覧を拒否することもあった。昭和初期、アメリカ議会図書館の主任であった坂西志保が石川啄木の資料を求めて函館図書館を訪れた後、大阪で間宮不二雄に会い「間宮さん! 日本には不思議な図書館がありますね! 函館の図書館長は蔵書を一般読者に余り見せることを好まない様だ[注 21]」と語っている[24][82]。
倹約癖
図書館経営にあたって岡田は、少年期に学んだように非常に倹約に努め、紙1枚、筆1本すら疎かにしなかった。原稿は新しい原稿用紙ではなく、ほとんど保護紙や使用済みの閲覧票の裏を用いた。製本用のボール紙の切れ端も捨てさせず、小さな紙片も製本のために再利用した[5]。使用済みの封筒を裏返しにして再利用し、手紙は小さく切って蔵書印の裏写り防止に用いた[17]。荷造りの紐、荷札の細い針金まできれいに伸ばして保存した[81]。新聞社の取材を受けた際も、記者の用いた写真、写真版などを貰い受け、丁寧に整理して保存していた[15]。
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先述の、図書館の屋根の上の置き物も、函館大火で焼き残った置き物を岡田が捨てられなかったことから、倹約癖を伝える逸話として残されている[36]。
無私無欲
岡田は自分個人に図書類が寄贈されても、自分の手元には置かずにすべて図書館の蔵書とした。友人から旅行の土産を貰っても、文房具は図書館の備品とし、芸術品も図書館に寄贈した[36]。知人たちから贈られた色紙や短冊なども、すべて図書館の蔵書印を押して図書館のものとしていた。そのために没後には、家には軸物はおろか短冊、色紙など一切が残されていなかった[5][8]。死去前の妻への遺言も、売名行為を嫌ってのことと見られている[45]。
前述のように生活が貧困を窮めた際に平出喜三郎からの援助を受けたが、岡田は生活が楽になることよりも「おかげでまた蔵書をますことができ、区民のためこんなに嬉しいことはない」と喜んだ[24]。函館は港町として日本でいち早く海外への門を開いた町であることから、五島軒などが洋食を取り入れていたが、極貧生活を通じて一汁一菜に慣れた岡田は、後年にもそのような料理には決して手をつけなかった。港町育ちということもあり、食卓での贅沢品はせいぜい、イカの刺身、カレイの焼き魚などの安価な部類の魚介類だった[24]。
1920年(大正9年)に、函館教育会が教育功労者を表彰したことがあり、岡田も被表彰者の1人に選ばれた。しかし岡田は、自分を表彰に値しない人物と言い、これを辞退した。当時の教育会会長を務めていた齋藤與一郎はやむなく岡田の意思を尊重し、表彰状と賞金を預かっていた。その3年後に岡田が齋藤のもとを訪れ、賞金だけを受け取ったが、それは金銭欲ではなく、小学校の不燃化についての資料作成のためであった。小学校の不燃化に賛成する齋藤は、岡田の賞金を用いずに齋藤の個人的な援助で出版させようとしたが、岡田は齋藤の負担を固辞し、敢えて自分の賞金を出版費にあてることを承知させた。表彰状のほうは結局、最後まで受け取ることがなかった[35][77]。齋藤は後にこのことを「君の純情誠に愛す可きものがある。真に君の如き天衣無縫天真爛漫の人とこそいう可きである[注 22]」と回想している[83]。
純正不曲
東京帝国大学の医学教授である佐藤精は『斎藤与一郎伝』において、岡田の性格を「直情径行で、不義邪悪を憎むこと極度には激しく、判断は自らの尺度を以て狷介、一度それに接すると、火を吐くような毒舌で罵倒し、(略)相手に誰であることをも弁じない[注 23]」と述べている。
奉公時代には奉公先の店の主人が、客に対してわざと商品の値段を高く言い、客が値下げを要求したところへ本来の値段を言い、客に安く買ったと満足させる、といった方法を岡田に教えたところ、岡田はそれをペテンだといって店先の仕事を嫌い、店の奥の掃除になどに専念していた。この時代からすでに、不正を嫌う岡田の性格が現れていた[69]。商人のもとに奉公しながら、自身は商人の道へ進むことはなかった理由も、この経験によるものである[5]。
戦中には憲兵隊が蔵書を押収しようとした際も、決して屈することなく1冊の蔵書も渡すことはなかった[5]。同じく戦中に岡田の新聞への投書が特別高等警察の目に触れ、病床の岡田に召喚状が来たときも、最期まで出頭することはなかった[13]。
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函館市会で、函館市長の坂本森一と対立した際、坂本に「図書館長たる貴男は、理事長の立場がだれよりもよく判る筈ではないか[注 24]」と言われたところ、岡田は「市長、たわけたことをいうな、不肖岡田は図書館長である前に、市民の代表たる議員の立場で質問しているのですぞ、そのくらいのことが判らんで市長が勤まると思うか、このたわけ者めがッ[注 24]」と返した。坂本は思わず苦笑し、論戦もそれで終わりとなった[84]。元議長の高木直行は後に、「大市長といわれた自信満々のあの切れ者を“たわけ者”と極めつけたのは後にも先にも是空居士一人であったと思う[注 24]」と語っている(『是空』は岡田の雅号の一つ[1])。
一方では、こうした岡田の言動が市会で反感を呼んだことが、10年にもわたる図書館問題の膠着に繋がったとも見られている[85]。また市立図書館が完成して岡田が館長に推された際も、市の理事者は岡田の性格を嫌って同意しなかった。そこへ宮崎郁雨らの依頼により齋藤與一郎が調停を務め[86]、館長就任が実現した[23][31]。しかし、その翌年の1931年(昭和6年)には、市会で図書館費の4分の1が削減された。これに対して図書館後援者たちが削減分を寄付しようと、「従事員復活経費寄附採納方」を請願したが、これも否決された。これらのことから、岡田の言動を快く思わない議員たちが当時もまだ存在していたものとも見られている[75][87]。
教育
尋常高等小学校の後に奉公に出たのは、学業よりも世間のことを学ばせるという母親の育児方針である[8]。このために尋常高等小学校以上の高等学校へは進学していないが、後に図書館業を通じて膨大な数の図書に触れたことで、独学で学問を充実させた。日本図書教会が東京で講習会を開いた際、文学博士たちが講師を務める中、岡田は学歴のない者としてただ1人、講師に選ばれている[77]。函館図書館経営にあたっても、館内の膨大な数の蔵書のほとんどを脳裏に記憶しており、郷土資料の一部始終をよく知っていたことから、博覧強記の持ち主とも見られている[8]。
函館の郷土史に関する多くの著作物を著し、函館の文化への貢献者たちの事業や功績の顕彰にも努めており、民間学者ともいえる人物である[71]。郷土史の知識は市内随一ともいわれ、蝦夷関係では専門学者が岡田に教えを乞うこともあった[79]。
また後述のように大工の父の影響もあり、建築に深い興味を寄せていた。若いころから函館市内の古い建物を自分の足で調査しており、「建築博士」とも呼ばれた。函館工業補修学校(後の北海道函館工業高等学校)に特設科が設けられた際、1917年(大正6年)から半年間、若年の生徒たちに混ざって鉄筋コンクリート工法と万国建築条例を学び、修了証書をとった。このときの講師である村田専三郎は啄木の後輩にあたり、啄木と文通の経験もあったため、後の啄木の墓の建立にあたっては岡田の相談相手にもなった[24]。
郷土愛
郷土である函館を強く愛した人物でもあった。それを示すエピソードとして、小学生だった頃の長女の弘子を連れて札幌を訪れた際、弘子が大通公園の花壇を見て羨ましがり「札幌に住みたい」と言ったところ、岡田は真顔で怒り「よそを見て羨ましいと思ったら皆で函館をそれ以上よいところにしなければ駄目だ[注 25]」と言ったという[71]。
岡田が業績保存に尽くした石川啄木は、岡田自身は一度しか会っていないが、その啄木に前述のように様々に尽くしたことも、郷土愛の現れと見られている[50]。
家族
父は優れた大工であり、多くの建築物を手掛け、多数の弟子を育成した後、1893年(明治26年)、岡田が小学5年生のときに53歳で死去した。岡田が建築物の不燃化に拘ったこと、また函館大火直後にいち早く建築業界や土木業界と連携して街の復興に尽力したことは、大工である父の影響も大きいと見られている[39]。母は岡田が私立図書館運営で極貧生活を強いられていた時期の1922年(大正11年)に、75歳で死去した[6][32]。
妻イネは、岡田と苦難を共にし、不平一つ言わずその苦難を耐え抜いた。岡田が図書館に泊まり込み、神経痛で歩行が困難になった際には、彼を背負って坂道を歩いて連れ帰ることも多かった[45]。岡田の没後も長年にわたって図書館職員として勤務し続け[32]、岡田の十三回忌にあたる1956年(昭和31年)には、岡田が1916年に『函館毎日新聞』に連載した「函館百珍」全99話、雑誌『函館論評』『函館』に1928年から1930年まで連載した「函館史実」全80話をまとめ、『函館百珍と函館史実』として出版[88]。1981年(昭和59年)、91歳で死去した[6]。
子供は四男二女の6人がいたが、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)までの6年間で次男、三男、四男の3人が1歳までに病死した。母同様に岡田の極貧生活による苦難の時期において、イネが図書館業務に追われ、育児や病気の看病にまで手が回りきらなかったためである[5]。次女も1927年(昭和2年)に生後半年で死去した[6]。
岡田の没後に遺された家族の内、長男は上野の図書館講習所を経て、1934年(昭和9年)より司書として函館図書館に勤務した。父の後継者として期待されていたが、太平洋戦争勃発後に出征。もともと体が弱かったことから、1945年(昭和20年)、終戦を目前にして南島で戦病死した[31][89]。
その後に唯一遺された実子である長女の弘子は、長男に代って父の遺志を継ぎ、父直伝の図書館教育と図書館講習所を経て司書となり、1976年(昭和51年)から1982年(昭和57年)まで市立図書館館長を勤めた[17][31]。その後は事務局長として勤務し、平成期は退職後においても散逸資料の発掘、収集と管理をライフワークとした。また「啄木に関しては紙ひとつでも絶対になくすな」との岡田の教えに基づき、啄木文庫の維持保存、啄木の資料を後世に残す活動に努めた[52][56]。2020年(令和2年)5月28日、満95歳で死去した[90]。
長男の息子、岡田の孫で弘子の甥にあたる岡田一彦は市立函館博物館に勤務し、資料保存のエキスパートとしての役割を果たしている。弘子は前述した函館啄木会の代表理事、一彦は会員であり、同会は平成期においても、啄木関連の資料を長年にわたって維持保存する団体として機能し続けている[52]。
交友関係
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岡田が生涯にわたって師と仰いだ人物が齋藤與一郎である。私立図書館建立後の時期、斎藤の人間性に惹かれた岡田は頻繁に彼のもとを訪ね、新たな知識を得るとともに、図書館設立にまつわる苦労を熱く語った。清廉潔白な性格や苦学の境遇、郷土のために身を挺して尽くす性格が共通していることから、2人は水魚の交わりを結んだ[91]。岡田は寄付者として恩義のある相馬、小熊、平出らのことすら、陰では悪く言うことがあったが、斎藤にだけは常に敬意を払い「斎藤先生」と呼んだ[35]。斎藤もその広い交流範囲の中、自分の知己は3人のみといい、その1人に岡田の名を挙げていた[23]。
私立図書館建立にあたって岡田を援助したのが相馬哲平、小熊幸一郎である。相馬は岡田同様、郷土に報いる志を持つ人物であり、図書館の建造費に加え、図書購入費などで彼を援助し続けた[3]。
小熊は奉公時代からの岡田の苦労を知っていたことから、その後も長年にわたって岡田を応援し続けた[92]。私立図書館の鉄筋書庫完成後、鉄筋製の本館を目指した岡田は、1911年(明治44年)に小熊を訪ねてその意思を伝えたところ、小熊も同意見であった。もっともこの時点では小熊は軽く答えたつもりであったが、岡田は小熊が後で心変わりすることを危惧して念書を求め、小熊は2万円の寄付申込書を書いた[93]。その寄付期限の迫った1915年(大正4年)、第一次大戦による戦争景気で小熊の寄付も多方面に及んでいたことから、岡田は小熊に当初の倍以上の5万円の寄付を依頼した。しかも小熊の返事を待つまでもなく、岡田は5万円の寄付を前提に建築計画を進めた。無茶なやり口にも関らず、岡田の性格を熟知する小熊は「君に会ってはかなわないな。いまに、百万円に値上げせなどと、いって来るのではないか[注 26]」と笑って済ませたという[27][94][注 4]。
函館市長の坂本森一は、市長就任が函館市立図書館開館の翌年であり、市長としてまだ日が浅かったこともあって、当初は市会における岡田の言動を快く思っていなかった[75]。図書館に在職のまま議員活動を続ける岡田を「クビにしよう」と発言したことすらある。しかし齋藤與一郎が図書館問題の調停に入った際、斎藤は坂本に、岡田の人間性と図書館にかける情熱を語った。坂本が実際に岡田に会い、斎藤の言葉の通りの人物であることを確かめたことで、岡田と親密な仲に至った[23][75]。
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fc%2Fcc%2FMiyazaki_Ikuu1931.jpg%2F220px-Miyazaki_Ikuu1931.jpg)
石川啄木の業績保存で関連した啄木の義弟・宮崎郁雨は、岡田自身の親友でもあった[95]。岡田はよく酒の席では「俺の友達は皆初め一度喧嘩をしてそれから仲良くなるんだが、宮崎だけは喧嘩のしようがなかったな[注 27]」と語っており、宮崎もまた「私の友達の中には幾人かの天才者が居る。その一人は石川啄木、一人は岡田図書裡[注 28]」と語っていた。晩年に岡田が体調を崩すと、宮崎は毎日見舞いに訪れた。そんな宮崎に対し、すでに病状がかなり悪化していた岡田は「宮崎、もう駄目なんだろう。驚かないから本当のことを話してくれ[注 7]」と、宮崎を困らせた[46]。岡田の没後、彼の長男の死が確認された後の1946年(昭和21年)[注 29]に函館図書館館長に就任したが、かつて軍籍にあったことから、公職追放令によりわずかの在任期間で退任した[19][47]。宮崎の没後、その墓は立待岬の啄木の墓に隣接して建立されたが[96]、生前には宮崎は啄木の墓のそばに自分たち2人の墓を建てようと何度も岡田に誘い、売名行為を嫌う岡田はそのたびに固辞したという[45]。
函館市史の編集長を務めた郷土史家の田畑幸三郎は、岡田の弟子であると同時に公私ともに最良の協力者でもあった[97]。もとは商社勤務であり、その社長が岡田の友人だったことから田畑自身も親交を持っており、晩年に岡田が入院に際し「おまえが手伝いに来てくれなければ、おれは安心して入院できない、ぜひ来てくれ[注 30]」と懇願したことで、図書館に司書として勤務することとなった[98]。岡田の没後は彼の遺志を継ぎ、岡田弘子とともに図書館を支えた。1983年(昭和58年)には病床の身でありながら、岡田の誕生百周年の記念とし、岡田の功績を後世に伝えるために『岡田健蔵と函館図書館』を著した[97]。
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函館市出身の作家である梁川剛一は、1928年(昭和3年)に東京美術学校を卒業後に函館図書館に通いつめ、図書館長である岡田や、当時すでに函館市長となっていた齋藤與一郎らと交流した。この縁で函館市中央図書館エントランスには、梁川の製作による「岡田健蔵先生像」が据えられている[99][100]。
注釈
- ^ 当時の函館では家の貧富に関らず、商業見習いのために子供を商家へ奉公に出すことが風習であったという事情もある[5]。
- ^ 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年 - 1952年)。漁業経営者、水産功労者[18]。
- ^ 坂本 1998, pp. 53–54より引用。
- ^ a b c 当時の貨幣価値の参考として、1915年(大正4年)当時の大学卒の月給が35円から45円程度であった[27]。
- ^ 田畑 1983, p. 17より引用。
- ^ 坂本 1998, p. 182より引用。
- ^ a b 宮崎 1956, p. 73より引用。
- ^ 小野寺 1993, p. 255より引用。
- ^ 坂本 1998, p. 348より引用。
- ^ 墓碑建設が節子夫人の死去から13年も後だが、これは当時、岡田が市立図書館設立準備で、宮崎郁雨が父の死に伴う家業経営で、それぞれ多忙を極めたためである[57]。
- ^ 1931年と1933年に日記の抜粋を掲載[60]。この漏洩については、改造社版啄木全集の年表作成の目的で岡田から日記の閲覧を許された吉田孤羊がその当事者とみられている[61][62]。
- ^ 馬場 脩(ばば おさむ、1892年 - 1979年)。孝古学者、アイヌ文化研究家。北方民族研究の世界的権威[72]。
- ^ a b 藤島 2003, p. 6より引用。
- ^ 梅澤 2007, p. 20より引用。
- ^ 後に函館市中央図書館のデジタル資料館で公開されている[80]。
- ^ a b 反町 1984, p. 14より引用。
- ^ 反町 1984, p. 15より引用。
- ^ 坂本 1998, p. 119より引用。
- ^ 反町 1977, p. 10より引用。
- ^ a b 中山 2009, p. 19より引用。
- ^ 間宮 1956, p. 42より引用。
- ^ 坂本 1998, p. 340より引用。
- ^ 佐藤 1957, p. 456より引用。
- ^ a b c 高木 1956, p. 25より引用。
- ^ 藤島 2003, p. 7より引用。
- ^ 佐藤編 1958, p. 233より引用。
- ^ 宮崎 1956, p. 70より引用。
- ^ 宮崎 1956, p. 71より引用。
- ^ 岡田の死去から宮崎の館長就任まで約1年以上の空白があるのは、函館市長の坂本森一が、出征した岡田の長男の凱旋を待って彼に館長を継がせるため、敢えて館長の座を空けておいたためとの説がある[19][47]。
- ^ 田畑 1983, p. 72より引用。
- ^ 藤島 2003, p. 5より引用。
- ^ 函館市 2002, p. 589より引用。
- ^ 坂本 1998, pp. 112–113より引用。
- ^ 高木 1956, p. 24より引用。
- ^ 林 靖一(はやしせいいち、1894年12月26日 - 1955年2月17日[104])、1920年(大正9年)に朝鮮に設立された鉄道図書館の創始者および初代館長[104]。
- ^ 宮崎 1960, p. 286より引用。
出典
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