中部配電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/24 07:50 UTC 版)
![]() 本店跡地に建つ大津通電気ビル | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | 中配 |
本店所在地 |
![]() |
設立 | 1942年(昭和17年)4月1日 |
解散 | 1951年(昭和26年)5月1日 |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
歴代社長 |
海東要造(1942 - 1946年) 大岩復一郎(1946 - 1951年) |
公称資本金 | 2億625万円 |
払込資本金 | 1億8583万7千円 |
株式数 | 412万5000株 |
総資産 | 3億5553万0千円 |
収入 | 5185万6千円 |
支出 | 4483万4千円 |
純利益 | 702万2千円 |
配当率 | 年率7.0% |
株主数 | 5万8128人 |
主要株主 | 静岡市 (7.4%)、伊那電気鉄道 (4.2%)、帝国生命保険 (3.8%)、明治生命保険 (3.0%)、日電興業 (1.0%) |
決算期 | 3月末・9月末(年2回) |
特記事項:資本金以下は1943年9月期決算による[1] |
本店は愛知県名古屋市。1942年4月に中部5県の主要配電事業者11社を統合して設立され、翌年4月までに管轄地域に残る配電事業をすべて吸収。全国規模で発電・送電事業を統合した日本発送電からの受電と小規模な自社発電所を電源に、当該地域の配電業務をほぼ一手に担った。配電区域は中部5県ではあるが県境によらない区割りがあり、静岡県の富士川以東や岐阜・三重両県の一部を含まない。
1951年5月、電気事業再編成令の適用により解散した。解散と同時に、中部配電のほとんどの事業と日本発送電の一部事業を引き継いで発電・送電・配電の一貫経営を担う中部電力が設立された。
概要
中部配電株式会社は、「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)に基づき設立され、配電事業の統制のため配電事業を経営した電力会社である[2]。同令によって全国に9社設立された配電会社の一つであり[3]、中部配電は愛知県・岐阜県(滋賀・富山両県に接する各1か村を除く)・三重県(南端部を除く)・静岡県(富士川以西)・長野県の5県を管轄した[4]。
配電統制令公布・施行後の1941年(昭和16年)9月、配電統制令に基づく逓信大臣の中部配電株式会社設立命令が静岡市(市営事業を持つ)と伊那電気鉄道・揖斐川電気工業(現イビデン)・日本電力・東邦電力・中央電力・中央電気・中部合同電気・長野電気・矢作水力・信州電気の民間10社、合計11事業者に対して発令される[5]。この11事業者により中部配電の設立準備が進行し[6]、翌1942年(昭和17年)3月30日に名古屋市の名古屋商工会議所にて創立総会が開催され、同年4月1日付をもって設立登記ならびに事業開始に至った[7]。設立当時の資本金は2億円[7]。本店は名古屋市中区南大津通に置かれた[8]。
設立の時点においては、11事業者の統合(第一次統合)を実施したのみで管轄地域の配電統制を全面的に実現したわけではなかった[4]。そのため順次残存配電事業の統合(第二次統合)が進められ、1942年から翌1943年(昭和18年)4月までの間に計49事業者を統合して配電統合を完了した[4]。以後、全国規模で発電・送電事業を受け持つ日本発送電や一部残存した発電事業者から卸売りされる電力を中部配電が受電し、これを自社水力・火力発電所で発電した電力とあわせて管轄区域の需要家に対して供給するという供給体制が確立された[9]。ただし一部大口需要家の工場は日本発送電からの直配であり[10]、他にも中部配電の配電業務が及ばなかった集落も存在する。
戦後の1946年(昭和21年)に配電統制令が失効したため特殊会社ではなくなり商法に準拠した通常の株式会社となる[11]。次いで1950年(昭和25年)11月、電力国家管理体制の廃止と電気事業の再編成を目的とする「電気事業再編成令」(昭和25年11月24日政令第342号)が公布され、これに基づき日本発送電と中部配電を含む配電会社9社の解散が確定する[12]。1951年(昭和26年)5月1日、電気事業再編成が実行に移されて中部地方には発・送・配電一貫経営の電力会社中部電力株式会社が発足し[13]、それと同時に中部配電は資産負債のほとんどを中部電力へと継承して解散した[14]。
中部配電の設立過程
中部地方における電気事業の発達
1887年(明治20年)、愛知県名古屋市において名古屋電灯が設立された[15]。同社は2年後の1889年(明治22年)12月15日付で市内への電灯供給事業を開業する[15]。これが東京と関西3都市に続く日本で5番目、中部地方(北陸を含む)に限ると第一号となる電気事業である[15]。中部地方では5年後の1894年(明治27年)より後続事業の開業が相次ぐようになり、岐阜県では同年、静岡県では翌1895年(明治28年)、三重県では1897年(明治30年)、長野県では1898年(明治31年)に、それぞれ県内最初の電気事業が開業した[16]。
日露戦争後の時期になると電灯や電動力の利用が全国的に本格化し[17]、第一次世界大戦によって生じた大戦景気の下で一層の普及をみせた[18]。1910年代を通じて多数の電気事業者が起業された一方で既存事業者の規模拡大も顕著で、中には地域の中核事業者へと伸びるものも現れた[18]。中部地方においては名古屋電灯が他を圧倒する規模に拡大したほか、愛知県では豊橋電気・岡崎電灯、岐阜県では岐阜電気、静岡県では静岡市営電気と富士水電・日英水電、三重県では北勢電気・津電灯、長野県では長野電灯・信濃電気・諏訪電気・伊那電気鉄道といった事業者が1910年代中に電灯数5万灯超という規模に達している[18]。また岐阜県では他の電力会社や大口工場への売電しつつ電気化学工業を経営するという揖斐川電気(後の揖斐川電気工業、現・イビデン)も台頭した[19]。
技術革新によって発電・送電設備が大規模化するにつれて電力業界では事業が大資本へ集中する傾向が生じていたが、1920年(大正9年)の戦後恐慌発生とそれを踏まえた監督官庁逓信省の勧奨によって全国的に電気事業の合同・統一が活発化した[20]。中部地方では名古屋電灯がその中核で、周辺事業者の合併を積極化して1920年から1922年(大正11年)までの短期間のうちに豊橋電気・岐阜電気・北勢電気などを合併、さらには奈良県の関西水力電気や九州地方の九州電灯鉄道などの遠方の電力会社とも合併し、中京・九州にまたがる資本金1億円超の大電力会社東邦電力へと発展した[21]。三重県においては1922年に津電灯ほか2社の合同によって三重合同電気(後の合同電気)が発足[22]。同社はその後も三重県下の事業統一を進めつつ、徳島県の徳島水力電気と合併して四国地方にもまたがる電力会社に発展した[22]。1930年(昭和5年)になり、東邦電力の一部区域を受け入れるという形でこの合同電気と中部電力(旧・岡崎電灯)は東邦電力の傘下に入った[23]。
静岡県では日英水電を1920年に合併した早川電力、後の東京電力が県内事業者の合併を続けて県西部・中部にかけて供給区域を広げた[24]。同社も東邦電力の傘下にあったが、東京進出を事業の柱に据えて関東地方の中核会社東京電灯と競争した結果、1928年(昭和3年)に東京電灯へと吸収された[24]。その東京電灯は東京電力合併に先立つ周辺事業統合の過程で県東部の富士水電などを合併しており[25]、静岡県内の大部分が東京電灯区域となっている[26]。圏外事業者の中部進出には1922年に長野県の松本電灯を合併した新潟県の中央電気(旧・越後電気)という例もある[26]。
1920年代には名古屋地区における電力供給に新興電力会社も参入した。一つ目は矢作水力で、1920年より順次矢作川を中心に発電所を完成させその電力を他の電気事業者や名古屋・西三河の工場へと供給した[26]。次いで飛騨川や北陸での電源開発と関西方面への送電を目的に起業された日本電力が名古屋地区にも着目し、1924年(大正13年)より同地の工場に対する電力供給を開始した[27]。名古屋を地盤とする東邦電力はこの侵入に対し、東邦電力で大量の電力を引き取るという受電契約を供給開始に先駆けて交わし、受電と引き換えに日本電力の勢力拡大を押しとどめるという道を選んだ[27]。なお東邦電力には木曽川開発を手掛ける大同電力という姉妹会社(旧名古屋電灯から派生)があったが、同社は関西方面への送電に注力したため東邦電力との関係は日本電力よりも希薄化した[28]。
配電統制に先駆けた事業統合
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1935年(昭和10年)、政府内において発電・送電事業を国家が管理するという「電力国家管理政策」の具体案作成が始まった[29]。この動きは1938年(昭和13年)の「電力管理法」公布と翌1939年(昭和14年)の電力国家管理の主体となる特殊会社日本発送電設立へと流れていく[29]。この動きに反発した東邦電力は自社を核とした地域的統合という対抗策を進め1937年(昭和12年)に傘下の合同電気・中部電力合併に踏み切った[30]。地域的統合は同年長野県にも波及し、長野電灯と信濃電気の合併によって長野電気が発足、諏訪電気は安曇電気を合併し信州電気となった[31]。
電力国家管理の議論が動く中、逓信省は当時国家管理の対象外として想定されていた配電事業についても整理を図るべく、1937年6月全国の主要電気事業者に対して隣接する小規模電気事業を統合するよう勧告した[32]。この勧告に従い以後全国規模で小規模事業の統合が活発化する[32]。東邦電力でも中部から九州にまたがる各地域で事業統合を続けたほか[32]、1938年(昭和13年)には岐阜県内の一部地域を分割した上で東濃地方から長野県木曽地方にかけての中小事業を合同して傍系会社中部合同電気を立ち上げた[32][33]。また傍系会社の三河水力電気を中心に三遠南信山間部の事業を統合した中央電力も1938年に設立している[33]。他に東京電灯が静岡県、長野電気・信州電気・伊那電気鉄道が長野県でそれぞれ隣接小規模事業を統合した[31]。
1939年4月、電力国家管理の主体として国策会社日本発送電が発足した[34]。設立に際し、会社を挙げて日本発送電に合流した大同電力の事業をそのまま継承したほか、全国の事業者から主要火力発電設備と主要送電・変電設備の現物出資を受けている[34]。同社の主たる業務は、自社発電所の発生電力ならびに水力発電所を持つ発電会社から買い入れた電力を配電事業者や一部大口電力需要家へと供給することにあった[34]。翌1940年(昭和15年)になると、日中戦争長期化という情勢下での総力戦体制構築の一環として国家管理体制を強化する動きが始まり、既設の主要水力発電設備その他を日本発送電へ帰属させ、配電事業も地域別に国策配電会社を新設して既存電気事業者を解体するという方針が定められた[29]。
配電統制の方針については、1940年9月に閣議決定された第二次電力国策要綱にて全国を数地区に分けて地区ごとに配電会社を新設、これに地区内の全配電事業を統合するという方針が定められた[35]。逓信省での検討の結果、10月になり地区数は8と決められ[注釈 1]、そのうち中部地区は愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県に富山・石川・福井の北陸3県を加えた8県からなるものとされた[35]。翌1941年(昭和16年)4月には「配電事業統合要綱」が決定され、まず全国を8地区に分かち各地区の主要配電事業者に地区ごとの配電会社を設立させてこれに統合(第一次統合)、その後各配電会社に地区内の残余事業を統合させる(第二次統合)、という二段階の統合手続きが定められた[35]。
配電統合の方針確定に伴って1941年5月中部地区主要事業者の代表が集まって設立準備委員会が立ち上げられた[5]。これに加わった事業者は静岡市・伊那電気鉄道・揖斐川電気工業・日本電力・東邦電力・中央電力・中央電気・中部合同電気・長野電気・矢作水力・信州電気の11社に北陸3県の金沢市(市営事業経営)・日本海電気・京都電灯を加えた計14社である[5]。しかし日本海電気社長の山田昌作は早くから北陸地区の独立を主張して運動しており、山田の主導と名古屋逓信局の督励によって日本海電気・高岡電灯・金沢電気軌道など北陸地区計12社の合併手続きが当時別個に進行中であった[37]。合同による新会社北陸合同電気は同年8月1日付で発足する[37]。直後に中部地区を暫定的に分割(全国9地区化)して北陸3県にも配電会社(北陸配電)を立ち上げるという方向に当局の方針が修正され[37]、これに従い北陸合同電気と金沢市・京都電灯は中部地区の設立準備委員会から脱退した[5]。
中部配電設立命令の発出
1941年8月30日、「配電統制令」が公布・施行された[29]。続いて9月6日付で配電統制令に基づく配電会社9社の設立命令書が逓信大臣より主要配電事業者に対して発出される[3]。対象事業者は全国計60社に上り[38]、そのうち「中部配電株式会社」の設立命令書を手交されたものは静岡市・伊那電気鉄道・揖斐川電気工業・日本電力・東邦電力・中央電力・中央電気・中部合同電気・長野電気・矢作水力・信州電気の11社であった[3]。中部配電設立命令受命者の概要は下表の通り。
受命者名 | 所在地[39] | 払込資本金額 | 電灯電力供給区域[40][41] |
---|---|---|---|
静岡市(公営) | 静岡県静岡市 | - | 静岡市内の大部分 |
伊那電気鉄道(株) | 東京市麹町区 | 1315万1200円[42] | 長野県南信地方と愛知県下2か村 (主要都市:飯田市) |
揖斐川電気工業(株) | 東京市麹町区 | 2200万円[43] | 岐阜県下3か村以外は電力供給区域のみ |
日本電力(株) | 大阪市北区 | 1億6845万円[43] | 中部では岐阜県下1か村以外は電力供給区域のみ[44] |
東邦電力(株) | 東京市麹町区 | 2億6000万円[45] | 中部では愛知県の大部分と岐阜県西濃・中濃・飛騨西部、三重県の大部分、静岡県浜名湖以西[46] (主要都市:名古屋・一宮・瀬戸・半田・岡崎・豊橋・岐阜・大垣・津・四日市・桑名・松阪・宇治山田) |
中央電力(株) | 東京市神田区 | 645万6000円[38] | 愛知県東三河地方、静岡県遠州地方北西部、長野県南信地方南部 |
中央電気(株) | 新潟県高田市[47] | 2525万円[47] | 中部では長野県松本地域・北信地方北部[48] (主要都市:松本市) |
中部合同電気(株) | 名古屋市中区 | 400万円[38] | 岐阜県東濃地方・長野県木曽地域南部・愛知県北設楽郡稲武町 (主要都市:多治見市) |
長野電気(株) | 長野県長野市 | 2638万7500円[47] | 中部では長野県北信・東信地方 (主要都市:長野市・上田市) |
矢作水力(株) | 名古屋市東区 | 5960万円[47] | 中部では愛知県下1か村以外は電力供給区域のみ |
信州電気(株) | 東京市京橋区 | 1098万7500円[38] | 長野県諏訪地域・中信地方北部 (主要都市:岡谷市) |
11社の受命者のうち中部合同電気・信州電気の2社は「配電株式会社と為るべき株式会社[注釈 2]」に、その他は「電気供給事業設備を出資すべき者」にそれぞれ指名された[50]。後者に関しては複数地区(最大4地区)にまたがって受命する場合もあり、日本電力は関東配電・北陸配電・関西配電、東邦電力は関西配電・四国配電・九州配電、中央電気は東北配電の設立命令をそれぞれ中部配電に加えて受命している[50][38]。設備出資の範囲は、指定の発電設備・送電設備・変電設備と指定配電区域内にある一切の配電設備・需要者屋内設備・営業設備である[50]。
設立命令書に規定された中部配電の配電区域は静岡・愛知・三重・岐阜・長野の5県である[50]。配電区域は原則として府県境をもって区画するが、やむを得ない場合は「当分の間」の措置として例外を認め配電会社設立後に整理するという方針が事前に定められており[51]、中部配電においても「当分の間」の措置として、新潟県・群馬県における長野電気区域(新潟県は中頸城郡杉野沢村、群馬県は北甘楽・碓氷両郡の大部分[41])を東北配電・関東配電ではなく中部配電の配電区域に含め、反対に次の区域を中部配電の配電区域に含めないものとされた[50]。
- 静岡県における東京電灯・富士電力の供給区域は関東配電の配電区域とする。
- 長野県下水内郡・上水内郡・下高井郡の計10町村における中央電気の供給区域は東北配電の配電区域とする。
- 三重県・岐阜県における宇治川電気の供給区域は関西配電の配電区域とする。
暫定的に配電区域範囲外とされた地域のうち、宇治川電気区域は滋賀県に隣接する不破郡今須村と三重県最南部の南牟婁郡中南部16町村だけに過ぎないが[52]、東京電灯区域は伊豆の賀茂郡を除く静岡県内の各郡や熱海市・三島市・沼津市・清水市・浜松市、静岡市内の一部を含む(富士電力区域は駿東郡東部)[53]。なお矢作水力も中部配電管外の福井県大野郡2か村を供給区域としていたが[41]、同社の福井県内における事業は配電会社設立の前日付で京都電灯(北陸配電へ統合)が譲り受けた[54]。
中部配電発足
中部配電設立命令書の交付を受けて、1941年9月中に中部配電の設立委員会が立ち上げられた[6]。委員は静岡市長稲森誠次と各社の経営陣から1名ずつの計11名が選任され、そのうち東邦電力代表取締役の海東要造が設立委員長に指名された[6]。9月20日には名古屋市内の東邦電力名古屋支店内に設立事務所が開設される[6]。以後統合財産の評価額算定作業が進められ、12月には資本金を2億円とすることや統合事業者に対する株式の割当高が決定[6]。翌1942年(昭和17年)1月には静岡市会と各社株主総会で中部配電設立に関する事項について承認を得るという手続きも済んだ[6]。
そして1942年3月30日、名古屋市内の名古屋商工会議所において中部配電株式会社創立総会が開催された[7]。2日後の4月1日付で会社設立登記を完了するとともに、第一次統合を完了して開業した[7]。同日付で他地区の配電会社計8社も一斉に開業したほか、水力発電設備その他の日本発送電に対する出資(第二次出資、第一次出資は前年10月1日付)も実行に移されている[38]。
第一次統合11事業者に対する設備評価額ならびに中部配電株式の交付数[注釈 3](交付株式はすべて額面50円全額払込済み株式)は下表の通りであった[55]。なお、中部配電と「配電株式会社と為るべき株式会社」である中部合同電気・信州電気の統合比率は、株式の払込額で比較すると対中部合同電気が1対1.15[注釈 4]、対信州電気が1対1.12[注釈 5]である[55]。
事業者名 | 統合設備評価額 (単位:円) |
交付株式数 (単位:株) |
---|---|---|
静岡市 | 15,182,000 | 303,640 |
伊那電気鉄道(株) | 7,321,007 | 146,420 |
揖斐川電気工業(株) | 1,249,734 | 14,094 |
日本電力(株) | 2,119,161 | 42,383 |
東邦電力(株) | 147,444,576 | 2,143,592 |
中央電力(株) | 2,107,853 | 42,157 |
中央電気(株) | 3,894,429 | 72,888 |
中部合同電気(株) | 5,127,273 | 92,000 |
長野電気(株) | 19,967,514 | 295,668 |
矢作水力(株) | 2,834,086 | 56,681 |
信州電気(株) | 21,874,367 | 246,120 |
11事業者合計 | 229,122,000 | 3,455,643 |
第一次統合11事業者のうち、日本発送電に対する設備出資の対象(1941年10月・1942年4月の出資のみ)にも含まれる事業者は揖斐川電気工業・日本電力・東邦電力・中央電力・中央電気・長野電気・矢作水力・信州電気の8社である[38]。11事業者のうち「配電株式会社と為るべき株式会社」にあたる中部合同電気・信州電気は中部配電設立と同日、1942年4月1日付で消滅[38]。配電会社や日本発送電に設備を出資した各社は、東邦電力と中央電力が同日付で解散し[45][56]、2日付で矢作水力、4月20日付で中央電気、5月1日付で長野電気もそれぞれ解散した[47]。一方で伊那電気鉄道は鉄道会社、揖斐川電気工業は工業会社として配電事業を失っても存続し、日本電力も証券保有会社「日電興業」に鞍替えし存続している[38]。
このうち揖斐川電気工業に関しては、中部配電・日本発送電に対する出資設備は全電力設備のうち4割(簿価で比較)のみで、残りは自社化学工業部門の自家用設備として認められ[注釈 6]出資を免れた[58]。第一次統合11事業者の中で発電設備を持ったまま存続したものは揖斐川電気工業のみである。
配電区域の整理
配電会社設立3か月後の1942年7月、配電統制令に基づく事業譲渡命令が東北・関東・中部・関西・中国の各配電会社に発出された[59]。中部配電に関する部分の内容は次の通りである[59]。
- 譲渡
- 譲受
これらの東北配電・関東配電との間における供給区域整理は10月1日付で実行された[4]。このうち関東配電からは発電所も譲り受けている[60]。なお後述の第二次統合は整理後の配電区域に基づいて実施されており、静岡県内でも関東配電区域にあった伊豆合同電気・二岡電灯は中部配電ではなく関東配電へと統合された[60]。
東北配電・関東配電との区域整理に続いて、翌1943年(昭和18年)3月31日付で配電区域の変更が命ぜられ、中部配電区域のうち岐阜県最北部の吉城郡坂下村(現・飛騨市)が北陸配電の配電区域に編入された[61]。同村は元日本電力区域にあたる[44]。これらの整理後、中部配電の配電区域は下記#配電区域節に記す範囲となった。
第二次統合の進行
配電会社設立命令による第一次統合は、原則として電気供給事業に関する固定資産額が500万円以上の事業者であった[51]。対象外の残余事業者は前述の「配電事業統合要綱」にて各配電会社が順次統合していくという手続きがあらかじめ決定されており、中部配電においてもその方針に従って残存事業統合に着手した[4]。
統合は原則として当事者間の任意によるという形を採るが、特に必要のある場合は配電統制令に基づく統合命令が発動された[4]。第二次統合は1942年10月から翌1943年4月にかけて実施され、計49事業を統合して作業を完了した[4]。これらの第二次統合における被統合事業者の一覧とその概要は下表の通りである[62]。
1942年統合(6事業) | ||||
---|---|---|---|---|
事業者名 | 所在地[39] | 払込資本金額[39] | 電灯電力供給区域[40][41] | 統合日[62] |
川根電力索道(株) | 静岡県志太郡藤枝町 | 5万円 | 志太郡笹間村・伊久身村 | 10月1日 |
木曽川電力(株) | 東京市麹町区 | 164万4000円 | 長野県木曽地域北部 | |
飛騨電灯(株) | 岐阜県高山市 | 113万6600円 | 高山市を含む岐阜県飛騨地方 | |
信濃水電(株) | 東京市京橋区 | 25万円 | 供給区域なし(特定電気供給事業) | 11月1日 |
千曲電気(株) | 長野県南佐久郡臼田町 | 56万円 | 供給区域なし(特定電気供給事業) | |
井川電灯(株) | 東京市豊島区 | 1万2500円 | 静岡県安倍郡井川村 | 12月1日 |
1943年統合(43事業) | ||||
事業者名 | 所在地[63] | 払込資本金額[63] | 電灯電力供給区域[40][41] | 統合日[62] |
犬居町(公営) | 静岡県周智郡犬居町 | - | 周智郡犬居村・気多村の各一部 | 3月1日 |
気多村(公営) | 静岡県周智郡気多村 | - | 周智郡気多村の一部 | |
中沢村(公営) | 長野県上伊那郡中沢村 | - | 所在地に同じ | |
上郷町(公営) | 長野県下伊那郡上郷村 | - | 所在地に同じ | |
三穂村(公営) | 長野県下伊那郡三穂村 | - | 所在地に同じ | |
船津町(公営) | 岐阜県吉城郡船津町 | - | 吉城郡船津町・阿曽布村の各一部 | |
細江村小鷹利村 電気事業組合(公営) |
岐阜県吉城郡 | - | 吉城郡細江村・小鷹利村 | |
宮村(公営) | 岐阜県大野郡宮村 | - | 大野郡宮村・高山市(一部) | |
加子母村(公営) | 岐阜県恵那郡加子母村 | - | 所在地に同じ | |
阿木村(公営) | 岐阜県恵那郡阿木村 | - | 恵那郡阿木村の一部 | |
鶴岡村(公営) | 岐阜県恵那郡鶴岡村 | - | 恵那郡鶴岡村の一部 | |
遠山村(公営) | 岐阜県恵那郡遠山村 | - | 所在地に同じ | |
静波村(公営) | 岐阜県恵那郡静波村 | - | 恵那郡静波村・串原村(一部) | |
駄知町(公営) | 岐阜県土岐郡駄知町 | - | 所在地に同じ | |
曽木村(公営) | 岐阜県土岐郡曽木村 | - | 所在地に同じ | |
明世村(公営) | 岐阜県土岐郡明世村 | - | 所在地に同じ | |
黒川村(公営) | 岐阜県加茂郡黒川村 | - | 所在地に同じ | |
八百津町(公営) | 岐阜県加茂郡八百津町 | - | 所在地に同じ | |
加治田村(公営) | 岐阜県加茂郡加治田村 | - | 加茂郡加治田村・蜂屋村(一部) | |
外山村(公営) | 岐阜県本巣郡外山村 | - | 所在地に同じ | |
宮地村(公営) | 岐阜県揖斐郡宮地村 | - | 所在地に同じ | |
府中村(公営) | 岐阜県不破郡府中村 | - | 所在地に同じ | |
牧田村(公営) | 岐阜県養老郡牧田村 | - | 所在地に同じ | |
静岡電気鉄道(株) | 静岡県静岡市 | 267万円 | 静岡市・安倍郡の各一部 | |
大河内電灯(株) | 静岡県安倍郡大河内村 | 1万250円 | 所在地に同じ | |
梅ヶ島電業所 | 静岡県安倍郡梅ヶ島村 | - | 所在地に同じ | |
角川電気(株) | 岐阜県吉城郡河合村 | 6万円 | 吉城郡河合村・坂上村 | |
茂住電灯(株) | 岐阜県吉城郡船津町 | 2万円 | 吉城郡船津町の一部 | |
上ノ保川水力電気(株) | 岐阜県郡上郡弥富村 | 9万円 | 郡上郡弥富村ほか4村 | |
吉田川水力電気(株) | 岐阜県郡上郡口明方村 | 4万5000円 | 郡上郡川合村・奥明方村と大野郡清見村 | |
阿曽布村袖川村 電気事業組合(公営) |
岐阜県吉城郡袖川村 | - | 吉城郡袖川村・阿曽布村(一部) | 4月1日 |
上宝村(公営) | 岐阜県吉城郡上宝村 | - | 所在地に同じ | |
落合村(公営) | 岐阜県恵那郡落合村 | - | 所在地に同じ | |
蛭川村(公営) | 岐阜県恵那郡蛭川村 | - | 所在地に同じ | |
三郷村(公営) | 岐阜県恵那郡三郷村 | - | 所在地に同じ | |
明知町(公営) | 岐阜県恵那郡明知町 | - | 所在地に同じ | |
日吉村(公営) | 岐阜県土岐郡日吉村 | - | 所在地に同じ | |
福地村(公営) | 岐阜県加茂郡福地村 | - | 所在地に同じ | |
東白川村(公営) | 岐阜県加茂郡東白川村 | - | 所在地に同じ | |
洲原村(公営) | 岐阜県武儀郡洲原村 | - | 所在地に同じ | |
口明方村(公営) | 岐阜県郡上郡口明方村 | - | 所在地に同じ | |
長瀬村(公営) | 岐阜県揖斐郡長瀬村 | - | 所在地に同じ | |
玉川水電 信用販売購買利用組合 |
静岡県安倍郡玉川村[64] | - | - |
- 1943年4月1日付で統合された玉川水電信用販売購買利用組合は「電気利用組合」に分類されるもので[64]、電気事業法に基づく電気事業者ではなく、産業組合法に基づく産業組合で自家用電気工作物施設によって配電するものにあたる[65]。
1942年の統合事業者中、木曽川電力と飛騨電灯は配電統制令に基づく電気供給事業設備の出資命令[66]、井川電灯は電気供給事業の譲渡命令による統合である[67]。また1943年3月1日付での統合事業者のうち、阿木村営・静波村営・大河内電灯・上ノ保川水力電気を除いた26事業者も電気供給事業設備の出資命令による統合にあたる[68]。そのうち静岡電気鉄道(同年5月静岡鉄道に改称)からは電気鉄道の電源兼用であった発電所と兼営供給事業を引き継いだだけで、会社自体はその後も鉄道事業者として存続している[69]。
また第二次統合では日本発送電からも1943年3月1日付で一部事業を譲り受けた[62]。同社は愛知・岐阜・長野3県に供給区域を持つ[40]。逓信省の資料によると愛知県東加茂郡旭村(一部)・岐阜県恵那郡串原村(一部)・長野県西筑摩郡王滝村・同郡三岳村の4村からなり旧大同電力区域に相当する[70]。
以上の第二次統合の完了が終わった後も、残存する小規模な自家用電気工作物施のうち資材不足のため経営困難となり統合を希望するものなどを順次譲り受けた[4]。1947年(昭和22年)12月にかけて統合したものは計45施設(うち組合経営が35施設)に及ぶ[62]。
注釈
- ^ 電気庁が示した当初の原案は、中部配電の供給区域は、愛知、岐阜、三重3県の全域と、長野県の南信区域だった。北信は当初設定していた北陸配電に編入とされていた。送電系統が南北に分かれていたためである。しかし当時の長野県知事から「長野はただでさえ南信北信の対立の傾向があるのに、そんなことをされてはこの傾向に油を注ぐようなもので、県の統治上誠に困り、県政の責任を負いかねる。」と供給区域の統一の強い要望があったため、北陸配電は設立せず、さらに静岡県を加えた中部8県と決まったのである[36]。
- ^ 別名「指定会社」。配電統制令第16条に規定があり、商法上の新設合併と同種の手続きにあたる[49]。
- ^ 統合設備評価額から中部配電に引き継がせる負債額を差し引いた金額を基準に株式の割当が決定された[6]。
- ^ 中部合同電気の株主には40円払込(額面50円)株式10株につき中部配電の額面50円払込済み株式を9.2株の割合で交付する[55]。
- ^ 信州電気の株主には額面50円払込済み株式10株につき中部配電の同額払込済み株式を11.2株の割合で交付する[55]。信州電気には払込金額の異なる株式もあるが、交付される中部配電株式は一律50円払込済み株式のため、信州電気株主の持株が25円払込株式であれば中部配電株式の交付は10株につき5.6株、20円払込株式であれば10株につき4.48株、12円50銭払込であれば10株につき2.8株、となる[55]。
- ^ 発電所では東横山発電所(出力1万2000キロワット)・広瀬発電所(出力6500キロワット)・川上発電所(出力2950キロワット)が出資対象外の自家用発電所として存続[57]。イビデンの水力発電所も参考のこと。
- ^ 電力管理法第1条によると「自己ノ専用ニ供シ又ハ一地方ノ需要ニ供スル電気ノ発電及送電ニシテ勅令ニ別段ノ定アルモノ」は電力国家管理の対象外である[73]。
- ^ 岐阜県には福井県から越境合併した地域として郡上市白鳥町石徹白(旧・郡上郡白鳥町大字石徹白、越境前は福井県大野郡石徹白村の一部)があるが、越境合併は1958年のため中部配電時代は福井県側に属しており、この地域は管轄外になる。
- ^ 1956年宮川村の一部となり、さらに2004年飛騨市の一部となる。旧坂下村は飛騨市の「宮川町」を冠する大字のうち万波・打保・戸谷・桑野・杉原・小豆沢・加賀沢・鮎飛・巣納谷・祢宜ケ沢上・洞・中沢上・塩屋・山之山に相当。
- ^ 1954年不破郡関ケ原町大字今須となる。
- ^ 1954年に北輪内村・南輪内村は北牟婁郡側の町村と合併し尾鷲市、新鹿村・荒坂村・泊村は南牟婁郡側の町村と合併し熊野市となる。従って、熊野市のうち須野町・甫母町・二木島里町・二木島町(以上旧・荒坂村)・遊木町・新鹿町・波田須町(以上旧・新鹿村)・磯崎町・大泊町(以上旧・泊村)の範囲がかつての中部配電管轄区域の南端といえる。
- ^ 旧船津町・阿曽布村・袖川村が1950年に統合し成立。2004年飛騨市の一部となる。旧神岡町は飛騨市のうち「神岡町」を冠する大字の地域にあたる。
出典
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