グルジアの歴史
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古典古代文化時代とキリスト教化
紀元前6世紀以降、黒海に面する西グルジアの地にコルキス王国(コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市の影響のもとで発展を遂げた[8][9][10]。黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海とペルシア地域を結ぶ貿易がさかんにおこなわれていた。現在ものこる港湾都市スフミはディアスクリア、ポティはファシス、バトゥーミはバトゥスの名で古代ギリシャ世界に知られており、西方のミレトスからのギリシャ人が入植した[3][注釈 2]。グルジアはプロメテウスの伝説や上述の金羊毛探索にかかわるアルゴ船漂流記など古代ギリシャ神話の舞台となり、グルジア西部を流れるリオニ川は、ギリシャ人には「ファシス川」として知られ、ヘーシオドスの『神統記』、ロドスのアポローニオスの『アルゴナウティカ』、ウェルギリウスの『農耕詩』などには「海の航行東限」として記されている[11]。
コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアカイメネス朝ペルシア、つづいてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した[9][10]。伝説によれば、最初のイベリア王は、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)に対抗したとされるパルナヴァズ1世である。その領域は今日の中部グルジアのカルトリ(カルタリニア)、東部グルジアのカヘティ、西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここは、ギリシャ文明の影響が直接及ばない地域であった[3]。住民は上述の通り、西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人びとと土着民との融合によって形成された人びとである[3]。クラ川・アラグヴィ川の合流点近くに立地する首都ムツヘタは、現代ジョージアの首都トビリシの北20キロメートルに所在し、現在、町全体がUNESCOの世界文化遺産に登録されている[3][12]。なお、「ムツヘタ」の地名はこの地をひらいた首長ムツヘトスに由来するといわれている[12]。
紀元前2世紀、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国のミトラダテスによって制圧され、紀元前65年にはそのポントスが共和政ローマのポンペイウス軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった[3]。同じころ、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた[3]。ただし、その支配は緩やかで名目的なものであり、実際にはペルシアの影響もおよんだ。
1世紀に入り、キリスト教が創始されると、グルジアでは12使徒による伝道がおこなわれたと伝えられており、伝説ではアンデレ、シモン(熱心党のシモン)、マタイが宣教したといわれ、バルトロマイやタダイがグルジアに来ていたと主張する文書もある。とくにローマ支配の揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者が増加した[13]。これは、カッパドキア出身の囚われの聖女ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている[3]。
帝政ローマが衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア地域)にはラジカ王国が成立し、古代コルキスを併合した[9][10]。ラジカ王国は正式名をエグリシ王国といい、首都をアルケオポリス(現、ノカラケヴィ)に置き、東ローマ帝国との結びつきを強めた[3][7]。この王国は523年にキリスト教を受容し、562年、東ローマに併合された[7]。
イベリア王国では、330年代にキリスト教に深く帰依したコスロヴ朝のイベリア王ミリアン3世によってキリスト教が国教として採用された[9][10]。世界でも301年のアルメニア王国につづいて2番目に古いキリスト教国教化の例である[13]。キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後のグルジア文化の影響に大きな影響をおよぼした[8]。なお、現在のアゼルバイジャンにあたる当時のアルバニア(カフカス・アルバニア王国)でも4世紀中頃にキリスト教化しており、また、上述のとおり、ラジカ王国のキリスト教受容はこれら3国より遅かった[13]。
4世紀にイベリア王国の首都ムツヘタに建立されたスヴェティツホヴェリ大聖堂は、正面に装飾彫刻が施されたグルジア最古の教会で、グルジア人の魂のよりどころといわれている[12][13]。また、ミリアン3世が「山の頂に十字架を建てよ」と命じたことから、ムツヘタ市街の正面山頂に十字架が建てられ、のちにジワリ修道院が建てられた[12]。ジワリ(ジュヴァリ)とは「十字架」の意味で、この修道院を上空からみた平面形状は十字形をなしており、6世紀から7世紀にかけての建立といわれている[12]。
グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教の管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス(総主教)の座はムツヘタに置かれた[14]。5世紀のグルジアでは当時一流の哲学者、イベリアのペトルが活躍している[7]。
グルジア文字(カルトリ文字)は、中世の年代記には紀元前3世紀のパルナヴァズ3世の時代に考案されたと記しているが、実際には4世紀から5世紀頃にかけての時期に考案されたと考えられる[11][15]。グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている[15]。グルジア文字の考案はキリスト教改宗とならんでグルジアに独自文化の基盤をつくりだした[11]。現存する最古のグルジア語文献は、5世紀に書かれた『聖シュシャニク女王の殉教』といわれており、当初はこのような宗教文学が中心であった[11][16]。5世紀前半のグルジア語最古の碑文がベツレヘムで発見されており、エジプトのシナイ半島ではグルジア語の写本が大量に見つかるなど、古代のグルジア人の活動は広範囲におよんでいたことが知られている[11]。
イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった[12][17]。トビリシはグルジア語で「温かい」という言葉「トビリ」に由来し、ヴァフタング王がこの町を建設した際に温泉を発見したことから名付けられたといわれている[17]。トビリシには、ヴァフタング以前の4世紀から5世紀にかけて「不落の城」という意味のナリカラ要塞が建設されており、こののち幾度も外敵の侵入からトビリシを救った。6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ王が父の遺言にもとづきムツヘタからトビリシへの遷都をおこなった[17]。トビリシでは、5・6世紀創建のアンチスハティ教会が最古の教会で、7世紀中ごろにはシオニ大聖堂が建てられた[17]。
カフカス地域のアルメニア、グルジア、アルバニアの3教会は、431年に小アジアのエフェソスで開かれたエフェソス公会議(第3回全地公会)での、イエス・キリストは神そのものだとしてその神性のみを認める「単性説」の採用に賛成した[13]。ところが、東ローマ皇帝マルキアヌスが召集し、451年にカルケドン(現、カドゥキョイ)で開かれたカルケドン公会議(第4回全地公会)では単性説が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」としてキリストの神性と人性との位格的一致を説く、いわゆる「両性説」が採決された[13]。506年、3教会の代表者はアルメニアのドヴィンに集まってカルケドン説に反対する旨の決議をおこなったが、以前から「両性説」に傾いていたグルジア教会は7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条を告白する立場に立った[13]。アルメニア正教会は、これに対しコプト正教会、シリア正教会、エチオピア正教会とともに「非カルケドン派」にとどまり、これ以降ザカフカス地方はキリスト教の宗派によって国や地域が分立される状況が常態化したのである[13]。
注釈
- ^ 「グルジア」も「ジョージア」も英語表記は"Georgia"で全く同じである。2015年(平成27年)4月、日本政府は日本国内での国名表記を「グルジア」から「ジョージア」に変更した。
- ^ ディアスクリア(スフミ)はローマの初代皇帝アウグストゥスによって、のちに「セバストポリス」に改称された。
- ^ これを機に東ローマ帝国ではレオーン3世が帝位に就き、イサウリア朝が起こっている。J.M.ロバーツ(2003)pp.92-94
- ^ バグラティ(バグラチ)大聖堂は1691年、オスマン帝国軍の襲撃で破壊されたが、動植物のレリーフを刻んだ石は残っており、1994年にユネスコ世界遺産に登録された。「バグラチ大聖堂とゲラチ修道院」(1999)p.161
- ^ 奴隷としてカイロやイスタンブールに売られるグルジア人も少なくなかった。北川(1988)pp.276-277
- ^ 1659年にも反サファヴィー朝の民衆大反乱が起こっている。北川(1988)pp.276-277
- ^ パーヴェル1世はナポレオン・ボナパルトとの連携を頼りにカザーク部隊のインド遠征という無謀な企てに着手したため、グルジア併合宣言直後の1801年3月、首都総督パーレンの動かした近衛兵によってミハイル宮で暗殺された。和田(2002)p.203
- ^ スターリンは1930年5月にグルジア人のロミナゼをトビリシのザカフカス地方委員会に派遣して共産党組織の立て直しを図ろうとしたが、この人事をトビリシによるバクー支配の現れとみたアゼルバイジャン党委員会らの抵抗によって1930年11月、ロミナゼは失脚している。吉村貴之・野坂潤子「"新しい社会"の誕生」『コーカサスを知るための60章』(2006)p.123
- ^ メスフ人のなかには、グルジアへの帰郷をあきらめてトルコ大使館に亡命申請するグループがあらわれる一方、みずからを「オスマン帝国下でムスリムに改宗したジョージア人(グルジア人)」と規定してジョージアへの帰郷を果たそうというグループも現れた。1989年、ウズベキスタンのフェルガナ地方でウズベク人がメスフ人を襲撃して死者約100人、負傷者1,000人以上の犠牲者を出したフェルガナ事件が起こった。メスフ人たちは大挙して中央アジアから退避し、主としてロシアや北カフカスへの移住を余儀なくされたが、そこでも彼らの長期滞在化によって地域の住民とのあいだで軋轢を生んでいる。半谷史郎「故郷剥奪と流浪」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.126-127
- ^ 旧ソ連の崩壊直前に独立したバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)はCISには参加しなかった。
- ^ シェワルナゼは1970年代にグルジア共産党の指導者としてガムサフルディアを投獄している。前田弘毅「一人勝ちの危うさ」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.150-151
- ^ ガムサフルディアは戦死であるとも、隠れ家で自殺したともいわれ、詳細は不明である。前田弘毅「一人勝ちの危うさ」『コーカサスを知るための60章』(2006)p.150
- ^ のちにウズベキスタンが加わったため「GUAAM」と表記されたが、1999年、ウズベキスタンが脱退したため、GUAMに復した。
出典
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