都市構造とは? わかりやすく解説

都市構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 09:08 UTC 版)

都市構造(としこうぞう、英語: urban structure)とは、都市の空間的な構造のことである[1]都市地理学では、都市内部の土地利用や都市機能に着目する[1]

都市構造モデル

都市構造を論じるうえで、同心円モデル扇形モデル多核心モデルが重要な古典的モデルとして扱われる[2]。これらは第二次世界大戦前のアメリカ合衆国の都市をモデルにして考案された[2]。これらのモデルはシカゴ学派により考案され、社会学の方法論を援用して、都市内部の居住分化の解明を行った[3]

同心円モデル

同心円モデルは、1925年にアーネスト・バージェスが発表したモデルである[1]。このモデルでは、都心から郊外に向けて土地利用が変化し、内側から中心業務地区、遷移地区、低級住宅地区、中級住宅地区、高級住宅地区の順に構成される[1]

扇形モデル

扇形モデルは、1939年にホーマー・ホイトが発表したモデルである[4]。このモデルでは、高級住宅地区などが特定のセクターに集中して分布することが反映されている[4]

多核心モデル

多核心モデルは、1945年にチョーンシー・ハリスおよびエドワード・アルマンが発表したモデルである[5]。このモデルでは、中心業務地区の他にも都市の核が設定されており[5]副都心や郊外核などが挙げられる[6]。多核心モデルは、アメリカ合衆国におけるモータリゼーションに伴う都市圏の拡大を反映した、同心円モデルや扇形モデルよりも現実の都市に近いモデルとなった[7]

現代の都市構造モデル

一方、現代の大都市圏は、交通環境の整備のほか[8]、情報通信技術の普及、政治・経済的な変化などを受けて、古典的なモデルとは異なる都市構造をなしている[9]

モーリス・イェーツ(Maurice Yeates)は、郊外化が進行した1970年代の北アメリカの都市の現状を反映した[10]、同心円、扇形、多核心の3要素を複合させた土地利用モデルを提唱した[11]。このモデルでは、都心から中心業務地区インナーシティインナーサバーブ英語版、ミドルサバーブ、アウターサバーブの順にゾーンが同心円的に形成されている一方、居住者の社会階層はセクター状に分布している[12]。また、郊外に所在するショッピングセンター工業団地が中心業務地区と同様に都市の中心核となっている[13]。さらに、1990年代にイェーツは新たなモデルを提唱し、新たな中心核として、郊外のオフィスコンプレックス、周縁部にエッジシティが加えられている[14]

ジェームス・E・バンス・ジュニア英語版は、多圏モデル(Urban Realms Model)を提唱した[15]。多圏モデルにおいて大都市圏は、複数の自立的な生活圏の結合により構成される[15]。各圏域は自立的であり日常生活の多くは圏域内で完結するが、通勤・通学・買物等での圏域間移動もみられ、圏域同士は弱い結合をなしている[15]。このモデルは、大都市圏郊外における雇用や商業の機能拡大に伴い都心に必ずしも依存しない自立的な郊外が形成されたことを反映している[16]

ミッシェル・ホワイト(Michelle White)は、21世紀の大都市圏を想定した都市構造モデルを提唱した[14]。このモデルは経済機能の郊外化、脱工業化、家族規模の縮小、政策の影響などが反映されている[14]

パース・F・ルイス英語版は、銀河系メトロポリス(Galactic Metropolis)を提唱した[17]。分散的都市化が進行した郊外は、地域内で完結した閉鎖的な空間となり、都市機能が幹線道路沿いに非連続的に立地する様子が銀河系に例えられた[18]

マイケル・ディア英語版およびスティーブン・フラスティは、ポストモダン都市における土地利用の様相を説明するモデルとしてキノ資本主義Keno capitalism)を提唱した[19]。このモデルにおいて大都市圏は都心を代表点とする都市構造ではなく、断片的で非連続的な都市構造をなす[19]。都市開発は周辺の土地利用とは無関係にランダムに進められ[19]、土地利用や都市機能はランダムに立地している[20]

付け根地代理論

他方、1950年代以降、地域経済学者は経済学の方法論を援用して、都市内部での立地パターンの解明を行った[3][21]付け根地代理論は、ヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネンによる農業立地論を援用して考案された[22]。付け根地代理論では、都心からの距離帯に応じて、最も高い地代を負担できる経済活動が土地利用を構成する[22]。都心では業務機能や商業機能が卓越するが、郊外に向かうにつれ、工業や卸売機能、その外側は居住機能が中心となる[22]

脚注

  1. ^ a b c d 富田 2014, p. 48.
  2. ^ a b 堤 2013, p. 338.
  3. ^ a b 林 2012, p. 119.
  4. ^ a b 富田 2014, p. 49.
  5. ^ a b 富田 2014, p. 50.
  6. ^ 林 2012, p. 122.
  7. ^ 林 2012, pp. 122–123.
  8. ^ 川口 2018, p. 458.
  9. ^ 川口 2018, p. 463.
  10. ^ 川口 2018, p. 459.
  11. ^ 林 2012, p. 123.
  12. ^ 林 2012, pp. 123–124.
  13. ^ 林 2012, p. 124.
  14. ^ a b c 林 2012, p. 125.
  15. ^ a b c 川口 2018, p. 461.
  16. ^ 川口 2018, pp. 460–461.
  17. ^ 川口 2018, p. 464.
  18. ^ 川口 2018, pp. 464–465.
  19. ^ a b c 川口 2018, p. 466.
  20. ^ 川口 2018, p. 465.
  21. ^ 林 2012, p. 126.
  22. ^ a b c 堤 2013, p. 340.

参考文献


都市構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:10 UTC 版)

キャンベラ」の記事における「都市構造」の解説

詳細は「en:Parliamentary Triangle, Canberra」および「en:Suburbs of Canberra」を参照 キャンベラは、計画都市として設計され、市の中心街設計は、ウォルター・バーリー・グリフィンが行った。バーリー・グリフィン湖に近い道路ほど、碁盤目状ではなく、「車輪スポークの」形状取っている。グリフィンは、キャンベラ建築計画において、ふんだんに幾何学上のパターン採用しており、その中には六角形八角形形状含まれている。しかしながらキャンベラ郊外に行くと、街作り遅かったことから、幾何学上の街づくりもしていないバーリー・グリフィン湖は、キャンベラ地形状のランドマークとして、キャンベラの街を構成する要素関連付けるために建設された。バーリー・グリフィン湖は、キャンベラ中心部東西横たわり、キャンベラ・セントラルは、この湖によって、南北分けられている。キャピタル・ヒルからコモンウェルス通り北上して、湖を渡るとそばには、コモンウェルス公園があり、キャンベラ中心地へとつながる。そのキャンベラ中心地には、ロンドン・サーキットと呼ばれる六角形環状道路があり、ロンドン・サーキットから南東コンスティチューション通りを行くと、北東方向伸びる大通りANZACパレードである。ANZACパレード突き当りには、オーストラリア戦争記念館がある。この設計は、アインズリー山の展望台から、キャピタル・ヒル方向を臨むと国会議事堂ANZACパレード・オーストラリア戦争記念館一直線展望することができる設計となっている。 コンスティチューション通りをさらにまっすぐ南東方向に進むとキングス通りとの交点に、豪米戦争記念碑英語版)がある。南西方向にキングス通り進みバーリー・グリフィン湖を渡るとキャピタル・ヒルに戻ることができる。このコモンウェルス通りコンスティチューション通りキングス通り3つの街路囲まれ部分をパーラメンタリー・トライアングル(英語版)と呼びグリフィン計画中心をなすものであるキャンベラから南西方向に伸びる軸の終点が、キャンベラから52キロメートル離れた所にあり、ACT標高が最も高いビンペリ・ピーク(英語版)である。 さらに、グリフィンは、エインズリー山、ブラック・マウンテン、レッド・ヒルに精神的な価値置いていた。そのため、彼は、それぞれの山を花で飾ることを計画した。そして、彼の計画は、それぞれの頂を1つの花で彩ることにした。その花は、それぞれ精神的価値代表した第一次世界大戦の間、建設計画遅々として進まず結果的にビリー・ヒューズ首相によって、グリフィン解雇されたことで、計画実現することは無かったキャンベラの街は、7つ地区分けられる7つ地区とは、キャンベラ・セントラル、ウォーデン・ヴァレー、ベルコンネン、ウェストン・クリーク、タガラノン、ガンガーリン、モロングロ・ヴァレーである。これらの7つ地区中心に役場設けられており、複数サバーブ束ねているピラミッド型構造をとる。 キャンベラ・セントラル(英語版)—25サバーブ構成される地区キャンベラ中心であり、1920年代から1930年代に、居住開始された。1960年代区域拡張されている。 ウォーデン・ヴァレー(英語版)—1964年より、供用された地区で、12サバーブ構成される地区。 ベルコネン(英語版)—1966年より供用された地区で、25サバーブ構成される地区ではあるが、1つサバーブは、まだ、開発されていない。 ウェストン・クリーク(英語版)—1969年より供用された地区で、8つサバーブ構成される。 タガラノン(英語版)—1974年より供用された地区で、18サバーブから構成される。 ガンガーリン(英語版)—1990年代より供用された地区で、18サバーブから構成されているが、6つサバーブがまだ、未開発である。 モロングロ・ヴァレー(英語版)—2010年開発開始された。13サバーブ開発予定されている。 キャンベラ・セントラル地区は、基本的にウォルター・バーリー・グリフィン計画基づいている。1967年NCDCは、「Y計画」という計画決定した。「Y計画」という計画は、タガラタガラノンが「Y」の文字縦棒の一番下の部分、ベルコンネンとガンガーリンがそれぞれ、「Y」の文字斜め棒の先端とすることで、それぞれの地区キャンベラ中心部高速道路で結ぶという計画で、Yの文字似ている所から来ている。前述のように、多くキャンベラサバーブは、オーストラリアの首相有名なオーストラリア人オーストラリアへ移住してきた人々、あるいは、アボリジニにちなん名づけられている。キャンベラ街路名は、特定の主題にしたがっている。例えば、「Duffy」の街の通りは、オーストラリアダム貯水池、「Dunlop」の街の通りは、オーストラリア発明発明家芸術家、「Page」の街の通りは、生物学者博物学者の名前にちなんでいる。 大使館多くは、ヤラルムラ(英語版)、ディーキン(英語版)、オマリー英語版)といったサバーブにある。キャンベラ工業地域は、フィッシュウィック(英語版)、ミッチェル英語版)、ヒューム英語版)の各地区にある。

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