都市権と市壁の建設(1330年 - 1479年)
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「ダルムシュタットの歴史」の記事における「都市権と市壁の建設(1330年 - 1479年)」の解説
1330年7月23日、皇帝ルートヴィヒ4世はカッツェネルンボーゲン伯ヴィルヘルム1世にダルムシュタットの都市権を授けた。この特権授与は伯に対する個人的なものであり、市民や都市在住の貴族に対して何らの権利を与えるものでもなかった。しかしこれに付随する市場の開催権によって、それまで目立たない入植地だったこの町の重要性は急速に増し、近隣のあらゆる経済がダルムシュタットの市場に集約されるようになった。ダルムシュタットは、より古くより大きな都市であるフランクフルト・アム・マイン、ヴォルムス、シュパイアーと肩を並べるようになった。 ダルムシュタットはベルクシュトラーセの北に直結している。この事はこの都市の大きな経済上の利点であり、政治的にもたとえばラインハイムのような近隣都市を凌駕していた。さらにダルムシュタットはフランク時代からすでに、少なくとも一部は防塁を築いていた。そして遅くともカッツェネルンボーゲン伯の水城が建設された頃までには、ベルクシュトラーセに直結するベスンゲンにも市壁が築かれていた。このベルクシュトラーセに直結する好位置と水城を含む防壁の組み合わせは、カッツェネルンボーゲン伯時代にこの都市が経験した経済的・政治的飛躍の土台をなすものであった。都市権獲得後、初めは市域を厳格に規定していた市壁内で都市活動が行われていたが、急速にスペース不足が起こったことから市域は次第に拡大を続け、それまでの2つの町は一体化した。内側・外側の両市壁の完成までには約100年が費やされた。 市の自治権は、市長(シュルトハイス)を代表とし14名からなる参審裁判所によって運営されていた。普通は宗教との関連から7または12人で構成されることが多い市民代表者が、この都市では14人という人数であるのは異例なことである。おそらくオーバードルフから7人、ウンタードルフからも同数の市民代表者を受け容れたことによって人数が倍になったのだと考えられ、農民からなるオーバードルフと貴族からなるウンタードルフの社会的な距離の大きさを示すものである。やがてこの人数は減って行き、都市の運営は、わずかな家族の成員によって占められていた。彼らは生涯その職にあり、死後もその家族の成員に世襲されていったのである。このことは、やがてこの街に起こる政治的緊張の予兆を示すものであった。市民階級の人々は、自分たちの意思が反映されていないことを明らかに感じ取っていた。市民達の権利意識を考慮し、カッツェネルンボーゲン伯フィリップは1457年に市の運営担当者を14人に戻し、そのすべてを選挙で選ぶように命令した。しかし、すでに存在していた参審裁判所の影響力はどうやら相当に大きなものであったらしく、「Vierers」という役職を設ける方法で組織の拡大だけを実行した。この役職はその名が示す通り (vier = 4 ) 四人で構成される委員会で市民の意向を代表する組織とされた。この委員は市民の直接選挙で選出されることとされた。 14世紀から15世紀にかけてカッツェネルンボーゲン伯は城の増改築を続け、15世紀の中頃には中世の城塞的性格の水城は堂々たる城館に変貌していた。ダルムシュタットはカッツェネルンボーゲン伯の副首都となり、1385年にカッツェネルンボーゲン伯妃エルゼがその居館に未亡人の「宮廷」を組織する頃には最初の発展最盛期を迎えた。1453年2月にカッツェネルンボーゲン伯フィリップ・デア・ユンゲレンが早逝した後、ダルムシュタットの城館はその未亡人オッティリーの居館となった。
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