幕府時代
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天保2年(1831年)2月江戸幕府旗本牧野成名の弟として生まれた。幼名は隼之助、後に主計(かずえ)。石井潭香に書道を学び、高弟となった。 慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発すると、洋式軍隊草風隊参謀として参戦し、4月15日下総国諸川(茨城県古河市)で旧幕府脱走隊大鳥圭介と合流し、奥州を転戦した。8月23日耶麻郡桧原(福島県北塩原村)の山道で大鳥圭介に馬を貸している。 明治元年(1868年)10月五稜郭を占領した際には伝習士官隊軍監を務めた。12月15日入札により陸軍奉行添役となり、明治2年(1869年)2月頃大鳥・ジュール・ブリュネの松前・江差の砲台巡見に同行し、4月17日神山東照宮の祭日に丸毛利恒と参拝して書画を認め、26日八幡山で丸毛・津田主計と酒を飲みながら箱館湾海戦を観戦している。5月18日降伏した後、兵部省の下で青森蓮華寺、弘前真教寺に幽閉され、10月箱館に戻った。 降伏後、名前の字を数江と改めた。明治初年時点の知行地は足立郡小敷谷村(埼玉県上尾市)。
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幕府時代
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天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町(現在の長崎市油屋町)で儒医・福地苟庵の息子として生まれた。幼時から長川東州について漢学を学び、15歳の時に長崎で通詞・名村八右衛門のもとで蘭学を学ぶ。安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。文久元年(1861年)には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。 慶応2年(1866年)3月に帰国後、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として蔵米150俵3人扶持を与えられ、旗本の身分に取り立てられたが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽った。 慶応3年(1867年)10月の大政奉還の際には、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出したが、その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としない事などの理由から容れられる事が無かった。
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