NEC時代
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増田は1985年に法政大学経済学部に入学し、以前からの希望だった教員の道を歩もうとした。陸上競技に専念していた間にできなかった「普通の若者」の日常を経験することができたが、そのうちに再び「もう一度思い切り走りたい」という思いが募り、日本陸連の強化委員長だった小掛照二に相談した。その結果、1986年に法政大学を中退し、小掛の助力によりオレゴン大学への陸上留学とNECへの入社が実現する。アメリカではオレゴン大学の陸上部ではなく、ブラジル人コーチのルイーズ・オリベイラのチームでトレーニングを受けた。オリベイラからは「自主的にトレーニングすること」「走って自分が幸せだと思えること」の重要性を教えられ、増田の陸上競技に対する姿勢を大きく変えることになる。1987年に帰国。12月の全日本実業団対抗女子駅伝では、それまで無名の松野明美に追い抜かれた。 翌1988年1月の大阪国際女子マラソンでは、途中棄権となったロス五輪以来約3年半ぶりのフルマラソンを走る。このレースはソウルオリンピック女子マラソンの代表選考会だったが、日本人最高の2位となった宮原美佐子が、増田の日本記録を更新して日本女子初の2時間30分突破を果たし、五輪代表内定となった(同レース出走で3位の荒木久美、4位の浅井えり子もソウル五輪代表となる)。一方の増田は、調整期間中に右足を痛めて体調が万全でなかったこともあり、優勝争いにも、日本人トップ争いにもまったく加われず、マイペースでの走りとなる。 その大阪のレース途中、30km前後で沿道の観衆から「増田!もうおまえの時代は終わったんや!!」という痛烈な野次を浴びた時に増田は思わず立ち止まり、しばらく歩いてしまうが、再び走り出してゴールまで完走した。立ち止まったときには惨めさに耐えられず「地下鉄を探して逃げよう」と考えていたが、周囲の市民ランナーから肩を叩かれたりして励まされたことで、再び走り出したという。結局記録は2時間51分台で順位も30位、全盛期から程遠い成績に終わった。それでも、「見栄とプライドからそれまで越えることのできなかったハードル」を越えて完走できた喜びからゴール後の増田は思わず涙を流した。このヤジを飛ばされた時のエピソードは、現役引退後に増田自ら講演等でもよく語っており、1998年に出演した『課外授業 ようこそ先輩』では母校(小学校)の児童とともにこのレースのダイジェストを鑑賞した上で「(現役時代のレースの中で)いちばん楽しかった、走ってて」と述べている。 その後トレーニングを重ね、精神的にも成長した増田は、1989年11月の東京国際女子マラソンでは、日本人最高の8位入賞を果たして第一線に復帰。1990年4月のロンドンマラソンでは19位ながらも、全盛期に近い2時間34分台のタイムを記録した。しかし、同年12月の全日本実業団対抗女子駅伝で、従来のような闘志を感じられなくなったことから引退を決意。1992年1月の大阪国際女子マラソンを引退レースと決めて練習に励んだが、当日のウォーミングアップ中に起きた右足の激痛を抱えたままレースを迎え、関門制限時間に間に合わず、ここでも16.8km地点で途中棄権を余儀なくされた。引退後の検診で、過去の無理なトレーニングと減量で月経が2年ほど止まった時期にエストロゲンの分泌がおこなわれなかったために足の骨がもろくなり、複数の疲労骨折が起きていたことが判明した。
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