NEC時代とは? わかりやすく解説

NEC時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:51 UTC 版)

増田明美」の記事における「NEC時代」の解説

増田1985年法政大学経済学部入学し以前からの希望だった教員の道を歩もうとした。陸上競技専念していた間にできなかった「普通の若者」の日常経験することができたが、そのうちに再び「もう一度思い切り走りたい」という思い募り日本陸連強化委員長だった小掛照二相談したその結果1986年法政大学中退し、小掛の助力によりオレゴン大学への陸上留学NECへの入社実現するアメリカではオレゴン大学陸上部ではなくブラジル人コーチのルイーズ・オリベイラのチームトレーニング受けたオリベイラからは「自主的にトレーニングすること」「走って自分幸せだと思えること」の重要性教えられ増田陸上競技対す姿勢大きく変えることになる。1987年帰国12月全日本実業団対抗女子駅伝では、それまで無名松野明美追い抜かれた。 翌1988年1月大阪国際女子マラソンでは、途中棄権となったロス五輪以来3年半ぶりのフルマラソンを走る。このレースソウルオリンピック女子マラソン代表選考会だったが、日本人最高の2位となった宮原美佐子が、増田日本記録更新して日本女子初の2時間30突破果たし五輪代表内定となった(同レース出走3位荒木久美、4位の浅井えり子ソウル五輪代表となる)。一方増田は、調整期間中に右足痛めて体調万全でなかったこともあり、優勝争いにも、日本人トップ争いにもまったく加われず、マイペースでの走りとなる。 その大阪レース途中30km前後沿道観衆から「増田!もうおまえの時代終わったんや!!」という痛烈な野次浴びた時に増田は思わず立ち止まり、しばらく歩いてしまうが、再び走り出してゴールまで完走した立ち止まったときには惨めさに耐えられず「地下鉄探して逃げよう」と考えていたが、周囲市民ランナーから肩を叩かれたりして励まされたことで、再び走り出したという。結局記録は2時間51分台で順位30位、全盛期から程遠い成績終わった。それでも、見栄プライドからそれまで越えることのできなかったハードル」を越えて完走できた喜びからゴール後の増田は思わず涙を流した。このヤジ飛ばされ時のエピソードは、現役引退後増田自ら講演等でもよく語っており、1998年出演した課外授業 ようこそ先輩』では母校小学校)の児童とともにこのレースダイジェスト鑑賞した上で「(現役時代レースの中で)いちばん楽しかった走ってて」と述べている。 その後トレーニング重ね精神的に成長した増田は、1989年11月東京国際女子マラソンでは、日本人最高の8位入賞果たし第一線復帰1990年4月ロンドンマラソンでは19位ながらも、全盛期に近い2時間34分台のタイム記録した。しかし、同年12月全日本実業団対抗女子駅伝で、従来のような闘志感じられなくなったことから引退決意1992年1月大阪国際女子マラソン引退レース決めて練習励んだが、当日ウォーミングアップ中に起きた右足激痛抱えたままレース迎え関門制限時間に間に合わず、ここでも16.8km地点途中棄権余儀なくされた。引退後検診で、過去の無理なトレーニング減量月経2年ほど止まった時期エストロゲン分泌おこなわれなかったために足の骨がもろくなり、複数疲労骨折起きていたことが判明した

※この「NEC時代」の解説は、「増田明美」の解説の一部です。
「NEC時代」を含む「増田明美」の記事については、「増田明美」の概要を参照ください。

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