Cao Hongとは? わかりやすく解説

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曹宏Cao Hong

ソウコウ
(サウクワウ)

(?~?)

陶謙の部下。曹豹の縁者だろうか。

曹宏は徐州牧陶謙に深く親愛され、その任用を受けていた。しかし讒言をもてあそぶ小人であり、善良な人々の多くが危害を加えられた。徐州は百姓たちが裕福で、食糧も有り余っていたが、曹宏らのために法秩序が乱れ、徐州は少しづつ衰退していった《陶謙伝・後漢書同伝》。

『三国志』『後漢書』ともに、曹宏が親任されたことの対比として、趙昱らの名士が遠ざけられたことを記している。おそらく名士層の僭越・放縦を取り締まるため、曹宏は検察役として陶謙の期待を負っていたのだろう。これらの記述の根底には、曹操による徐州侵攻の非違を相殺する意図があるらしく、注意が必要である。

【参照】曹豹 / 陶謙 / 徐州 / 牧


曹洪Cao Hong

ソウコウ

(?~232)
魏驃騎将軍・特進・楽成恭侯

字は子廉。太祖曹操の従弟。

曹洪の伯父曹鼎は尚書令であったので、曹洪は蘄春の県長にしてもらった。

太祖が董卓討伐の義兵を起こし、熒陽で徐栄に敗北して乗馬を失ったとき、敵軍が肉薄するなか、曹洪は馬から飛びおりて太祖に進呈した。太祖は遠慮したが、曹洪は「天下に曹洪なくとも、君なくばなりませぬ」と言い、徒歩で付いていった。汴水が深くて渡ることができなかったが、曹洪は川べりで船を探し出したので、太祖と一緒に渡って譙へ帰ることができた。

曹洪はもともと揚州刺史陳温と親しかったので、家兵千人余りを連れて陳温のもとで兵士を募集した。廬江の精鋭武装兵二千人、東行して丹陽でさらに数千人を手に入れ、龍亢で太祖に合流した。

太祖が徐州を征討したとき、張邈が兗州をこぞって叛逆し、呂布を迎え入れた。このとき大飢饉に襲われていたので、曹洪は軍兵を率いて先鋒となり、あらかじめ東平の范を押さえておき、食糧を集めて本軍に供給した。太祖が張邈・呂布を濮陽で討ち、呂布が敗走すると、(曹洪は)そのまま東阿を占拠し、転戦して済陰・山陽・中牟・陽武・京・密など十県余りをみな陥落させた。前後する功績により鷹揚校尉を拝命し、のちに揚武中郎将に昇進した。

天子(劉協)は許へ遷都すると曹洪を諫議大夫に任命した。別働隊として劉表を征討し、舞陽・陰・葉・堵陽・博望において劉表の別将を撃破、功績により厲鋒将軍に昇進し、国明亭侯に封ぜられた。その後もたびたび征伐戦に従軍、都護将軍を拝命した。

陰県は葉・堵陽・博望の諸県と遠く離れており、舞陰の誤りと考えられている《集解》。

文帝(曹丕)が即位すると衛将軍となった。驃騎将軍に昇進して封爵を野王侯に進められ、一千戸を加増されて都合二千一百戸となり、特進の位を賜った。のちに都陽侯に移封された。

もともと曹洪の実家は裕福であったのに、曹洪はしわい性格であった。文帝は若いころ借金を求めたことがあったが、叶わず、ずっと恨みを抱いていた。そこで黄初七年(二二六)正月《晋書天文志》、食客に違法行為があったことを口実に獄へ下し、死刑相当とした。群臣はみな救済しようとしたがうまくいかない。曹真が「いま曹洪が誅殺されれば、曹洪は曹真が讒言したのだと思うでしょう」と口添えしても、帝は「我がみずから処罰するのだ、貴卿はなにを心配しているのか?」と聞き入れなかった。

卞太后が「曹洪を今日死なせたなら、吾は明日、帝に命じて皇后を廃位させます」と郭后に告げたので、郭后が泣きながら何度も(曹洪の助命を)歎願し、太后も「梁・沛の辺りは、子廉がなければ今日はなかったのだぞ」と叱責したので、ようやく官職・爵位を没収されるだけで済んだ。太后がまた取りなしたので、後日、ようやく返還された。曹洪は先帝の功臣であったので、人々の多くは失望した。

曹洪が梁・沛一帯を制圧したことは他に見えない。誤記だろうか。

むかし太祖は司空であったとき、自分が率先して部下を導こうと考え、毎年の徴税のとき、本県に命じて資産を調査させた。ときの譙の県令は曹洪の資産は調査し、公(曹操)と同等であると評価した。太祖は言った。「我が家の資産がどうして子廉ほどもあろうか!」

文帝が東宮にあったとき、曹洪から絹百匹を借りようとして断られたことがあった。そのため曹洪は法律を犯したとき、自分が絶対に処刑されるだろうと思っていた。だから赦免されると大喜びして上書した。「臣は若いころから素行が悪かったのに、うっかり人々に混じって久しく要職を盗み、それを大目に見てもらって参りました。もともと節度満足を知らず、豺狼のごとき意地汚い性質でありましたが、年食ってからますます貪欲になり、国法に抵触してしまいました。罪状は三千に近く、赦免など望むべくもなく、誅伐を受けて市場に棄てられて当然でありましたが、なんと天恩を蒙って肉体はふたたび生き返ったのでございます。臣はお天道様を仰ぐたび、御心に背いたことが恥ずかしく、俯いて罪過を思うたび、ぶるぶると慚愧に振るえるのであります。首をくくって自分の後始末もできず、宮殿の門前にて顔に泥を塗り、謹んで真心を申し上げるのでございます。」

明帝(曹叡)が即位すると後将軍を拝命し、改めて楽城侯一千戸に封ぜられ、特進の位を賜った。さらに驃騎将軍を拝命したが、太和六年(二三二)、薨去し、恭侯と諡された。

【参照】郭皇后 / 徐栄 / 曹叡 / 曹真 / 曹操 / 曹鼎 / 曹丕 / 張邈 / 陳温 / 董卓 / 卞皇后(卞太后) / 劉協 / 劉表 / 呂布 / 陰県 / 兗州 / 蘄春侯国 / 許県 / 京県 / 滎陽県(熒陽県) / 国明亭 / 山陽郡 / 堵陽侯国 / 葉県 / 譙県 / 徐州 / 済陰郡 / 丹楊郡(丹陽郡) / 中牟県 / 東阿県 / 東平国 / 都陽県 / 沛国 / 博望県 / 范県 / 舞陽邑 / 汴水 / 濮陽県 / 密県 / 野王県 / 揚州 / 陽武県 / 楽成県(楽城県) / 龍亢県 / 梁国 / 廬江郡 / 衛将軍 / 鷹揚校尉 / 諫議大夫 / 恭侯 / 県長 / 侯 / 後将軍 / 司空 / 刺史 / 尚書令 / 亭侯 / 特進 / 都護将軍 / 驃騎将軍 / 揚武中郎将 / 厲鋒将軍 / 諡 / 家兵 / 東宮




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