Aプロダクション時代とは? わかりやすく解説

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Aプロダクション時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:39 UTC 版)

高畑勲」の記事における「Aプロダクション時代」の解説

ホルス』の制作遅延組合活動によって、高畑東映動画長編劇場作品演出や「やりたい企画」のテレビアニメ任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折に、Aプロダクション移っていた楠部大吉郎大塚康生から、『長くつ下のピッピ』のアニメ化企画東京ムービー)のために移籍勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメ可能性感じていた高畑は、東映動画テレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般統括できる点にも魅力感じて誘い応じるも、宮崎駿小田部羊一2人不可欠と、両者移籍説得した高畑は「将来のある2人巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し小田部悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。 『ピッピ』では、原作者アストリッド・リンドグレーン)との交渉に向かう藤岡豊東京ムービー社長)に同行する形で宮崎スウェーデンロケハンに赴き、その経験生かして大量のイメージボードを描く一方高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性固めようとしたが、原作者許可下りず、企画頓挫した移籍理由消失した高畑らはAプロダクション様々なテレビアニメ企画制作への参加余儀なくされ、高畑東映動画の(残った仲間申し訳ないという思い抱いたという。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)後半パート演出宮崎と共に担当したのも、そうした状況受けた仕事一つだった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「のちのルパンシリーズの原型作り上げたとされるが、[要出典]高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任取りたくない回もあります」と述べている。 1972年映画パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の演出務める。この映画制作に際しては『ピッピ』で作りかけた世界観設定少女一人暮らし三つ編みそばかすのある主人公オーブンのある台所など)が活用された。脚本宮崎駿アイデア存分に盛り込まれとなりのトトロ』のルーツとされる[要出典]。

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Aプロダクション時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 22:40 UTC 版)

シンエイ動画」の記事における「Aプロダクション時代」の解説

Aプロダクション(以下Aプロ)の名前は、「最初文字であるA、エースという意味などで何となくつけた」という(創立者楠部大吉郎の弁)。 テレビアニメ黎明期人形劇団出身者によって創立され東京ムービーテレビアニメ『ビッグX』経営危機に陥り、その失敗踏まえて制作体勢整えようとした。そこで当時東京ムービー社長であった藤岡豊東映動画(現:東映アニメーション)から独立したアニメーター楠部大吉郎に声をかけたことが創立きっかけだった。そして部は、東映動画新人アニメーターだった芝山努小林治に声をかけ、少し遅れて椛島義夫森下圭介2人部らに合流して計5人が創立メンバーとなり、Aプロ渋谷区代々木にその拠点構えた東京ムービー営業担当しAプロ制作担当として業務提携資本関係なし)という形を取った。そして部の弟でもある楠部三吉郎東京ムービー入社し制作管理スタッフとして兄の大吉郎を支えた。やがて東映動画劇場長編アニメから新人中心としたテレビアニメ制作へと方向転換始めると、東映動画長編スタッフ中堅スタッフ続々Aプロ移籍して来る。これら移籍組の小山礼司、吉田茂承大塚康生宮崎駿高畑勲小田部羊一らと定期採用育成され当時新人中村英一といったアニメーター演出家東京ムービー代表作である『オバケのQ太郎』『巨人の星』『ルパン三世 (TV第1シリーズ)『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『天才バカボン』など、数多く作品手掛けた作画・演出スタッフの他に美術部門仕上げ部門擁して最盛時にはテレビアニメ5作品同時制作誇っていた。しかし、1974年昭和49年)に創立者楠部大吉郎病気1年間療養したこと、更に東京ムービー藤岡日本市場への関心失いアメリカ市場開拓のために奔走しているうちに東京ムービー製作作品本数減少したこうした背景経営危機迎えたことで実制作のみの体制限界感じた部は自社企画制作をする会社にするため、1976年昭和51年)の『元祖天才バカボン』を最後に東京ムービーとの提携円満解消して独立した。こうしてAプロ1976年昭和51年9月9日社名を「シンエイ動画株式会社」に変更し改組した。

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