Aプロダクション時代
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『ホルス』の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折に、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎と大塚康生から、『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていた高畑は、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・小田部羊一の2人が不可欠と、両者に移籍を説得した。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し、小田部は悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。 『ピッピ』では、原作者(アストリッド・リンドグレーン)との交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、高畑は東映動画の(残った)仲間に申し訳ないという思いを抱いたという。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当したのも、そうした状況で受けた仕事の一つだった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「のちのルパンシリーズの原型を作り上げた」とされるが、[要出典]高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任を取りたくない回もあります」と述べている。 1972年に映画『パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の演出を務める。この映画の制作に際しては『ピッピ』で作りかけた世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)が活用された。脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる[要出典]。
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Aプロダクション時代
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「シンエイ動画」の記事における「Aプロダクション時代」の解説
Aプロダクション(以下Aプロ)の名前は、「最初の文字であるA、エースという意味などで何となくつけた」という(創立者・楠部大吉郎の弁)。 テレビアニメの黎明期に人形劇団出身者によって創立された東京ムービーがテレビアニメ『ビッグX』で経営危機に陥り、その失敗を踏まえて制作体勢を整えようとした。そこで当時の東京ムービーの社長であった藤岡豊が東映動画(現:東映アニメーション)から独立したアニメーター、楠部大吉郎に声をかけたことが創立のきっかけだった。そして楠部は、東映動画の新人アニメーターだった芝山努・小林治に声をかけ、少し遅れて椛島義夫・森下圭介の2人が楠部らに合流して計5人が創立メンバーとなり、Aプロは渋谷区代々木にその拠点を構えた。 東京ムービーは営業を担当し、Aプロは制作担当として業務提携(資本関係なし)という形を取った。そして楠部の弟でもある楠部三吉郎が東京ムービーに入社し、制作管理スタッフとして兄の大吉郎を支えた。やがて東映動画も劇場長編アニメから新人を中心としたテレビアニメ制作へと方向転換を始めると、東映動画の長編スタッフ、中堅のスタッフが続々とAプロへ移籍して来る。これら移籍組の小山礼司、吉田茂承、大塚康生、宮崎駿、高畑勲、小田部羊一らと定期採用で育成された当時の新人、中村英一といったアニメーターや演出家が東京ムービーの代表作である『オバケのQ太郎』『巨人の星』『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『天才バカボン』など、数多くの作品を手掛けた。 作画・演出スタッフの他に美術部門・仕上げ部門も擁して、最盛時にはテレビアニメ5作品の同時制作を誇っていた。しかし、1974年(昭和49年)に創立者の楠部大吉郎が病気で1年間療養したこと、更に東京ムービーの藤岡が日本市場への関心を失い、アメリカ市場開拓のために奔走しているうちに東京ムービー製作作品の本数が減少した。こうした背景と経営の危機を迎えたことで実制作のみの体制に限界を感じた楠部は自社で企画・制作をする会社にするため、1976年(昭和51年)の『元祖天才バカボン』を最後に東京ムービーとの提携を円満解消して独立した。こうしてAプロは1976年(昭和51年)9月9日に社名を「シンエイ動画株式会社」に変更し、改組した。
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