4競馬場の開設と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 04:57 UTC 版)
「南関東公営競馬」の記事における「4競馬場の開設と発展」の解説
南関東公営競馬を構成している4競馬場は、いずれも第二次世界大戦終結後に建設されたものである。それぞれ直接の前身としては 浦和競馬場(1947年開場)←粕壁競馬場(1947年廃止) 船橋競馬場(1950年開場)←柏競馬場(1952年廃止) 大井競馬場(1950年開場)←八王子競馬場(1949年廃止) 川崎競馬場(1949年開場)←戸塚競馬場(1954年廃止) が挙げられる。これらは少なくとも戦中の軍馬資源保護法に基づいて競馬を施行し、戦後も競馬法による公営化以前の地方競馬法時代には各都県の馬匹連合によって競馬が執り行われたが、概して交通の便が悪く開催成績は低迷していた。新興の公営競技である競輪や競艇が比較的中心部に立地していたこともあり、1950年までに公共交通機関によるアクセスが容易な現在の位置への競馬場移転が進められる。また早くも1954年2月1日には関東地方競馬組合が設立され、主催者間の調整が進められる下地となった。これにより、とりわけ八王子時代は1800万円程度だった開催1日当たりの売上が大井移転後は8600万円まで急増するなど、南関東公営競馬は順調に発展を続けていく。1955年には4場合わせて90億円ほどだった売上は5年後の1960年には200億円近くと倍増し、1969年度にはついに1000億円の大台を突破した。 また、この黎明期の時代には様々な進取の施策が取り入れられている。一例として、1948年3月にはスターティングゲートを、1950年4月にはパトロール・フィルムを国営競馬に先駆けて導入。競馬施行の公平性をいち早く担保した。馬券発売におけるトータリゼーターの導入も、1956年9月の浦和競馬場の例が本邦初である。また戦後直後は食糧増産のために馬産の再開が遅れたことから、大井はオーストラリアより1952年に牝馬30頭、翌1953年にも同じく牡馬6頭・牝馬14頭のサラブレッドを独自に輸入。これらの濠サラからは国営競馬に転じて天皇賞・秋を制したオパールオーキツド、ミツドフアームらの強豪が現れた。またそれ以前にも川崎の開設記念や船橋の平和賞のように独自に特別レースを制定していた例はあったが、1955年より南関東競馬として重賞制度の運用を開始する。東京大賞典や金盃のような現在まで60回近い回次を数える重賞競走たちが、その後の数年間で相次いで創設された。 人材の面でも従来の各競馬場や羽田競馬場系はもとより、大井競馬場では高崎出身の塩野七郎門下が一大派閥を形成し、また戦前は東海地方を拠点に武田文吾らに対して「東の山本」と謳われた栗田金吾も大井で厩舎を開業するなど、関東一円、さらには全国各地から人材が集まった。さきほど挙げた濠サラ購買に当たって実地に飛んだ得居喜一も、陸軍騎兵学校出身の元中佐であり、戦前は軍馬購買にその手腕を発揮した人物である。さらには啓衆社の創業者であった白井新平は戦前に引き続き地方競馬との繋がりを保ち、1960年より中央競馬の啓衆社賞の南関東版といえる公営日本一を制定するなどしている。 競走馬についても、サラブレッドは高額の賞金を狙う国営競馬、中央競馬からの移籍馬がおおむね上位を形成していたが、早くも1951年には川崎の抽選馬出身のキヨフジが国営競馬へ移籍し優駿牝馬を制している。その後はゴールデンウエーブ、ダイゴホマレ、オンスロート、タカマガハラなどが中央競馬へと移籍して華々しい戦績を残したほか、船橋の出川己代造調教師が管理したダイニコトブキ、ダイサンコトブキらは生え抜きのサラブレッドとして春の鞍と秋の鞍を制覇するなど活躍。1964年からは東京王冠賞が創設されたことで南関東三冠が成立したが、1967年にこれを初めて達成したヒカルタカイは翌年中央競馬へ移籍すると、天皇賞 (春)で2.8秒差の大差勝ちを収めている。またアングロアラブでは早々にホウセント、フクパークの活躍により中央競馬に地方競馬の自由購買馬が参戦できなくなったことから、全国の地方競馬場の強豪らが賞金の高い南関東へと集まった。タカトシ、ミヤマシユーホー、タガミホマレ、センジユスガタなどがその代表例である。中にはトモスベビー、センジユのように、サラブレッド系競走へと挑戦し勝利する名馬も表れた。
※この「4競馬場の開設と発展」の解説は、「南関東公営競馬」の解説の一部です。
「4競馬場の開設と発展」を含む「南関東公営競馬」の記事については、「南関東公営競馬」の概要を参照ください。
- 4競馬場の開設と発展のページへのリンク