1990年代:id SoftwareとIon Storm
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「ジョン・ロメロ」の記事における「1990年代:id SoftwareとIon Storm」の解説
ロメロは1989年3月にルイジアナ州シュリーブポートに移り、Softdiskの特別プロジェクト部門のプログラマーとして入社した。PCの月刊ディスク誌『Big Blue Disk』を数ヶ月手伝った後、正式に同部門に配属され、その後1990年7月に「Gamer's Edge」というPCゲーム部門(元は「PCRcade」)を立ち上げた。ロメロはカンザスシティでフリーランスとして働いていたジョン・D・カーマックをこの部門に採用し、Softdiskのアート部門からエイドリアン・カーマックをこの部門に移し、そしてトム・ホールを説得して夜に出社させて、ゲームデザインを手伝わせた。ロメロ達は1991年2月にSoftdiskを退社し、id Softwareを設立した。ロメロは、1991年の創業から1996年までid Softwareで勤務していた。彼は『Commander Keen』『Wolfenstein 3D』『Doom』『Doom II: Hell on Earth』と『Quake』を含むいくつかの画期的なゲームの作成に携わった。彼は『Heretic』および『Hexen』でエグゼクティブ・プロデューサー(およびゲームデザイナー)を担った。彼はDoomの最初のエピソードのほとんどと、Quakeのステージの4分の1、『Commander Keen』『Wolfenstein 3D: Spear of Destiny』のステージの半分を設計した。彼は、id Softwareで彼らのゲームを制作するためにDoomEd(レベルエディター)、QuakeEd (レベルエディター)、DM(デスマッチの起動用)、DWANGOクライアント(ゲームをDWANGOのサーバーに接続するため)、TED5(『Commander Keen』シリーズ、『Wolfenstein 3D:Spear of Destiny』用のレベルエディター)、IGRAB(アセットを取得してWADファイルに入れる)、Quakeまでのすべてのゲームのインストーラー、ゲームの設定に使用されるSETUPプログラムなどを書いた。ロメロは、WeAreDevelopers Conference 2017での基調講演で、この期間をターボモードと名付け、10人未満の開発者のチームで5年半の間に28のゲームを作成したことを強調した。 Doom IIの第30ステージ「Icon of Sin」では、ボスは額から破片が抜け落ちた巨大なデーモンの頭であると考えられている。最初にデーモンを見た際に歪んだ悪魔のメッセージが再生される。実際には、ジョン・ロメロが「ゲームに勝つには、私を殺さなければならない、ジョン・ロメロ!」 と話しており、それを逆にして歪ませて悪魔の聖歌のように聞こえるようにした。「noclip」チートを使用してボスに入ると、柱に串刺しになっているロメロの切断された頭部を見ることができる。プレイヤーはリフトを作動させてそれに乗った後、ロケットをその露出した脳に向けて発射することにより、ボス(noclipチートなし)を倒す。ロメロの頭部は、ヒット検出点として機能する。彼が「死んだ」とき、ボスは殺されてゲームは終了する。Doomの20周年を祝う2013 IGN Doomプレイスルーで、ロメロは最後のボスに彼の頭を入れたことと逆効果音についての裏話を披露し、それはどちらも開発チームメンバー間の仲間内のジョークのいたずらの結果であった。 Quakeの制作中、ロメロは将来のidの方向性を巡ってジョン・カーマックと衝突した。ロメロは妥協せずに彼の厳しいビジョンに沿ってゲームを進めることを望んだが、カーマックはプロジェクトが完成に向けて着実に進歩しなければならないと主張し、ロメロが他の開発者ほど仕事をしていないと非難した。ロメロは彼のビジョンを弱め、ゲームを完成させるための1か月にわたるデスマーチ努力に参加したが、社内の緊張は解決されず、ロメロは辞職を余儀なくされた。1997年のインタビューでロメロは以下のように述べている:「Quakeを完成させた後に辞めることは正しい選択だった。私はidのメンバーと仲良くしていて、何年も友人だったのでとても簡単だった」。 後に、ロメロはid時代の同僚のトム・ホールとテキサス州ダラスにIon Stormを共同設立し、そこで彼は『大刀』の設計・制作を行った。この野心的な一人称シューティングゲームは、1997年にその年のクリスマスショッピングシーズンに発売されることが発表された。しかし、この発売日はその後の数か月に何度も延期してしまい、ゲームは否定的な報道を集め始めた。2010年春、Gamesauceは表紙でロメロを取り上げ、ブレンダ・ブラスウェイトによって書かれたロメロへの詳細なインタビューを掲載した。インタビューで、ロメロは悪名高い『大刀』の広告を公に謝罪した。特に、「ジョン・ロメロは君を彼の女にしようとしている…しゃぶれ」(John Romero's About To Make You His Bitch....Suck it down)と謳った1997年の広告は、ゲーマーとゲームメディアの間で論争を引き起こした。ゲームの大規模な事前の誇大広告とその後の遅延(2000年4月までリリースされなかった)は、ゲームが漸く完成した際に受けたレビューが悪かったために悪化した。リリース時に『大刀』は批評家に酷評され、数多くの「最悪のゲームトップ10」リストに登場した。この間、ロメロは殺害されたと噂されており、銃創を負った彼の遺体の写真がインターネットを通じて広まった。ロメロ自身が後に写真は『Texas Monthly』誌用に撮影されたものであるとし、その上で「多分彼は撮るべきではなかった」と語っている。ロメロは、ホールの新作『Anachronox』が発売され、その後Ionのダラス本社が閉鎖された直後、ホールと共にIonを辞めた。
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