1783年~現在
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「ゴツカ・サンド島」の記事における「1783年~現在」の解説
1783年以降、島は私益を求めて開発されるようになった。最初は賃貸借の形で始まり、1806年には私有財産として行われた。島の中心は当時、1784年に建設されたガムラ・ゴーデン(Gamla gården; 「古い集落」)集落で、のちにニービゲット(Nybygget; 「新設地」)と呼ばれるようになった。集落には小さな農場があったが、牧畜と森林開拓が主要な活動であった。開拓に関しては、風力で動かすノコギリが2台作られ、木材の一部は集落付近への造船所の建設に供された。当時の人口は島全体で100人に上ったと推定される。 島の開発を試みた私有資本はすべて破産し、その最後となった1857年の後、スウェーデン政府が島を1859年と1861年の2度にわたって購入し、ブリェドサンドスッデ付近に灯台を建設した。灯台近くの集落は島の新たな中心となり、今日に至っている。1883年、2つ目の灯台がテルヌッデンに築かれ、1913年まで稼働していた。ブリェドサンドスッデ灯台の操作には5人、テルヌッデン灯台には2人が携わっており、彼らとその家族が島の定住者となった。ただし季節によっては他の経済活動も行われており、特に森林開発は1890年代と1920年代に盛んに行なわれた。開発を進めるにあたり、短い鉄道が1894年に建設され、1922~24年には10kmに延伸された。森林の開発、さらに家畜の放牧による草地の減少は、砂丘の流動化をもたらし、集落を砂に埋まる危機に脅かした。住民はビーチグラスを植えたり障害物を立てるなどしてこの事態に対抗した。 戦間期になると、島はバルト海の真ん中にあるという地政的条件から軍事関係にも用いられた。第二次世界大戦中には、特にバルト三国から逃れてきた1000人を超える難民が島に上陸している。 ゴツカ・サンド島は1909年に国立公園に指定され、同時に指定された8か所とともに、スウェーデンおよびヨーロッパにおける最初の国立公園となった。公園の範囲が1910年に定められ、西側のわずか3.7km2の小さな区域のみが指定区域となった。作家・画家のアルバート・エングストーム(英語版)は20世紀前半に島を世に知らしめ、島の全域保護のために尽力し、特に1923年にはスウェーデン自然保護協会に対してこの企画に取り組むよう働きかけるなどしている。その主たる目標は、当時進行していた森林開発から島を保護することであった。 国立公園を島の全域に拡張するというエングストームの願いが叶ったのはようやく1963年になってからであった。同年にはブリェドサンドスッデにあった学校が閉校となり、わずかに残っていた島民は本拠地ゴットランドの家へ返されることとなった。その後1969~70年にかけて灯台が自動化され、国立公園で働く3人のみが残されることとなった。並行して観光化が進み、1960年代には毎年1,000人という比較的安定した数の観光客がゴットランドやフォーレ島から訪れている。本土からの直行便が1978年に開業すると観光客の数も年2,500人にまで増大し、さらに観光協会の設立によって再び増加した。ゴツカ・サンド地域資源保全協会(Gotska Sandöns Hembygdsförening)が1975年に設立され、歴史的建造物の改修・改築に取り組んでおり、また島内に小さな博物館も開業している。 ガムラ・ゴーデンの集落跡 ブリェドサンドスッデ灯台 ブリェドサンドスッデの集落跡とフサードニクの大砲
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