青銅器時代
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青銅器時代(せいどうきじだい)は、考古学ないし歴史学において、石を利用した石器の代わりに青銅を利用した青銅器が主要な道具として使われた時代を指す術語である。
- ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 36-38.
- ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 116.
- ^ 小泉『都市の起源』, p. 152.
- ^ 小泉『都市の起源』, p. 155.
- ^ 西川精一 『新版金属工学入門』p427 アグネ技術センター、2001年
- ^ 『文明の誕生』, p. 114-117.
- ^ 「青銅器時代の沈没船:青銅の原料」 ナショナルジオグラフィック 2010年2月24日 2016年9月7日閲覧
- ^ 小泉『都市の起源』, p. 20-22.
- ^ 『文明の誕生』, p. 128.
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.287-288
- 1 青銅器時代とは
- 2 青銅器時代の概要
- 3 存在しない地域
- 4 関連項目
- 5 外部リンク
初期青銅器時代
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この時代、新石器時代に銅が伝わっているにもかかわらず、初期の段階では青銅が一般的に使われた形跡はない。しかし、この時代に『ギリシャ』らしさが生まれた時代とされ、新石器時代までは西アジアやバルカン半島の他の文化と密接な関係をもっており、地形的な意味での違いでしかなかったが、この時代に至り独特な土器を特徴とする文化(初期ヘラディックII)が誕生、これまでにない大規模な建築物(レルナの瓦屋根の館)も生まれ、社会の階層化がかなり進んでいたと考えられている。 この時代まで、文化の中心地は主にギリシャ北部であったが、このころからギリシャ南部へ移行する。この時代からマケドニア王国が隆盛を迎えるまでこの地域がギリシャ史の中核を成すのであるが、これは栽培物にオリーブ、ブドウが導入されたことが考えられている。また、オリーブから取れるオリーブ油、ブドウから取れるブドウ酒は交易品としても高い価値があり、ギリシャが広い範囲で交流を展開する手段と化した。この時代の集落は海岸に集中しており、これまでの『蓄える戦略』が『交易する戦略』へ移行したことが考えられる。 シロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央の島々では、ケロス=シロス文化と呼ばれる文化が発達しており、大理石を用いた石偶も生まれているこの文化の成立にはそれぞれ異なる天然資源を持つエーゲ海の島々の間で交易が行われていたことが考えられている。また、この時代の後半にはアナトリア(現在のトルコ)と強い関係を持つカストリ・グループという文化集団も現れ、トロイアII市との共通する文化が見られる。過去にはこのカストリ・グループの人々がアナトリアから侵入してエーゲ海の初期青銅器文化を滅亡させたと考えられていたが、シロス島ハランドリアニ遺跡の墓域状況から敵対していたのではなく、交流していたことが想像されている。 ギリシャ本土ではウアフィルニスと呼ばれる釉を使用した土器を指標として文化(初期ヘラデックII、もしくはコラクウ文化)が広がっており、特徴的な土器も存在する。また、集落跡も大規模なものが見られ、ギリシャにおける最初の都市化が行われた時代と考えられており、集落跡からは印章や封泥が出土、集落中心部の大規模な建物を中心に経済活動が行われたことが推測されている。 また、ギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流が行われていた跡が見られるが、クレタ島のみは独自の歩みを営んでいたとされ、この時代の後半(初期ヘラディックII末からIII末まで)にギリシャ本土やエーゲ海に存在した村落を襲った破壊をクレタ島は逃れていることからそう考えられている。 上記の破壊活動は前2200年ごろに行われたと考えられ、焼失した建物も見られ、レルナの「瓦屋根の館」は焼け跡が見られ、その崩壊した地層の上では原ミニュアス土器や彩文土器を伴う新たな文化が確認されており、この時点で現代につながる『ギリシャ人』がギリシャに到達したという考えが現在、有力視されているが、一部地域では土器の出土後の焼失が確認されており、この考えの確定を困難にしている現状が存在する。
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