黒部温泉会社
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1922年(大正11年) - 東洋アルミナムにより、黒部温泉会社が設立された。そして、旧愛本温泉の権利と建物を買い取った。また、黒薙等の温泉の財産と権利を買収し、桃原の土地買収を始めた。山田胖の著「宇奈月温泉由来」によれば、開発調査中の山田が、沸かし湯となっていた愛本温泉に入浴中に、他の客が源泉で水を加えれば(流速が増し)温度が下がらないはずだというのに対して、樋(とい)ではなくパイプを使い圧力をかけて流速を増し、到達時間を短縮すれば引湯の温度が下がらないと自ら述べたという。 1922年(大正11年)7月22日 - 高峰譲吉が死去。この後、東洋アルミナムによる黒部川での事業展開は縮小し、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結された。黒部温泉会社(東洋アルミナム)は、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し温泉街を作ろうとしはじめた。同じ年、東洋アルミナムは第一次世界大戦終結に伴う景気悪化に伴うアメリカ合衆国のアルミ会社の事業撤退や高峰の死去を受けてアルミ製造をあきらめ、目的を電力開発のみとし、黒部水力株式会社と改称される。三共の塩原又策は、東洋アルミナムの全株式を日本電力に譲渡、東洋アルミナムの社長には日本電力の山岡順太郎が就任した。宇奈月の地名は、当時の日本電力(現関西電力の前身)社長・山岡順太郎が名付け親とされる。 1923年(大正12年) - 黒部鉄道(現・富山地方鉄道)により資材運搬を主な目的として旅客も乗せる、当時の三日市町の三日市駅(1969年廃止。現JR黒部駅に隣接していた。)と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通した。これにより、温泉に進出しようとする者が出始めた。 1923年(大正12年)11月末 - 山田胖は黒薙温泉からの引湯管を設置した。この引湯管は旧愛本温泉の引湯樋に替わる物で愛本温泉の引湯ルートに沿って設置されたものであった。松材をくりぬいたパイプを使い温泉が自噴する圧力を保って流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届いた。このため、冬でも55℃の温度が確保されることとなった。 1924年(大正13年) - 黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として経営した。それとともに、旅館を経営しようとする者に自社が購入した土地と温泉を斡旋する際に3万円を融資した。この後、延対寺別館、宇奈月富山館、桃原館などが開かれた。その後、1927年(昭和2年)には河内屋なども進出し、十数件の旅館、みやげ物店などもできて温泉街の体裁が整っていく。 1925年(大正14年) - 日本電力が黒部水力株式会社を併合した。 1927年(昭和2年)この年の時点での旅館数は12軒(和田旅館、桃原館、延対寺荘、富山館、喜泉閣、アルプス館、黒部荘、望月、日の出館、水月旅館、堀旅館、小柳旅館)。 9月5日 - 内山小学校宇奈月分校設置。 10月20日 - 宇奈月神社竣工。 1928年(昭和3年)12月5日 - 柳河原発電所の完成をもって、山田胖は黒部を去り@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後に[要出典]奥多摩工業株式会社の社長に転じた。山田が調査を開始してから11年目であった。 1935年(昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、大審院判決により「権利の濫用」として上告棄却された(宇奈月温泉事件)。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。 1945年(昭和20年)8月1日 - 太平洋戦争の戦況悪化の影響で全旅館が休業(この時点での旅館は「小柳館」「桃原館」「坂井館」「富山館」「延楽館」「金山館」「水月旅館」「河内旅館」「延對寺」の計9軒)。終戦後は段階的に営業を再開。
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