(十代)鳥飼次郎正時
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鳥飼と同じ内堀にある金子権太左衛門時中の二男の次郎が養子に入り、鳥飼正時となり正直の家督を相続した。金子家の由緒書には詳しくかかれてはいないが、助右衛門同様定綱の時代より家臣となっており、両家はその当時からの250年以上の付き合いである。正時の弟三郎が樋口家へ養子となり家督を継いでいる。 正時には妻「より」との間に嫡子正長と二人の娘「礼」「くに」をもうけたが正長は家督を相続する前に没している。正時の人生は、幕末の歴史の激流に翻弄されながらも、主君を助け義を重んじる桑名武士の姿そのものであった。 京都守護職で兄松平容保と共にある主君松平定敬のお供で京都にあり、新撰組と肩を並べていたが、慶応3年(1867年)容保が京都守護職を解かれ将軍徳川慶喜のいる大坂城へと退いた。翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いがはじまり、朝敵と見なされた将軍慶喜は幕府軍艦開陽に乗り込み江戸に戻ることとし、定敬も容保らと共に慶喜に追従した。残された正時ら桑名藩士は江戸へ戻った主君を追うように紀伊半島を迂回して鳥羽国崎まできたが、既に桑名に残っていた恭順派家老らにより定敬の義弟である万之助(13歳)を立て定教とし、桑名城を新政府軍へ明け渡ししてしまったため帰国もならず、対岸の知多横須賀上陸し陸路江戸へ向かった。 江戸では、新政府軍(偽勅により官軍と自称する薩長連合)の足音が間近に聞こえる様になると、将軍徳川慶喜は西軍から睨まれている定敬を江戸から追い払おうと、桑名藩の陣屋のある柏崎で謹慎恭順する様にと命じる。定敬は品川沖からプロシア船で横浜を出港し、箱館を経由して新潟柏崎に到着した。同行した100名の家臣の中に実父金子権太左衛門もあった。正時は立見鑑三郎(後の陸軍中将立見尚文)らと共に陸路柏崎へ向かい、柏崎到着後軍制を再編成し、致人隊(隊長松浦秀八)に加わった。その後、副長の馬場三九郎に代わり正時が副長となり、柏崎から陸路会津若松に到着した。 同年8月23日早朝、会津藩白虎隊らは街道を進んでくる西軍の進路を断つため十六橋を破壊を行うことし、桑名藩士は会津若松の北東に位置する大寺口に集結し、十六橋を渡れなくなって迂回してくる西軍を待ち伏せした。しかし、橋が堅固で破壊に手間取っているうちに新政府軍に攻められ、十六橋を突破した新政府軍は戸ノ口原へと進んでいった。大寺口で待ち受ける桑名藩は銃声が戸ノ口原方面へ移動するのを聞き、十六橋が突破されたことを知り、迂回して滝沢本陣方面へ急行した。 滝沢本陣近くに到着したときには、あたりは既に新政府軍に押さえられており、本陣の西方にある蚕養(こがい)神社に到着したのは午後二時すぎであった。そこには薩摩土佐兵の一団がいたので、雷神隊隊長立見鑑三郎は機転を利かせ、隊を整列させ『御味方なり!』と敵軍に向かい整然と行進した。だが、激戦で汚れた服装や姿により見抜かれることになったが、意表を突くことで蚕養神社を確保することが出来た。 その数刻前のこと、滝沢本陣にいた定敬達は鶴ヶ城に向かう兄容保と別れ塩川村へ向かっていた。それを知るよしもない桑名藩士は何とか突破して入城しようと数手に別れ突撃を敢行したが、城下は城を取り囲む西軍に押さえられており、会津戦争最大の激戦が繰り広げられ、桑名藩も苦戦を強いられた。こうした中、馬喰町(ばくろうまち:現在は博労町と表記されている)で部下を叱咤激励していた副長正時は銃弾に倒れた。死を覚悟した正時は仲の良かった雷神隊副長富永太兵衛に介錯を頼み、その首級は実弟樋口三郎安時に託された。 入城を果たすことができないまま蚕養神社に戻った立見鑑三郎ら桑名藩士は、藩主の行方を知ることが出来、無念のうちに引き上げを決意し、藩主の後を追い塩川村へ移動したのであった。その折、正時の首級は樋口三郎によって塩川村阿弥陀寺に葬られた。その後、弟三郎や実父金子権太左右衛門は戦いを続けた。 正時の遺髪(額髪)は3年後に嗣子正長のもとに帰り、実家にあった臍帯と共に桑名城南の佛光山十念寺に納められた。 ■慶応4年・明治元年(1868年)8月23日没、享年28。法名、賢良院人誉正時居士。
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