飛鳥稲淵宮殿跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 飛鳥稲淵宮殿跡の意味・解説 

飛鳥稲淵宮殿跡

名称: 飛鳥稲淵宮殿跡
ふりがな あすかいなぶちきゅうでんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 奈良県
市区町村 高市郡明日香村
管理団体
指定年月日 1979.03.20(昭和54.03.20)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成16.02.27
解説文: S54-12-050[[飛鳥稲淵宮殿跡]あすかいなぶちきゅうでんあと].txt: 飛鳥川の上流、稲淵川左岸接す平坦地で、昭和5152年発掘調査により、4面東西棟を中心に同棟を北及び東に囲む片面廂の東西棟1・南北棟2の遺構一部検出され極めて計画性規格性に富んだ整然とした建築遺構であることが判明し、この遺跡7世紀後半営まれ宮殿跡であるという推定のもとに、取りあえずその発掘部分のみを「飛鳥稲淵宮殿跡」として昭和54年3月20日史跡指定した当時発掘調査結果、これらの規格性に富んだ建築遺構は、建替えもなく、その内側の石敷4面廂の東西棟のさらに南に広く延びて敷きつめられていることが確認されまた、これらの建物遺構発掘地の平坦部分でさらに南及び西に数棟存在することも確認されていたので、この宮殿跡の歴史的重要性かんがみ、右の平坦部分中心に1万数百平方メートル追加指定する
S54-6-042飛鳥稲淵宮殿跡.txt: 飛鳥川の上流、稲淵川左岸接す通称フグリ山」の麓に、およそ10000平方メートル前後南北狭長な平坦な水田地がある。坂田寺跡の西方200メートル地点である。
 この地点中央720平方メートル飛鳥国営公園祝戸地区駐車場建設予定地とされたことから、昭和5152年奈良国立文化財研究所によって発掘調査実施され極めて顕著な遺構検出された。検出され主な遺構は、掘立柱建物4棟石敷広場とであるが、発掘区内のみについていえば、まず中央南北14メートル東西18メートル上の1辺40センチ前後花崗岩質の玉石全面整然と敷きつめられており、それに南接して桁行5間以上梁行4間のおそらく4面廂の建物考えてよい東西棟-身舎柱間寸法メートル等間、25センチメートル前後-があり、次いで接して桁行8間以上梁行4間の南廂の東西棟、次いで接して上記東西棟2を「コ」の字型に囲むように桁行15梁行4間の西廂南北棟及びその建物の南に続いて桁行2間以上梁行4間の同様に西廂をもつ南北棟のあることが確認された。そして、最初4面東西以外の3棟身舎柱間2.24メートル径約18センチメートル同一であり、したがって、これらの建物同一規模のものである可能性濃厚である。また、最初4面東西棟と北側の南廂東西棟との東側列が南北一直線位置し東側西廂南北2棟筋が一致し、さらに4面東西棟の妻位置上記2棟中間位置し最後に4棟全体建物間距離が3.8メートル等間隔配置されていることが知られるから極めて計画的あり、か規格性にすぐれた建物配置であったことが認められる。そして、以上のことから南側北側2棟桁行一致するものと予想されるから、両者遺構の西半部は未調査であるが、それぞれ9間と14間の建物であったことが復原できる。
 一方発掘周辺の地形考慮すると、東側2棟南北棟と同様な南北棟の配置想定も困難ではないので、もしそのように想定できるとすれば調査担当者初見によって石敷遺構もさらに西・南方に広がっているようであるから、本遺跡4面東西棟を中心に東西対称南北2棟配置されることになり、遺構性格明らかにするうえで重要な問題提起することになる。
 然るに遺跡は、検出した遺構重複がなく建替えなどは考えられないうえに掘方内から出土した土器などから7世紀中頃造営され7世紀前後には廃絶した思われる比較短期間のものであり、造営用いられ基準尺は前期難波宮跡の内裏東方の門のそれに類似する。さらにまた本遺跡は、瓦類出土しないうえに、伝飛鳥板蓋宮跡宮滝遺跡のように建物間に石敷面を有すること、そして上記復原による建物配置法隆寺東創立以前地下遺構として検出された[[斑鳩]いかるが]宮跡といわれるものに近似することなどを総合すると、その性格7世紀中頃以降造営され宮殿跡であるとみるほかはないといえよう。これを文献的有力な候補である『日本書紀』孝徳紀の「倭飛鳥河辺行宮」とも考えられる断定することは今後検討をまちたい。
 したがって昭和54年は、宮跡としての遺構重要性鑑み指定可能な駐車場建設予定地指定して保存することとしその周辺については条件整い次第追加指定審議することとする
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  飛鳥寺跡  飛鳥水落遺跡  飛鳥池工房遺跡  飛鳥稲淵宮殿跡  飯野坂古墳群  首里城跡  馬渡埴輪製作遺跡

飛鳥稲淵宮殿跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/05 04:42 UTC 版)

飛鳥稲淵宮殿跡

飛鳥稲淵宮殿跡(あすかいなぶちきゅうでんあと)は、奈良県高市郡明日香村大字稲淵(稲渕)に所在する飛鳥時代の宮殿跡である。本宮殿跡は、飛鳥川の上流、稲淵川左岸の平坦な水田地にある。

概要

本宮殿跡の宮名については、『日本書紀孝徳天皇653年白雉4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)が難波宮から飛鳥宮に帰り、一時期過ごした「飛鳥川辺行宮」(あすかかわべのかりみや)にあてる説があるが、なお、今後の検討が必要とされている。

国営飛鳥歴史公園祝戸地区の駐車場建設予定地とされたことから発掘調査が実施され、極めて計画性・規格性に富んだ整然とした建築遺構であることが判明、この遺跡が7世紀後半に営まれた宮殿跡であるという推定のもとに、国の史跡として1979年昭和54年)3月20日に発掘部分のみが指定され[1]、その周辺が1981年(昭和56年)5月に追加指定された。

発掘調査は、1976年(昭和51年)と1977年(昭和52年)の両年に、奈良国立文化財研究所によって行われ、遺跡は南北約170メートル、東西約60メートルの広さであることが判明した。主な遺構は、東西棟2軒、南北棟2軒の計4軒の掘立柱建物と建物の間に敷き詰められた石敷きである。東西棟は発掘地の中央に位置し、東西5間以上、南北4間以上という大規模な建物である。東に約4メートル離れて、南北に2軒が並ぶ南北棟を配している。これら建物は、相互に柱筋を揃えるなどの規格性に優れ、建物を等間隔で配置するなど、きわめて計画的に建てられていることが分かる。これらの規格性・計画性を考慮に入れて建物の規模や配置を復元すると、中央の建物は桁行9間(東西総長24.6メートル)、梁行4間(南北総長10.2メートル)の四面廂付の建物になり、北にある東西棟は桁行14間(総長24.6メートル)、梁行4間(8.8メートル)の南片廂つき建物になる。東の2軒の南北棟は、梁行き4間(8.8メートル)桁行15間(26.4メートル)の西片廂付建物になる。この復元により、西側にも東側の2軒と同様な南北棟があったと推測でき、中央の四面廂付建物を正殿とし、その北の建物を後殿、東西の南北棟を脇殿とすると、東西対称の整然とした建物配置が考えられる。建物の年代は、出土土器などから7世紀中頃に造営され、同世紀末に火災により焼失したことが分かる。

脚注

  1. ^ 国指定文化財等データベース:飛鳥稲淵宮殿跡「詳細解説」より - 文化庁サイト

参考文献

  • 木下正史 著「飛鳥稻淵宮殿跡」、文化庁文化財保護部史跡研究会監修 編『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0927-7 

関連項目

座標: 北緯34度27分46.4秒 東経135度49分22.4秒 / 北緯34.462889度 東経135.822889度 / 34.462889; 135.822889



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「飛鳥稲淵宮殿跡」の関連用語

飛鳥稲淵宮殿跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



飛鳥稲淵宮殿跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの飛鳥稲淵宮殿跡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS