音曲的特色と聴衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
「クドキ」も参照 録音機器のない時代の芸能については、音声資料を欠くことから、その音曲的特色を説明するのは容易ではないが、江戸中期の儒学者太宰春台の著作『独語(ひとりごと)』には、説経節について、 其の声も只悲しきの声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にはあらず。三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつやうなれども、甚だしき淫声にはあらず。言はば哀みて傷(やぶ)ると言ふ声なり。 — 太宰春台『独語』 という記述がある。 春台の説くところによれば、浄瑠璃が「淫声」(「みだらな声」または「人の意表を突くような歌い方」)であるのに対し、説経節の語りは、三味線をともなってからは多少「うきたつ」ところが生じたものの、哀しみのあまり傷つき、破れてしまったかのような哀切の声(「只悲しきの声」)であるという。尾州家本『歌舞伎絵巻』でも、これを裏づけるかのように、説経節の聴き手のうちの何人かは顔をおおって泣いている。 古説経の節譜としては、 コトバ(詞) フシ(節) クドキ(口説) フシクドキ ツメ(詰) フシツメ の6種が確認されており、そのうち、「フシ」「フシクドキ」「フシツメ」は歌謡的要素を含むと考えられる。 基本的には、「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い、あっさりとした語り方であったろうと考えられるのに対し、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと思われる。「クドキ」「ツメ」以下はわずかしかあらわれないが、「クドキ」はおそらく沈んだ調子で悲しみの感情を込め、くどく語り、「ツメ」は拷問など緊迫した場面での語りであったろうと考えられる。「フシクドキ」「フシツメ」はそれに節を付けたものであろう。 上の6種以外に、「キリ」「三重」「ワキ」という符号が付される例がまれにあるが、「ワキ」が太夫の補佐役がワキから入り、太夫と合わせ語りをしただろうと考えられるほかは、詳細がよくわかっていない。 説経節の正本には「いたはしや」「あらいたはしや」という言葉が何度も登場するが、与七郎正本『さんせう太夫』を例にとると、フシは20カ所中14カ所、フシクドキは1カ所中1カ所、クドキは1カ所中1カ所、それぞれ「いたはしや」または「あらいたはしや」のフレーズで始まっており、ここに顕著な符合がみられる。他の正本では、この関係がそれほど明瞭でなかったり、「あはれなるかな」「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きにける」のような語が使われる場合もあるにはあったが、「いたはしや」「あらいたはしや」の語を哀感を込めて歌い語るところに説経節の語り口における顕著な特色があったと考えられる。 文政13年(1830年)の喜多村節信『嬉遊笑覧』は宝暦10年(1760年)刊行の『風俗陀羅尼』から「いたはしや 浮世のすみに天満節」という冠付(雑俳の一種)の句を引用し、宝永元年(1704年)頃に江戸の天満八太夫が没した後、天満節はかつての隆盛が嘘のように衰えてしまったことを詠んでいるが、ここでは「いたはしや」の語が説経の語り口をあらわすことも同時に詠み込んでいるのである。 説経節という芸能の淵源は仏教における唱導や説経であったところから、本来的にはきわめて宗教性の強いものであったろうと考えられるが、それは決して理路整然とした仏教教義を説くようなものではなく、中世の民衆がいだいていた救済や転生などの強い願いに直接うったえかける情念的なものであった。中世日本における民衆生活は、商行為としての人身売買が存在しており、また、たび重なる戦乱や一揆のなかで抑圧され、蔓延する疫病や頻発する災害に打ちひしがれる悲惨なものだったのであり、人びとが現世に希望をもてないことも多かったと考えられる。したがって、説経節の語り手のみならず、それに耳を傾ける聴衆もまた、社会的に底辺に近い人びとが多く、主人公の悲惨な境遇や果敢な行動に共感し、身につまされては泣き、あるいは、過激なまでの復讐に溜飲を下げ、そこから自らの魂を解放させていたと考えられるのである。
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